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サビイロ契約

43

 珂月は壁にもたれかかったまま、胸に手を置いて大きく深呼吸した。
 今になって心臓が痛いほど鼓動をくり返している。
 ウァラクはダラザレオスらしいダラザレオスだ。
 アスタルトのような遊び心も、ルザのような獲物に対する執着心も持ち合わせていない。

 珂月はルザが言ったことを深く理解した。
 人間はウァラクに近づいてはいけない。
 肩がかすった程度の理由で、本当に殺されてしまう。

 珂月はふらふらと元オフィスに入った。
 デスクがずらりと並んでいて、社員で溢れていただろうかつての名残が残っている。
 デスクには本や書類や子供の写真などが、そのまま放置されている。
 床にはあらゆる書類が散らばっていて、無数の踏み跡が残されていた。
 ここを掃除する人はいないようだ。

 端っこでは三人のハンターがなにやら話しこんでいて、入ってきた珂月を見て言葉を切ったが、珂月は三人に気づかなかった。
 珂月は窓際にやってくると、床にくずおれた。
 汚れた窓に手をつき、灰色の東京の景色を眺めた。
 低い階からでは、向かいのビルの壁しか見えなかった。

 珂月は留宇が不思議でならなかった。
 あんなに邪険に扱われていながらも、彼はウァラクを好いているようだ。
 突き飛ばされ無視されてもそばにいようとする留宇が、珂月にはちっとも理解できなかった。

「おい」

 背後から声をかけられ、誰もいないと思っていた珂月は派手に肩をびくつかせて振り向いた。
 そこには三人のハンターが珂月を囲むように立っていた。
 珂月は立ちあがりながら、三人を交互に見やった。
 三人とも大柄で汗臭かった。

「お前あんとき新宿にいた奴だろ? ここの奴だったのか?」

 真ん中の熊のような男が言った。

「あのときって?」珂月が言った。
「あんときだよ、ほら、こないだ駅のほうでケモノがたくさん来ただろ。お前、逃げ遅れた奴かばって無茶な真似してたじゃねえか。覚えてないか?」

 男は太い腕で持っていたクロスボウをかかげて見せた。
 珂月はようやく思い至った。
 新宿に飛鶴たちと買いものに来たとき、バイラの襲撃を受け、そのとき駆けつけてきたシンク・ベルのハンターたちだ。

「ああ、あんたか」
「思い出してくれたか? で、お前は?」

 珂月はついさっきもらったシンク・ベルのハンターの証を見せた。
 透明なケースに入った、名刺に毛が生えたようなものだ。

「昨日、ここに入ったハンターだよ」

 ハンター証を確認した男たちは顔を見合わせ、嫌な笑みを浮かべた。

「おいおい、そんななりで大丈夫か? すぐやられっちまいそうじゃねえか。なあ」
「お前いくつだ? えれえ細っこいなあ」

 にやつきを押さえられていない右側の男が、珂月の腰に手をまわして引き寄せた。
 男の薄汚れた服に鼻から突っこみそうになった珂月は、全身の力をかけて踏んばった。
 男の手つきはどこか怪しい。
 珂月は男を睨みつけ、太い指をひきはがして距離を取った。
 三人は警戒し始めた珂月を、愛玩動物でも愛でるような顔で眺めている。

「……ハンター同士でもめごと起こしたら、ペナルティなんだろ」

 珂月が唸るように言うと、男たちは笑いだした。

「ははっ、新入りはここのルールがまだよくわかってないようだなあ。俺たちがあとでゆっくり教えてやるよ」
「俺たちこれから仕事だから、またな」

 三人のハンターは、ひらひら手を振って去って行った。
 行きしなに頬をなでられ、珂月は鳥肌が立った。

 珂月はここでは一人だ。
 誰も助けてくれないし、味方もいない。
 自分の身は自分で守るしかない。

 これからのことを考えると、珂月は内臓が数段落ちこむような心地だった。


   ◆


 一通りビル内をまわり、そろそろ帰ろうかと思い始めたころ、珂月は前方を留宇が歩いているのを見つけた。
 慌てて周囲を見回したが、ウァラクの姿はない。

 ウァラクにべったりだった留宇が一人でどこに行くのか気になった珂月は、そっとあとを追った。
 留宇は手ぶらで廊下を進み、一つのドアを押して姿を消した。
 急いで留宇の消えたドアの前まで来てみると、そこは男子トイレだった。
 珂月は拍子抜けしたが、これはチャンスと考えた。
 留宇と一対一で話せるいい機会だ。

 珂月は少し間をおいてから、そっとトイレの中に入った。
 さぞかし汚いのだろうと身構えたが、トイレはきちんとしていた。
 悪臭もせず、清潔そうだ。
 壁は水色で、小便器が四つ、個室が三つ並んでいる。
 留宇は水道で手を洗っていた。



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あきゅろす。
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