1 その夜、彼の死は決定した。 ◆ 藤里珂月(ふじさとかづき)は、群青色に染まりつつある空を仰ぎながら、帰路を急いでいた。 高架橋の下を通ると、今や一時間に一本しか通らない中央線が頭上を走る音が響いた。 都心を抜けたところにあるこの住宅地は、人の気配がまったくしない。 住人のほとんどは、二年前の異界からの襲撃で殺されるか、家を捨てて田舎に逃げてしまった。 残ったのは廃墟同然の抜け殻と、しぶとく居ついている珂月のようなはぐれ者ばかりだ。 今の世の中、昼でもひとりで外を出歩くことは危険だ。 珂月は十八の誕生日を迎えたが、小柄で華奢な体つきから女性に間違われ、荒んだ男たちに狙われることも少なくない。 珂月が帰ってきたのは、どこにでもある安いワンルームの二階建てアパートだった。 外づけの階段を上り、四つあるうち奥から二番目のドアに鍵を差しこむ。 中に入るとすえた臭いがした。 赤いパーカーを脱いでソファに放り、いつも携帯している愛用のサバイバルナイフを棚の上に置いた。 空気を入れ替えるために窓を開ける。 冷蔵庫の中身を確かめてみたが、次の配給は明日なのでほとんど空っぽだ。 気の利いたものがなかったので、仕方なく水道水を入れたペットボトルを出して飲んだ。 しばらく冷蔵庫に置いておいたので、カルキ臭さが抜けて少しは飲みやすい。 珂月はペットボトルを口元に持ったまま振り返り、硬直した。 開け放たれた窓の外に、誰かがいる。 器用にバランスをとってベランダの縁にしゃがみこみ、膝の上で頬杖をついて珂月を眺めている。 ペットボトルが床に落ち、水が流れていった。 「だ……」 ショックで珂月は思考が停止した。 目が合うとベランダの男はにやりと笑った。 珂月は慌てて棚の上に手を伸ばした。 だが、男は尋常ではないスピードでベランダを蹴って珂月に駆け寄り、その手を押さえた。 蹴られた際に頑丈なベランダがみしりと鳴った。 すさまじい脚力だ。 「いっ!」 右手を高くねじり上げられ、珂月は痛みに呻いた。 なんとか拘束を逃れようとするが、どんなに力をこめてもびくともしない。 鉄の枷にでもかけられたようだ。 涙でかすむ視界で珂月は男を睨んだ。 男は見上げるほど背が高く、珂月と同じ黒髪だが、顔は東洋人のものではない。 鼻が高くて彫りが深く、雰囲気は北欧人に似ている。 ダークグレーのカーゴパンツをはき、黒いタンクトップを着ていて、胸元には大きなモチーフのついた銀のネックレスが光っている。 その整った顔と鋭い眼光、常軌を逸した力から、珂月は男の正体を察した。 「お前、ダラザレオスか……」 男はさらに笑みを深くした。 「ああ。うまそうな匂いにつられてやってきちまったよ。お前、いい匂いがするなあ」 男は切れ長の目を細めて珂月に顔を近づけ、低い声で囁くように言った。 珂月は背中を氷が滑り落ちるのを感じた。 ダラザレオスは、二年前に化けものの軍団を率いて空からやってきた異界の住人だ。 見た目は人間と大差ないが、恐ろしい怪力と優れた五感を有している。 そして、彼らは人の血を好む。 男の薄い唇の隙間から尖った犬歯を見つけ、珂月は心が折れそうになった。 ダラザレオスに目をつけられて生き残った者はいない。 珂月は死を覚悟した。 壁に押しつけられても、珂月は冷たい美貌から目を離せなかった。 「抵抗しねえの? つまんねえなあ」 珂月は両手を爪が食いこむほど握りしめ、泣きそうになる自分を叱咤した。 「どうせ殺すんだろ……やるならさっさとやってくれよ。苦しいのは嫌いだ」 最期くらい格好つけようとそう言ったが、どうしようもなく声が震えて、きちんと言葉になっていたかも怪しい。 それでも珂月は気丈に男の目をまっすぐ見据えた。 唇を噛みしめて嗚咽をこらえる。 心臓はこれで仕事納めだと悟ったのか、はち切れそうなくらい鼓動をくり返していた。 男は値踏みするように珂月を眺めた。 そのわずかな時間も、珂月には途方のない長さに感じられた。 「お前、死にたいのか?」 珂月は思いきり首を振った。 嫌な世の中だし、さしていいこともなかったが、死にたいと思ったことは一度もない。 「ふうん。じゃあ生かしといてやるよ」 「え?」 #→ [戻る] |