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サビイロ契約

36

 珂月は今浩誠の手の届くところにいる。
 満ち足りているとは言えないが、ひとまず落ち着いた日常を送っている。
 だが、それが奪われる日が明日にも来るかもしれない。
 そう考えると、浩誠はめちゃくちゃに胸をかきむしりたい衝動にかられた。

 眠る珂月は幼いころとなんら変わりない。
 浩誠は珂月の額にそっと手を乗せ、身を乗り出して口づけた。

「おやすみ」

 浩誠は極力音を立てないようにゆっくりドアを閉め、仲間のところへ戻った。


   ◆


 そのあとも宴会は続いた。
 アルコールはとっくになくなっているのに、皆ナチュラルハイで騒ぎ続けている。

 ようやく静かになり、そろそろお開きかというころ、入り口のドアがノックされた。
 ジンをちびちび飲んでいた浩誠は飛鶴の肩を叩いた。

「出てくれないか」
「はいはい」

 飛鶴が出迎えに行ったあと、浩誠はぼんやりと珂月の唇の感触を思い返していた。
 誰も見ていなかったのをいいことに、うっかり口づけてしまった。
 どうしてそんなことをしたのか、浩誠は戸惑っていた。

 飛鶴はすぐに戻ってきた。
 その顔は蒼白に近い。
 なにか言いたいようだが言葉が出てこない様子だ。

「どうした?」

 浩誠はただならぬ気配を察した。
 ほかのメンバーも怪訝そうに飛鶴に注目している。

 飛鶴は入り口を指差し、小声で叫んだ。

「シンク・ベルが来てる!」

 浩誠はすぐにグラスを置いて立ち上がり、入り口に続く廊下を覗いた。
 狭い玄関で、散乱したメンバーの靴のあいだに埋もれるようにして、二人の男が背筋を伸ばして立っている。
 手前にいる男はオートクチュールの皺一つない高級スーツを着こんでいる。
 面長の顔で冷たい目をしていて、隙のなさそうな雰囲気だ。
 仕事はできそうだが好印象は持たれにくいタイプだろう。

 そして、奥でドアを開けたまま手で押さえているのは、笠木宗史だった。

 浩誠は表情を引きしめ、知らず知らずのうちに肩に力を入れていた。
 浩誠は笠木をよく思っていない。
 無遠慮に珂月の古傷をえぐる面の皮の厚い男だと認識している。

 浩誠は静かに玄関へ行き、二人の前に立った。

「なんのご用でしょうか」

 あくまで丁寧にたずねた。
 笠木が口を開いた。

「お久しぶりですね榎村さん。突然申し訳ございません。こちらはシンク・ベルの代表取締役の五十井脩吾(いかいしゅうご)です」
「えっ?」

 浩誠はぽかんとして目の前の男を見つめた。
 奥で話を聞いているメンバーたちも目を剥いた。

 シンク・ベルの代表取締役と言えば、浩誠たちのような末端のハンターでさえ知る超大物だ。
 今や新宿で一番権力を持っている人間だ。
 選りすぐりの屈強で乱暴者のハンターをまとめている実力は本物だろうが、彼についての噂はろくなものがない。

 シンク・ベルのハンターはあちこちでもめ事を起こし、理不尽に暴力を働くような連中だが、五十井の一言ですべてなかったことにされている。
 闇に葬った事件は数知れず、それでも五十井に刃向かえる者はいない。
 その非道さから、表ざたにできない職業の者だとか、実はダラザレオスなのではないかとまで言われている。

「初めまして」

 五十井は事務的に挨拶をした。
 浩誠は緊張を悟られないようにしながら、ぎこちなく会釈した。
 彼の機嫌を損ねれば、どんな目に遭わされるかわかったものではない。

「藤里珂月さんはおられるかな」
「……ここにはいませんが……」
「ではどちらにおられるのかな。少し話をさせてもらいたいんだが」

 五十井は無駄な動きを一切せず、山のように構えて有無を言わさぬ目つきで浩誠を見据えた。
 浩誠は下手な隠しごとは無意味だと悟り、少し待つよう告げて、鍵を取って隣の部屋に入った。

 珂月はまだぐっすり眠っていた。
 気持ちよさそうに眠る珂月を起こすのは忍びなかったが、ほかに方法がないので、浩誠は優しく揺り起こした。

 目をこする珂月にことの次第を告げると、珂月は目をまん丸にした。

「え? え? うそ、ほんとに?」
「ああ、今外で待ってもらってるけど――」

 浩誠は途中で話を切った。
 二人のいる部屋のドアが開けられ、五十井が入ってきたからだ。

 五十井は珂月には人好きのする笑顔を見せた。

「寝ていたのか。起こして悪いね。少し話をしたいんだけど、いいかい?」

 珂月は不安そうに浩誠を見たが、浩誠はなにも言えなかった。
 珂月は小さく頷き、温かい布団から出て五十井のそばへ歩み寄った。
 五十井は珂月の背中に手を置き、エスコートするように外へ誘導した。

 アパートの前には、笠木がよく使っている黒いリムジンと、もう一台黒い外車が停まっていた。
 外廊下では笠木が待機していて、五十井が顎を突き出して合図すると、先に外階段を下りてリムジンのドアを開けた。
 珂月がまごついていると、五十井はかがんで珂月と顔の位置を合わせて言った。

「さあ、乗って。大丈夫、すぐ帰してあげるから」

 五十井の手は珂月が乗るまで動きそうもない。
 珂月はちらりとドッグズ・ノーズの本拠地を見上げた。
 開け放たれた入り口の中から、飛鶴たちの心配そうな顔が覗いている。
 浩誠は廊下の手すりに寄りかかり、厳しい目で五十井たちを見下ろしている。

 珂月と目が合った浩誠は固い声で言った。

「バッグ預かっとくから。用が終わったら、取りにおいで」

 珂月はすがるように深く頷いてリムジンに乗りこんだ。
 続いて五十井も乗りこみ、笠木が助手席に乗ると、リムジンは滑るように走り出した。



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