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サビイロ契約

111

 窓の外を大きな影が通り過ぎたのを珂月は見た。
 空を駆ける黒い影には嫌というほど見覚えがあった。

「バイラだ!」

 珂月は叫び、男の手を振りほどいてさっと立ち上がった。
 男がとまどっている隙に鍵の開いている戸を開け、廊下を走って玄関を飛び出し、久方ぶりに外に出た。

 村の上空にたくさんのバイラが旋回している。
 村人たちの叫び声がここまで届いていた。
 珂月は急いで坂道を走り下り、集落に向かった。

 村はてんやわんやの大騒ぎだった。
 子供は泣き叫びながら母親を探して走りまわり、男たちは口ぐちになにやら叫んでわめいている。
 とうとう見つかったとか、なんとかしてくれなどという嘆きが珂月の耳に入ってきた。

 村人たちの中に斎珪の姿があった。
 斎珪はいつも着ている長い白の上着を羽織り、土下座せん勢いで懇願してくる村人たちに囲まれている。

「斎珪さま! お願いいたしますっ」
「斎珪さまのお力でどうか、奴らを祓ってくだせえ!」

 しかし斎珪は村人たちの剣幕にわななくばかりで、言葉もない様子だ。
 珂月は斎珪が欲望にまみれたただの人間だとわかっているので、彼にバイラを退散させる力があるとは到底思えなかった。
 しかし村人たちは斎珪にすがればなんとかなると信じているようで、戦おうとも逃げようともせず、ひたすら斎珪を囲んで拝み倒している。

 珂月はバイラの群れを見上げ、よくよく目を凝らしてみた。
 コオロギの形をしたものや、バッタのようなバイラが甲高い鳴き声を上げながら村を取り囲んでいる。

 珂月は群れのさらに上空に灰色の狼型のバイラがいることに気づいた。
 狼型バイラの背には誰かが乗っている。
 珂月はぱっと顔を輝かせ、村の中心に向かって走り出した。

「ルザー!」

 珂月は走りながら空に向かって叫んだ。

「ルザああっ! ここ! おれここ! ルザあ!」

 叫び、ぴょんぴょん跳ねて大きく手を振る。
 しかし上空の影は珂月に気づいていないのか、変わらぬ速度で旋回するばかりだ。

「ルザ! ルザっ!」

 上ばかり見ていた珂月は村人たちが走ってきたのに気づけなかった。
 一人の男が叫ぶ珂月を後ろからはがいじめにし、思いきり投げ飛ばした。
 地面に転がった珂月を、数人がかりで押さえこんで口を塞ぐ。

「こいつだ! こいつが呼んでるんだ!」
「やっぱりこいつ巴蛇の仲間だったんか!」

 珂月は大の大人にのしかかられて息がつまり、ふりほどこうともがいたが無駄なあがきだった。
 いきりたつ村人たちは珂月を囲み、口ぐちに叫んだ。

「こいつがいると村が全滅しちまうぞ!」
「そうだ、こいつのせいだ!」
「早く殺しちまえ! 誰かなにか持ってこいや!」

 珂月は一人の村人が民家からよく研いだ包丁を持ち出してくるのを見て、息が止まった。
 死に物狂いでもがくが、村人たちも必死に珂月を押さえつける。
 斎珪は村人たちの輪から少し離れたところで放心して立ちすくんでいる。

 包丁を手にした村人が鬼の形相で駆けつけてくる。
 鈍いきらめきを目の当たりにし、珂月は絶叫した。

 それと同時にバイラたちが急降下を始めた。
 次々に民家の屋根や珂月の周りに降り立ち、体を持ち上げて威嚇してくる。
 腕の長い猿のようなバイラは包丁を持った村人の上に着地し、村人を地面に叩きつけた。

「珂月を離せ! 皆殺しにされてえのかっ!」

 待ちに待った声を聞き、珂月は一粒の涙をこぼした。
 最後に舞い降りてきた狼型バイラの背中から、一人の黒髪の青年が降りてきた。
 端正な顔を怒りに歪め、村人たちを睨み据えている。

「どけ! 殺すぞ!」

 大股に近づく青年の気迫に、村人たちは我先にと道を開けた。
 青年は珂月の上に乗っていた男の首筋を片手でつかんで数メートル先に放り投げた。
 その人間離れした腕力に村人たちは恐れおののいた。

「珂月っ」

 自由になった珂月は青年の胸に飛びこんだ。
 恐怖の余韻でがたがた震えながらも、愛しい恋人に再会できた喜びで視界がくもる。

「ルザ……ルザっ」

 ルザは珂月をしっかりと抱きしめ、切れ長の目を細めて珂月の髪の毛を梳いた。

「よかった、無事で……てめえ、どれだけ心配かけたと思ってんだよ」
「ごめっ……ごめんね……」

 珂月はルザの背中に手を回し、静かに涙をこぼした。
 珂月の頭をなでていたルザは、不意に動きを止めた。

「おい……男の匂いがするぞ。どういうことだ?」
「あ……」


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