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サビイロ契約

104

 星の輝く明るい夜はひっそりとしている。
 かつて夜半でも宇宙から見れば煌々と明るかった日本列島も、世界狩り以降の新たな時代では暗くなると皆寝静まる。
 しんと冷たい夜は長い。

 そんな今日び、夜空高くを行く黒い影があった。
 影は風を切って星のまたたく空を滑空している。
 月明かりに淡く照らされているのは、地球上には生息していない奇妙な生きものと、その背中に乗る一人の人間だ。

 生きものは四本足で体毛は真っ黒、頭部に三本の角が生えている。
 でっぷりと丸い体躯につぶれたような楕円の顔をしており、長い口端がつり上がっていて笑っているように見える。
 気味の悪いことこの上ないが、背中に乗る人物はその生きもの――バイラをいとも簡単に御していた。

 バイラを操っているのは珂月だった。
 赤いパーカーの上にグレーのダッフルコートを羽織り、重そうな青のリュックサックを背負っている。
 バイラには鞍がついていないので手綱をしっかりと握り、太い首筋を両足で挟んでいる。
 珂月は寒そうに首を縮め、明るくなりつつある東の空を目を細めて見やった。

 藍色だった空がじょじょに色を変え、東の尾根が橙色に染まっていく。
 このごろ人々は太陽が沈むと眠り、日が上ると生活を開始する。
 朝の体操にと庭にでも出て空を見上げられ、見つけられては事だ。
 ダラザレオスの襲撃と勘違いされ、退治されてしまう。

 珂月は山越えをしようとしていたため、眼下には山のふもとの深い森が広がっている。
 緑の濃い生命に満ちた森は起伏に富み、くねくねとどこまでも続いている。
 森に降りるのは気が進まないが、致し方ない。
 珂月は森に降りて休息をとることにした。

 珂月は手綱を引き、下に降りるようバイラの首筋を足で蹴った。
 バイラは大人しく降下を始めた。ひんやりとした空気が珂月の耳をかすめる。

 森は杉やヒノキなどの針葉樹で構成されており、ところどころに開けた場所があった。
 珂月は丘と丘の小さな谷間にバイラを誘導した。
 バイラは音を立てずに急降下し、小さな衝撃とともに着地した。
 数時間ぶりに地面に足をつけた珂月は、ふうと息を吐いて朝露に濡れる草むらにリュックサックを下ろした。

「ここで待ってろよ」

 そうバイラに告げ、珂月はがさがさと草むらをかき分けてまっすぐ歩いていった。
 降りる直前にそばを小川が流れているのを見つけていたのだ。
 かすかに流水音も聞こえてくる。

 木々の分かれ目にさらさらと綺麗な清流があった。
 うっすらと靄が立ちこめており、川底にはごろごろとした大きな石が積み上がっている。
 珂月は川辺にしゃがみこみ、凍てつくように冷たい水を両手ですくいとって顔を洗った。
 次にハンカチを水に浸し、風呂に入れない代わりに首筋や腹まわりを拭う。

 最後に靴と靴下を脱いで足を拭いていると、ふいにギャアと鋭い悲鳴が聞こえてきた。
 甲高いこの声は置いてきたバイラのものだ。
 なにかあったのかと、珂月は靴をはき直して急いで川を離れた。

 薄暗い中を急いで駆け戻っていくさなか、珂月は人の叫び声を聞いた気がしてさらに足を速めた。
 まさかバイラが人を襲ってしまったのか。
 嫌な予感に背筋を寒気が走る。

 草をかき分け木々の隙間を縫ってバイラのところへ戻った珂月は、いくつもの視線にさらされて動けなくなった。
 そこにはどこから湧いてきたのか五、六人の男たちがいた。
 いくつもつぎの当たった襤褸のような服を着て、髪の毛やひげに手入れをしている様子はない。

 彼らは大きな包丁やら鍬やら鋤やらを手にしていた。
 鍬の先端からどす黒い液体を滴らせているのを見た珂月は、ようやくバイラが人を襲ったのではないとわかった。

 男たちの背後で、珂月がいましがた乗ってきたバイラが手足を丸めてひっくり返っていた。
 光を映さない奈落の底のような目は見開かれたままで、大きく開けた口からは長い舌がだらりと垂れ下がっている。

 男たちは突如現れた珂月に驚いた様子で、凶器を構えて珂月を睨んだ。
 鍬を持ち、お手製らしい毛皮のベストを着た一人が言った。

「なんだおめえは? どこから来た?」

 聞いたことのない独特のイントネーションでたずねられ、珂月はとっさに言葉が出てこなかった。
 すると男たちはますます珂月を警戒し、じりじりと距離を縮めてくる。

「まさかおめえ、巴蛇(はじゃ)使いじゃなかんべえな!?」
「えっ?」

 巴蛇がなにを指すのかわからない珂月は、とりあえず敵意がないことを示すために両手を頭の横に挙げた。

「なに? はじゃ……?」
「こいつはおめえの巴蛇じゃねえのか!?」

 別の男が血糊の着いた包丁で死んだバイラを指し示した。
 珂月はようやく合点が行き、慌てて口火を切った。

「ちっ、違いますっ、おれはダラザレオスじゃない! おれは、その、そこのバイラに追われてて……ここまで逃げてきたんです!
敵じゃないです、おれは人間で、貴方たちの味方です! 貴方がたがバイラを退治してくださったんですね? そうなんでしょ?」

 ねえ、と促すと男たちは互いに目を見交わした。
 珂月は笑顔を取りつくろい、さらに高く手を挙げた。

「ありがとうございます、おかげで助かりました。感謝しています。バイラはそいつ一匹だけだったので、もう危険はないと思いますよ。
だからもう、その武器おろしていただけませんか?」


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