サビイロ契約
98
眼下に一望できる広大な海では、白波が打ち寄せては音を立てて弾けている。
水平線まで伸びる薄雲は、上空の強風に流されてゆるやかに移動している。
いつもと変わらない風景のようだが、ルザは深く息を吸いこんで顔をしかめた。
「ふああ……」
後ろから間の抜けたあくびが聞こえ、ルザは窓を閉めて振り返った。
涙目の珂月がベッドの上で体を起こして伸びをしていた。
「おはよう」
ルザはベッドに片膝をついて乗り上げ、寝ぼけ眼の珂月の頬にキスをした。
珂月は半分夢の世界に足を突っこんだまま、嬉しそうに「おはよ」と挨拶を返した。
「ちょっと出かけてくる。お前は寝てろ」
ルザはそう言って珂月の頭をぽんと叩いた。
「え? うん……」
珂月はゆっくりまばたきをしながら頷き、またベッドに寝転んで布団をかぶった。
珂月が目を閉じたのを見ると、ルザはクロゼットからタイトな黒シャツとブラックジーンズを取り出して着替えた。
最後に椅子に引っかけておいたダークブルーのジャケットを羽織り、シャツの中に入りこんだ銀のネックレスを表に出した。
愛用のブーツをはいて外に出ると、ルザは大股に港町へと急いだ。
バイラの背に乗ってひとっ飛びしたいところだが、ダラザレオスだと気づかれないようにと珂月によくよく言い含められているので、多少面倒でも徒歩で向かう。
曲がりくねった坂道を下りていくたび、ルザの表情は険しくなっていく。
町はひっそりと静まり返っていて、人っ子一人見当たらない。
普段なら威勢のいい漁師や海女たちの罵声のような喋り声があちこちから聞こえてくるのだが、港町は一夜にしてゴーストタウンと化してしまっていた。
ルザのブーツがアスファルトを踏みつける重い音と、磯辺に打ちつけられる波の音しか聞こえてこない。
ルザは公民館の前を通り、町の中心部を抜けて迷うことなく歩いていく。
ルザの動物ばりに優れた嗅覚は、鼻の曲がりそうな異臭を確かに捉えていた。
つんと鼻を突く嫌な匂いは風に乗り、ルザたちの家にまで届いていた。
匂いがするほうへ向かい、たどりついたのは、岬にそびえる灯台の前の広場だった。
扉を固く閉ざした民宿や土産物屋が広場を囲むようにして立ち並ぶ、かつての観光地だ。
雑草だらけの芝生の中には灯台名の書かれた木製の看板が立っている。
白い灯台の小さな入り口の前で、大きな塊が激しく燃え盛って黒煙を上げていた。
塊は真っ黒に焦げていて元の姿はわからないが、巨大な四本足の骨格が炎の中に見え隠れしている。
バイラの死骸だった。
ひどい死臭と刺激臭に、ルザはジャケットの袖で鼻を覆った。
ほかにも異臭の発生元がいくつかあるようだが、ここからの匂いが特にひどい。
鼻がもげそうだ。
ルザは慎重に死骸に近づいていき、灯台の数メートル手前で立ち止まった。
あまりの臭さにこれ以上は近づけなかった。
背後で突然エンジン音がして、ルザはハッとして振り向いた。
スモークを貼った黒い車が何台も建物の影から現れた。
車は列をなして順々に停車し、広場の入り口を塞いでいく。
完全に広場の入り口を固めると、今度は大量の人間たちがどこからともなく現れて、車を盾にして拳銃を構えた。
何台かの車は天井が開き、中から機関銃を三脚で固定して構える者もいる。
銃口はすべてルザに向いていた。
「ちっ」
ルザは舌打ちして辺りを見回した。
異臭でルザの鼻を使えなくして、今まで息をひそめていたのだろう。
建物の影や屋根の上にはライフルを構えた人影がある。
完全に包囲されていた。
車の影から立ち上がった人物を見て、ルザの顔が般若のように歪んだ。
「やっぱりてめえか……」
拳銃を片手にルザを見据えているのは、腕まくりをしたワイシャツ姿の五十井脩吾だった。
五十井はルザの頭部に照準を合わせていたが、ルザが憎々しげに睨んでくるので引き金から指を離して立ち上がった。
「飛んで火に入る夏の虫って言葉を知ってるか? ルザ」
「俺の名前を口にするな」
ルザは吐き捨てるように言った。
五十井はなんの反応も返さず、下ろした銃のフレームを人差し指でなでている。
「今度は新宿のようにはいかねえぞ? 貴様も不死身じゃねえんだし、これだけの弾食らったら即刻おさらばだ。俺はダラザレオスを殺した英雄になる」
「英雄?」
ルザは理解できないものを見るように目を細めた。
「くだらねえ……」
「貴様にわかってもらおうなんて思ってねえよ。……俺は、関東の霞末会五十井組の組長五十井喜久の息子だ。
俺はアタマがあるから上にも呼ばれてるのに、組長のせいでいつまで経ってもいけすかねえハンターどもの親分どまりだ。
貴様をぶっ殺して、クソ親父のところに首を持ち帰ってやる。そうすりゃ俺の価値も少しはわかるだろうさ……」
五十井は左耳に取りつけたヘッドセット型無線機に手を置いた。
無線はこの場の全ての人間に繋がっている。
「全員、合図で撃て」
五十井は低く呟き、銃をなでていた指を離した。
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