サビイロ契約
97
辰元は目を覆っていた手を下ろして顔を上げた。
酒好きで馬鹿みたいに明るい男が、怯えた目をしてすがるように辰元を見つめている。
ほかにもたくさんの見知った顔が、揃ってこの世の終わりのような表情で辰元を見ている。
「そんっ……うそだろ、そんな……」
辰元は肩を落として嘆いた。
突っ伏してこぶしで畳を叩きたい気分だった。
ふと辰元は前回のハンター寄り合いを思い出した。
珍しく辰元の女房がやってきて、皆にいそべ巻きを振舞った。
珂月は辰元の隣に座っていて、無邪気な顔でおいしそうに餅を頬張っていた。
そのとき女房は珂月の首筋にある虫さされを指摘した。
辰元の心臓が跳ねた。
あれは虫さされではなかったのだ。
辰元もずっと気がついてはいた珂月の首の傷。
まるで、なにかに噛まれたような痕だった。
「あれは……ダラザレオスに血を吸われた痕だったのか……」
辰元はそう呟いた。
ここまで証拠が揃ってしまうと、五十井の話を信じざるを得ない。
子供のいない辰元は珂月のことを実の息子のように思ってかわいがっていたのに、なんというひどい仕打ちだろうか。
あの優しい珂月が人を襲えるとは到底思えない。
しかし、あの映像を見るかぎり、珂月の側にいると危険が伴う。
辰元には家族を守らなければならない義務がある。
たっぷり間を置いたあと、辰元は頷いた。
「……わかりました、五十井さん。信じます」
「ありがとうございます」
五十井は丁寧に辰元に頭を下げた。
笠木も五十井に合わせてお辞儀をした。
「それでは話を進めましょう。皆さんにしていただきたいのは、迅速な避難の先導です。
この町に住む人を残らず町の外に出してください。川の対岸の隣町にいったん避難していただきます」
笠木が広げたこの辺りの詳しい地図に指を滑らせながら、五十井は説明した。
すでに隣町への誘導経路が赤ペンでしっかりマークされている。
「二トントラックを二台用意してあります。足の不自由な方やお子さんやご老人は荷台に乗せて運びます。
重要なのはいかに素早く静かに町を離れるかです。ダラザレオスは耳も鼻もいい。気づかれたらおしまいです」
五十井は顔役たちを近くに集まらせ、地図を指して丁寧に避難のルートを説明した。
全員が納得すると、町長がどの家に誰が連絡しに行くか役割分担を決め始めた。
辰元は初めこそぼうっとしていたが、だんだん頭が冷えてくると、町民を守るハンターのリーダーとしての思考に切り替えた。
ダラザレオスがいると正直に言えば無用な混乱を呼びかねないので、町民たちへの説明は「バイラの群れがこの町に向かっているとの情報を得た」とすることになった。
そして、東京一強いハンター組織が町に残り全力で応戦してくれるので、隣町にいれば安全だと強調する。
なるべく住民たちの恐怖を煽らないようにしながら迅速に避難することが肝要だ。
「トラックはこの外れのパチンコ店の駐車場にあります。自力で隣町まで行けない方をこちらに集めてください。
二時間後にトラックは出発しますので、それまでに必ず全員を集めてください」
辰元たちは重々しく頷いた。
「では、よろしくお願いいたします」
五十井が言うと、座敷に集まった男たちは一斉に立ち上がり、町長の家を後にして町じゅうに散らばっていった。
二時間後、辰元たちの手際のよい誘導により、全町民は着の身着のまま町を脱出して隣町へ向かった。
最後の家族が辰元と辰元の女房に付き添われて町を出ると、二台のトラックも発車した。
トラックを見送った五十井は腕時計を見て言った。
「ちょうど時間通りだな。さすが田舎、住人の結束が強い。パニックも起こさず全員逃げ切るとはたいしたもんだ」
「そうですね」隣に立つ笠木が言った。「来たようですよ」
「こっちも定刻通りか」
隣町へ向かうトラックとすれ違ってこちらにやってくるのは、一台のトレーラーだった。
五十井は満足げな笑みを浮かべ、近づいてくるトレーラーを眺めた。
「確か三体だったな?」
「はい。爬虫類系が一体と、昆虫系が二体です」
「それだけあれば十分だ」
五十井はスーツの襟を正し、ふんと鼻を鳴らした。
◆
太陽が高く上りきるころ。
町はずれに立ち並ぶ別荘の一軒に住む珂月とルザは、ダブルベッドで一緒に眠っていた。
明け方まで仲良く運動に励んでいた二人の朝は遅い。
ふとルザの筋の通った鼻がひくりと動いた。
ルザは身じろぎをして目を開け、隣ですやすや眠る珂月の姿を確認すると、はだけた布団をかけ直してやり起き上がった。
上半身裸のまま窓辺に歩いていき、ベランダに繋がる窓を少しだけ開ける。
潮の香りのする風が吹きこんでペールイエローのカーテンを揺らした。
この町はいつでも海からの風が強い。
しかし今日の風はいつもと違う。
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