33 「はっ」 兵士の半数がグレックが消えたほうへ走っていった。 青年はまだ荒い息をしているシュトを値踏みするように眺めた。 「お前は平気なのか?」 「な、なにが」 「この花の香りをかいだ者はそのとき目にしたものに心奪われ、それなしではいられなくなる」 「アディーハにそんな効果があるのか?」 青年はゆっくりまばたきをしてほんの少し眉を上げた。 「アディーハを知っている? 何者だ? ……ああ、愚問だった。その容姿、魔族だな」 兵士たちがいっせいにシュトを見た。 青年はくつくつとのどを鳴らして笑い、シュトに近づいた。 「殿下、危険です」 兵士のひとりが遠慮がちに言ったが、青年は無視した。 森の中で金属がぶつかる音がして、シュトは青ざめた。 グレックだ。 旋風の騎士の名を持つだけあって、彼もまた一筋縄ではいかないはずだ。 シュトは泣きそうになりながら青年に懇願した。 「た、頼む、グレックを殺さないでくれ! 仲間なんだ!」 「ここは立ち入り禁止だ。それを無視して来たってことは、命がいらないんだろう」 「おれが無理やり連れてきたんだ! あいつは悪くないんだ。なあ、頼むよ」 だが青年は冷たい目でシュトを見下ろすだけで、なにも言わない。 早くしないとグレックが殺されてしまうかもしれない。 シュトは青年の服をつかんだ。 兵士たちの視線が厳しくなったが、なりふりかまっていられない。 「頼む、お願いだ! おれがあいつを説得するから!」 「一介の魔族の頼みなど、聞いてやるつもりはない」 「おれは一介の魔族じゃないっ!」 シュトは金切り声を張り上げていた。 「おれはダンタリオン・ヴェルニアスの弟で、れっきとした王族だ! おれにできることならなんでもするから、頼むよ!」 すると青年の目の色が変わった。 「魔族の王の? そんな馬鹿な話があるか」 「本当だってば! あとでいくらでも証明してやるから兵士たちを止めてくれっ」 青年はしばし考えていたが、腕章をつけた隊長格らしき兵士に目配せした。 「連れて行け」 隊長はこくんとうなずくと、シュトの腕をつかんで青年からひきはがした。 シュトがどんなにわめいてもその腕ははがれない。 シュトは引きずられるようにして森の中に連れて行かれた。 すぐにシュトたちが寝床にしていた場所にたどりついた。 そこは今や惨状と化していた。 三人分の荷物が散乱し、血を流した兵士が木の根元に何人もうずくまっている。 まだ立っている兵士たちの中心で、グレックが血糊のついた剣を振りまわしていた。 シュトはひとまずほっとした。 殺されるどころか、兵士たちのほうが全滅しかねない勢いだ。 しかしグレックにあの青年の部下を殺させるわけにはいかない。 隊長はよく通る声を張り上げた。 「総員、下がれ!」 兵士たちは一糸乱れず剣を下ろし、グレックから距離をとった。 隊長はシュトをグレックのほうに押しやった。 「剣を奪って動きを封じろ」 シュトはおそるおそるグレックに近寄った。 どうやら彼は危険を察知して逃げたおかげで、完全に我を失っているわけではなさそうだ。 しかしそれでも目にはライールと同じ狂気が宿っている。 シュトを見ても顔の筋肉が凝り固まったように無表情だ。 「グレック」 シュトは刺激しないようゆっくり歩きながら、優しく言った。 「おれのせいで悪いことをした。助けるから、おれに任せてくれ」 グレックが剣を持つ手をぴくりと動かした。 だが襲ってくる気配はない。 「な、だから、もうやめてくれ」 グレックの右腕にそっと触れ、そのまま手まですべらせた。 剣の柄を握り、もう片方の手でていねいにグレックの指をはがす。 初めて持ったグレックの剣はずっしりと重かった。 よくこんなものを振りまわせるなと、状況も忘れてあきれてしまった。 「さあ、一緒に行こう。心配するな」 兵士たちがグレックの両腕を縛るあいだ、シュトは彼に触れながら諭し続けた。 グレックは人形のようにじっとしていた。 意思もなにもなくしてしまったのかとシュトは不安になったが、どうすることもできない。 再び花畑に戻るとグレックが悲痛そうに叫んだので、隊長はみぞおちを殴って気絶させた。 ライールの横に放り投げられたグレックを見て、シュトはほぞをかんだ。 上品そうな青年が腕組みをして近づいてくると、シュトの両腕をふたりの兵士がつかんで拘束した。 「さて、魔族の少年、これからどうしたい」 「……あいつらを、助けてくれ」 「助けるかわりにお前はなにをしてくれる?」 「あんたが望むことなら」 シュトは青年の顔を見ずに言った。 「じゃあ、とりあえず城に来てもらおうか。ああ、その前に」 青年は綺麗に磨かれた爪をいじっている。 「お前の名は?」 「……シュトリ・ヴェルニアス」 「そうか。私はマーミアンの息子エゼンウェルド。パシンロウカリンガツトラの第一王子だ」 まさかこんなところで探していた「いかれた王子様」に会おうとは、予想だにしていなかった。 →三章へ ←** [戻る] |