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「……お怪我はございませんか、お坊っちゃま?」
土の上に座り込んだままの年若い主の傍らに膝をつくと、メイド頭──冴木彰子(さえき・しょうこ)は女性にしてはやや低い声音で静かにそう問いかけた。
表情の乏しい妙齢の女だった。
一糸の乱れもなく結い上げられた黒髪の下、氷の女王を思わせる玲瓏とした美貌に銀縁の眼鏡がよく似合っている。
薄い硝子越しに覗く黒瞳に宿っているのは、冷ややかなまでの冷静さだ。
まるで看護師のような手際のよさで主の触診を始めながら、冴木は慇懃な口調で謝罪を口にした。
「申し訳ございません。わたくしどもの力では、南波さまをお止めすることが出来ず──」
「うん、まあ仕方ないよねー。南波先輩、超怒ってたしー……SP四人じゃ相手になんなかったかあ」
一方、謝罪を受け入れた若い主──貴雅の答えは鷹揚だった。
恐らく南波を制止しようとして逆に返り討ちにされたのだろう。
ふいに背後を振り返った貴雅の視線の先では、花見が始めるまでは確かにシートの四隅を囲んでいたはずの黒服たちが、今は揃って地面に倒れ伏している。
片手の一振りでメイド長の手を止めさせると、黒幕の御曹司は尻についた砂埃を払いながら立ち上がった。
「ちぇ、それにしても残念だったなー……あともうちょっとで千明と愉しいことが出来たのに」
「……左様でございますね」
淡々と頷いた冴木の傍らで、貴雅は唇を尖らせた。
全く本当に残念で仕方がない。
せっかく花見の席まで整えたというのに、今となってはその全てが水の泡だ。
南波の足止めにさえ失敗していなければ、きっと今頃──
「……しかし、これで篠原さまに飲んでいただいたお薬も、無駄になってしまいました」
「へ?」
貴雅の鼓膜を意味深な台詞が叩いたのはそのときだった。
奇妙な台詞を呟いた人物──脳紺色のエプロンドレスの裾を払って傍らに立ち上がった冴木の顔を、貴雅はまじまじと見返した。
今、彼女は何と言った?
薬?
「え、薬って何のこと?」
「ああ、実は──」
至極些細な事務連絡を付け足す、秘書のような口振りだった。
双眸を瞬く主の顔を静かに見上げると、有能なメイド長は眼鏡の縁を細い指先で押し上げながら、こともなげに自白した。
「僭越ながら……お坊っちゃまと篠原さまが少しでも愉しい一時を過ごせるよう、篠原さまのお飲み物の中にだけ、アルコールとは別に少量の媚薬を混ぜておいたのです」
「……気分はどうだ」
風紀委員室は無人だった。
校舎のあちこちから響いてくる昼休みの喧騒も、この一室を除いてほぼ空き教室しか並んでいないここ四階にあっては、それも薄膜を隔てたかのようにやや遠い。
その最奥──窓際に設えられた三人掛けのソファに抱えていた少年をそっと下ろすと、南波は気遣うようにその傍らに膝をついた。
「んな状態じゃ、クラスには戻れねえだろ……酒が完全に抜けるまで、暫くここで休んどけ」
もっとも、戻りたいと訴えられても帰すつもりは毛頭ないが──敢えて口にしなかった台詞の後半を呑み込んで、南波は切れ長の双眸を微かに眇めた。
そう、こんな状態の千明を一人で教室へ戻すだなんて冗談ではない。
転入当初、いじめの標的にされていたのが嘘のように、クラスメイトらとの関係は今でこそ完全に改善されているものの、別の意味でトチ狂った行動を起こす馬鹿がいないとも限らないのだ。
……あの変態御曹司のように。
(あのクソ野郎……)
もしも南波が割り込まなければ、あの変質は千明に対して、今頃、想像するだに胸糞の悪い無体を働いていたことだろう。
全く思い返すも忌々しい。
裏庭で目にしたあの光景──ずっと大切にしてきた年下の少年が他の男の下に組み敷かれている様を思い出すと、腸が煮え繰り返りそうになる。
相手が千明の友人でさえなかったら、あの場で縊り殺してやれたのに……
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