06
「例のものぉ?」
「惚けんじゃねえよ、変態。さっき、お前が俺に言ったんだろうが……花見の席で、こっそり酒出すってよ」
小首を傾げた貴雅を横目で睨めつけながら、市川はふいに声を潜めた。
『こっそりお酒出してあげるからさ、イッチーも一緒においでよー』
ふいに密着してきた貴雅からそう耳打ちされたのは、千明らとともに花見の誘いを受けている最中だった。
もしこの一言がなかったら、市川は未だ参加を躊躇っていたかもしれない。
何せ、この花見の主催者である御曹司は生粋の変質者──もしテレビか何かに映ることがあれば、頭のてっぺんから爪先までモザイクを掛けねばならないような、いわば存在そのものが恥部であるような男だ。
出会い頭にされた強制猥褻紛いの行為は未だ市川にとって強烈なトラウマである。
今回は手を出さないと言っていたし、タダ酒が飲めるのなら少しくらい付き合ってやろうと参加したのだが……
「どういうことだよ、おい? 酒なんてちっとも……はっ!? ま、まさか酒出すなんて嘘っぱちで、それを口実にまた妙なことしでかそうってんじゃ──」
途方もなく嫌な仮定に思い至って市川は青醒めた。
思わず制服の上から両乳首を押さえて後退る。
だが、そんな市川の懸念は幸いにして外れていたものらしい。
ふてくされたように唇を尖らせると、貴雅は空になった湯呑みを小脇に置きつつ首を振った。
「今日はほんとに何もしないってばー。もー疑り深いなあ、イッチーは……それにお酒だって、もうちゃーんと出してあるよ、ほら」
「は?」
既に出ている?
一体どこに?
胡乱げに眇めた双眸で、市川は貴雅が指差した方向を見回した。
ピクニックシートの上には豪華な料理が並びこそすれ、そこに酒の類は一切ない。
無論、飲料も配られてはいるものの、さきほどメイドから手渡されたのは何の変哲もない──実際は玉露なのだが──ただの緑茶だ。
現に市川を含めた他のメンバーも、若葉色の水を湛えた湯呑を……
「……あ?」
ふとある人物のところで、緑髪の不良の目が止まった。
さきほどから妙に静かに項垂れたまま、一言も発しない凡庸な少年──篠原の手に握られた見慣れないペットボトル、あれは何だ?
「……おい、まさか──」
「あ? 何だよ? 何かあったのか、市川?」
眉を潜めた市川の傍らから声が掛かったのはそのときだった。
どうやら天敵にも等しい変態と長く話し込んでいたせいで、知らず衆目を集めてしまったらしい。
いつの間にかこちらに向いていた黒崎らの好奇の眼差しが注がれる中、それを代表して口を開いたのは三橋である。
「珍しいな、お前がすすんで御曹司と話してるなんて。いつもはビビって近寄ったりしねえのに」
「ばっ……馬鹿言ってんじゃねえ! だ、誰がこんな変態野郎なんかに──」
「……んうー?」
「「あ?」」
まるで怒声に冷や水を掛けるようなタイミングで割り込んできた一声に、市川と三橋は揃って顔を見合わせた。
と同時に、その傍らでもぞりと動いた人影がある。
反射的にそちらに目をやって──三橋らは今度は揃って動きを止めた。
──完全に停止した二人の視線の先で、顔を上げた千明がぽやんとした表情で座っていた。
伏し目がちにゆっくりと瞬きを繰り返す潤んだ双眸と、薄桃色に紅潮した頬。
微かに小首を傾げた幼さすら感じられる表情とは裏腹に、その全身から立ち上る気怠げな雰囲気はまるで情事後のそれだ。
「…………」
「……うわ、エッロ」
鼻血でも噴きそうになったのか、無言のまま真っ赤になって鼻孔を押さえた市川の隣で、三橋が真顔で呟いた。
続けて次々と口を開いたのは、こちらもただならぬ千明の様子に気づいたらしい吉澤と黒崎だ。
「え、アレ、千明ってはどーしちゃった訳?」
「……千明、様子変」
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