指切り28 「正樹、」 呼び掛けに、ぼやけた意識が一瞬で鮮明になる。 「どうしたの…すごい汗だよ」 伸ばされた手が自分の額に貼り付いた前髪を分ける。彼の皮膚は予想よりもずっとひんやりとしていた。暗闇の中、目の前には誠二の心配そうな表情だけが、青白く浮かび上がっている。 「―――」 手当てをしている誠二の腕を払いのけ、自分で汗を拭き取る。じっとりと肌に付いた水分は不快極まりなかった。冷汗というのだろうか。今までにあまり感じたことのない汗だ。 「……記憶が、」 呼吸を整える。 発する声の一音一音が妙に反響する。幼い頃にはよく、眠れなくなると2人で顔を寄せ合っては色々な話をしたものだった。 今の2人は、正しくその時と同じ距離にいる。 「記憶が…思い出したくないから拒絶するのか、思い出してはいけない事なのか、それとももっと…根本的な部分がまだ暗いから、」 「…何言ってるのか分からないよ。ちゃんと説明して」 「…混乱する」 頭がぐちゃぐちゃになっていて、上手く考えを形作れない。それをいいことに感情の波は勢いを増して身体の隅々にまで循環し、怒りや悲しみが混ざり合ったまま心臓をひどく締め付ける。 「…アイツは?」 先程まで衛の居た場所を顎で指し示し、正樹が問う。 「衛さんなら、もう休んでもらってるよ。正樹話の途中で寝ちゃうんだから…」 「それで、何か進展あったわけ?」 「……あるよ」 誠二は少し間を置いてから、口を尖らせて呟く。その後にさらに小さく“これからある、予定だけど”と付け加えた。 「この日記が引っかかるって…。僕も思い出せないんだ。どうして嫌な彼岸花なんて描いたんだろう」 彼岸花は変わらずこの村の入口に毎年咲き乱れている。鮮やかな赤は、今では自分の体内を流れるどくどくとした血液の色素を連想させる。 「嫌…?お前、俺が白い彼岸花見つけてきた時は、あんなに喜んでたじゃねーか」 正樹は気怠げに立ち上がると、部屋の照明を付けずに手探りでシャツを引っ張り出し、ばさばさと着替え始める。 「は?だって………あ、」 「彼岸花を食べようとしたのは、事件の次の日だ」 事件が解決し付き添いの警官が去った後、正樹はこっそりと家を抜け出した。白い彼岸花を見つけて誠二を呼び出し、根を食べようとした所に遥が来たのだ。 「そっか…そうだった。でも…彼岸花を日記に描いたのはやっぱりおかしいよ。衛さん言ってたし」 「…俺にしてみれば、毎年毎年飽きずに祭りの話描いてたお前の方が不思議だけどな」 正樹は着替えを終えると、考え込む誠二の背中を膝で蹴り、再びベッドに戻った。 「…痛いよ」 「寝ろ」 本当にマイペースだ。 誠二は溜息をつき、立ちあがる。自分のベッドへ潜り込むと、再び考えは古びた学習帳へと戻っていった。 描かされた、と言われた時、何故か自然に納得してしまったのと同時に、確信にも近い違和感を感じた。確かに遥に止められるまで自分の中では“白い彼岸花”というのは一種の憧れに似た存在ではあったし、根に毒があると知った時は幼いながらに言い知れないショックと恐怖を感じたものだった。 誠二は半身を起こし、枕元に置いた学習帳に手を伸ばす。ぱらぱらと、僅かに差し込む月明かりを頼りに眺めた。 ――描かされた、とは違う。自分は正樹とは正反対に、何に対しても臆病な子供だったと思う。祭り以前のページを見ると、それらはどれも見た目や色合いが控えめなものばかりだった。赤やピンク、橙色といった明るくはっきりとした色の着色道具は、必ずという程残った。 「描かされた…描く…描いた…」 どれもしっくり来ない。変な感じだ。衛に言われるまで、あんなに自分の描いたものと疑わなかったのに。 その時。めくっていた指先が滑り、学習帳が乾いた音を立てて床に落下した。 ごめん、と正樹の背中に呟き、開かれたそれを拾おうとベッドを出る。月の青白い光がページを薄く照らしていた。赤い彼岸花が見える。 ―――文字が、あった。 直ぐに見失ってしまいそうな小さな文字は、彼岸花の上、空の部分に白色のクレヨンで描いてあった。これではいくら明るい場所で見ても分からない筈だ。 「…なあ、誠二」 正樹が静かに問いかける。 「思い出したんだ…あのシシバって奴も知ってた…名前が、存在が、もう少しで消える所だった」 文字が、ふつふつと錆びた記憶を沸騰させていく。 “大 な 人へ” 「――大…好きな、ふ…2人、へ」 思い出した。 彼女の白く細く、しなやかな指先が、ゆっくりと丁寧に彼岸花を描いていく。 「「澪」」 ――大好きな 2人へ 大好きなこの花を、贈ります ――――澪 より 《続く》 ――――――――― 2011/05/15 |