指切りS
“待っていたの”
その一言が湖面を反響する。彼女の言葉を理解することが出来ない。待つ?私を?
遥ははっとしたように後ろを向き、水面に漂う髪留めを掬い上げて衛に見せた。
「これが風で飛ばされたから、拾いに来たんです」
「飛ばされたから…、それだけの理由でこんな所にまで」
「大丈夫です──ほら、」
遥は自分の立つ位置よりも数十センチ先を指差した。
「ここから底が一気に深くなるんですよ」
ぞくりとして揺れる水面を凝視する。そう言われれば、何となく水の色が手前よりも濃いような気がした。
衛が遥を見ると、彼女はその視線に首を傾げる。
「…兎に角、戻りましょう。ここは冷えます」
衛はやっとその言葉だけを吐き出すと、眼鏡に付いた水滴を拭った。遥を前へと促し、その後ろを歩いて行く。
「───違う」
衛が呟いたそれに、遥は気付かない。
違う、
彼女は 遥じゃない
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びちゃびちゃと水滴を滴らせた彼女を放って置くわけにも行かず、湖から一番近くの民家を訪ねた。驚く住民に理由を説明し、若干怪訝な表情をされつつも部屋へと通された。咄嗟に土御門の名前を出した事が効いたようだ。
衛は小さな和室へと案内される。出された番茶にも手を付けずに、別室で着替える遥を待った。
複雑だった。
会う前よりも、会った後の方が息苦しいのは一体どうしてなのだろう。彼女に刑事時代の勇ましさは欠片も無く、肩に掛かる程までに伸びた栗色の髪や同色の瞳には確かに以前の面影があったが、何しろ空気が違う。この雰囲気は、どちらかと言えば遥では無く“彼女”の───
「────ミオ、」
似ている、所ではない。
彼女は遥の皮を被った澪なのだ。
「失礼しますね」
家に住む初老の女性が部屋へと入り、続いて着替えを済ませた遥が来た。淡い桃色のカーディガンにロングスカート、嫁いだ娘のものなのよと女性は言う。
「すみません。ありがとうございました」
「いいのよ、土御門さんは厳しい方だから。帰れないのも仕方が無いわ」
女性は遥にも茶を淹れると、着物を洗うといって出ていった。上品な物腰の優しい人だと思った。
「優しい方ね」
同じ思いを感じたのか、真向かいに座る遥がそっと呟いた。そのまま遠くを見るように目を細め、吸い込まれてしまう、という表現がぴったりなその瞳で、ゆっくりと衛の方を“視る”
「…貴女は、」
「───私は、誰に見えますか」
言葉を遮るように遥は彼に問う。予想に反して至極落ち着いた声だった。伸びた髪を器用に結わい、後ろで丁寧に纏める。
「…雪が積もり、まだ寒さが今よりも厳しかった頃に、私の意識は少しずつ鮮明になっていきました。それまでは──あの大きな家に居たときは…ずっと頭の中がぼんやりとしていました」
自分はまるで子どもの様だったと遥は微かに笑う。本当に子どもだったのかも知れない。あの時の私は───“澪”という少女だった。
「感覚がはっきりとしてからは、以前よりも沢山の夢を視るようになりました。貴方は知っているのでしょう…?私が此処にいる理由も、私が一体誰なのかも」
世界が透けて視え始めるにつれて、比例する様に“自分”という存在が薄らいでいくのを、彼女は確かに感じていた。
「もう自信が無いんです。由紀さん…由紀の言う“三島遥”としてなのか、少女としての“秋穂澪”なのか…。それとも、私は他の誰でもない存在なのでしょうか。それとも、」
遥はそこで言葉を詰まらせ、俯く。
「───私は、誰だと思いますか?」
…相田さん、
垂れた前髪の隙間から滴が落ちた。
彼女の、涙だった。
《続く》
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2009/09/29
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