指切りN
「…怒らないで聞いてね鳥越くん、」
御神木を離れ、橘家へと向かう中で由紀が切り出した。歩幅が違うので、2人の間には自然と距離が出来てしまう。衛はゆっくりとした足取りを保ちながら、そう言えば遥といた時にはこんな気遣いをしたことは無かったな、と何となく思う。
「大丈夫ですよ由紀さん。…どんな形であれ、私は遥の安否を知りたかったのです。どんな形であれ…」
自分の口から流れ出た嘘にぞっとする。長い長い年月が、持ち合わせていた欲や感情全てを削ぎ落としてしまったように感じた。呆れる程に冷静な頭は、泣いて目が赤く腫れた由紀を見ても何も思わなくなっていた。
随分と前に、終わりだと悟ったのだ。
しかしそれが──これ以上経てば狂って終うと覚悟していたものが、彼女のたった一言で簡単に掻き乱されてしまった。可能性を感じている自分がいる。これは嬉しさだろうか?それとも、押し潰されてしまいそうなくらいの恐怖なのだろうか。
「遥はここにいる…といいましたが」
「ええ…恐らく、この村に居るんだと思うわ。」
酷く曖昧な返答だった。私もここ最近は会っていないの、と由紀は付け加える。
「2年前…ちょうどまた焔祭りが始まる時期に遥は来たの」
彼女の視線が、今歩いて来た先にある大木へと向けられる。
「雨の日、御神木の前に倒れていたわ」
まるで幹に寄り添うように、祭りの準備をしていた誰にも気付かれることなく遥は倒れていた。着ていた服は泥で汚れ、身体を起こすと異常な程熱を持っていた。
「直ぐに家へ連れていって、お医者さんを呼んで…。大事にはならなかったけれど、遥が目を覚ましたのはそれから2日後だったわ」
意識が戻った彼女の第一声は、喉の粘膜が乾いた、擦りきれるような声だった。
“由紀おばさん”
由紀は一瞬何が起きたのかを理解出来ず、自然に視界がじんわりと歪んだかと思うと嗚咽して泣き出してしまったという。
「今思えば、どうして涙を流していたのか分からないの…急に悲しくなって…私、何かを思い出した様な…」
由紀は不思議そうに首を傾げる。その様子は嘘ではなく、本当に何も覚えていない表情だった。衛には心当たりがある。その呼び方をする女性を知っている。だが由紀の話から察するに、もう既に彼女は“ここに最初からいない存在”となっているのである。
「…それから暫くは、遥も私達と一緒にこの家で暮らしていたの。楽しかったわ…家全体が明るくなったみたいで。子供達もそれは喜んでくれて」
到着した橘家はひっそりと、夜に溶け込む様に立っていた。玄関に灯りがひとつ、そして奥の部屋にもぼんやりと光が確認出来る。
「どうぞ、」
中へと招かれる。由紀が声を掛けると、廊下の板が軋む音と共に1人の少年が顔を出した。
「───君は、」
どこか面影のある─母親の優しさを受け継いで、それでいて少し臆病そうな瞳の。
「誠二くん……ですね」
「──さすがですね。こんばんは、衛さん」
深く会釈をした誠二は、衛を客間へと促す。背は隣に並んだ由紀をとうに追い越していて、衛には単調だった月日でも、彼にとっては大きなものだったのだと改めて実感する。客間には来客用のテーブルと座椅子が準備してあり、由紀は誠二に目配せすると、夕飯の仕度をすると言って出ていった。
「電車、長かったでしょう。どうぞ座って下さい」
衛が座ったのを確認すると、誠二はその向かい側に正座した。背筋を伸ばし、真っ直ぐに衛を見る。あの幼かった頃の彼を思い出す。確か以前にも彼は、この瞳で変わらずに自分を見詰めていたのだ。
「お元気でしたか」
「ええ…誠二くんも大きくなりましたね。驚きました」
「衛さんはあまり変わらないです。昔の記憶のまま…」
誠二はちらりと廊下の方を見て、由紀がいないのを確かめる。
───沈黙。
「───衛さん」
「…はい、」
「これから話す事は…母はすべて知りません。僕達が黙っていました。でも衛さん、貴方には聞いてほしい」
どんなに辛い現実でも、
泣き出してしまいそうな程の絶望でも、
どうか、逃げずに受け止めてほしい。
──その覚悟が、貴方にはありますか?
「衛さんにしか、遥さんは救えない」
誠二の言葉に、衛はゆっくりと頷いた。
《続く》
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2009/08/17
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