[携帯モード] [URL送信]
指切りI






飲み終わった珈琲から、微かに湯気が出ていた。


「…私が、由紀おばさんから聴いた話はこれで全てです」



春の訪れを待ちわびていた。
暖かいとどこか安心できた。生命が土から、空から溢れでてくるあの感覚、私の存在を確かに証明してくれる、雲から射し込む光の筋、澄んだ空気。



衛が空いたカップを持ち上げると、澪は右手でそれを控えめに制した。


「由紀おばさんはその後直ぐに退院しました。私もそれから1週間後に退院できて、そのまま母と東京に戻りました」


「では、それ以来彼らには」


「はい。会っていません。連絡も、とれませんでした」



澪は力無く首を振る。小さなバックから携帯電話を取り出すと、一度開いて何もせずに再び閉じた。
乾いたぱたんという音が鳴る。何度かけてもふたりに電話が繋がることは無かった。



「東京に来てからは、大学に通いながら家庭教師のアルバイトをしていました。お金を貯めて、またあの村に行ってみようと思ったんです」



そう思ったのは、単に別れも告げずに今にいたるからだけではなく、少しずつ少しずつ、彼らの顔や声を忘れている自分に言い様の無い恐怖を感じるからだ。

顔の縁からじわじわと、
まるで小さな炎が焦げを付けながら記憶を燃やしていくような、そんな焦り。





「思い過ごしでは無いんです。最近は村の事も、そこに居た思い出もどんどん忘れてしまって」




消えていく。
私は…本当にあの場所に存在していたの?



「澪さん」



がたんと音を立てて澪は立ち上がる。勢いで椅子が倒れた。鋭い金属音に、彼女は肩を震わせた。



「…ごめんなさい」


「いえ…記憶が混乱している様です。今日はもう止めましょう」



衛も立ち上がる。澪は掛けていたコートを手に取ると、彼の方をゆっくりと振り向いた。







―――静寂









「…最後にひとつだけ、お礼を言わせて下さい、」




澪の瞳が陽の光に照る。赤と青と黄と、澄んだ色合いが全てを見透かしているようで、衛は妙な懐かしさを感じていた。




「…一度だけ村や2人の事を母に聞きました。あまり聞きたくは無かったのですが………そうしたら、母は不思議そうに言うんです。“あなたは生まれてから一度も、東京から出た事なんて無いでしょう”と」







私は誰?
私は 本当は、







「………だから貴方が、私をここに繋ぎ止めてくれたから」



彼女はありがとうと微笑む。偽りの無い、それは美しいものだった。




「―――また来ます」





澪とはそのまま別れた。
次に会う日時は決めていない。
もう、決めることは出来ない。









その日を最後に、彼女は衛の前から姿を消したのだった。





《続く》




第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!