あの街角で逢う日まで(前編)
線が細い。
見慣れた背中は近付けば近付く程に小さく頼り無いと思う。それは沖村にしてみればどうしようもなく不安で、時折泣きたくなるような瞬間ではあったけれども、彼は一度もそんな言葉を吐き捨てる様な事はしなかった。少なくとも、沖村の前では。
「───待ってよ」
放課後はふらりと教室からいなくなってしまう。誰とも挨拶を交わすことも無い。彼は入学当初から、自ら好んで空気になった。
「待ってってば、ねえ、戻ろうよ。…僕見てたから」
彼の足が止まる。
横目で一瞬だけ沖村を見ると、また再び歩き出す。
「弥勒院くん!」
震える声が辺りに響く。通行人がこちらを怪訝そうに見ていく。沖村は構わずに続ける。
「弥勒院くん、どうしてタバコを吸っていたなんて嘘言ったんだ?僕見たんだ。屋上にいたのは他のクラスの奴らだよ、あいつらがわざと君の名前を出したんだ」
「………」
「だから先生に」
「………」
「ねえ!」
「──お前さ、」
伸びた前髪が弥勒院の瞳を隠す。いきなり振り向かれて沖村は一瞬怯んだが、直ぐに返事を返した。
弥勒院はとても面倒くさそうに沖村を眺める。制服を乱すことなくきちんと着用し、上ボタンまでしっかり閉めている生徒がこの高校に何人いるだろう。同じクラスで、なおかつ自分の中で1、2に影の薄い存在の同級生だ。確か名前は、
「…名前」
「…は?」
「なんだっけ、お前の」
「………沖村」
「───ああ、」
弥勒院は思い出した様に口を開けたが、次の言葉が出てくることは無かった。どうやらフルネームを探して、結局思い浮かばなかったらしい。
…まあいい。ところで沖村、俺これから行くとこあるけど、
「来る?」
沖村は仕方無く、返事を待たずに歩き出した彼の背中を追い掛けて行った。
─────
バロンと書かれた喫茶店には、店員の珈琲を淹れる音と控えめな音響だけが空間を包んでいた。
「座って」
マスターと軽く挨拶を交わし、慣れた様子で珈琲を2つ頼む。
多少戸惑いながらも沖村は弥勒院の隣に座った。出された珈琲の薫りに張り詰めていた緊張が一気に解れた様で、硬直していた肩の力を抜き、短く息を吐いた。ちらりと弥勒院を見ると、ゆっくりと立ち上る湯気にそっと眼を細めている。珈琲が好きなのだろう。例えば市販の、不特定多数の為に作られたであろうコーヒーでは無く、自分の為だけに淹れられた目の前のこの一杯が。
渇いた喉に黒い液体を流し込むと、じんわりとした温かさと共に心地好い苦味が口内を満たす。
「美味いだろ」
「うん。いつも飲んでいるのとは全然違う。嫌じゃない苦味だ」
砂糖もミルクを入れるのも忘れて、沖村は珈琲を飲み干した。
不意に何かがカウンターを滑る音を聞いたかと思うと、沖村の前に煙草の空箱が転がっていた。弥勒院が投げたのだ。中身を失った淡い緑色の箱はくしゃりと角が潰れ、生気を亡くしたように酷く滑稽に見えた。
「これ…」
「何故か分からんが、鞄の中に入っていた。」
弥勒院はまるで興味が無さそうに話し出した。最初は机の中。次は鞄、下駄箱。ロッカーには鍵があるから入れられる事はなかったが、休み時間に寝ていると、いつの間にか制服のポケットに入っていることもあった。
「気付かない俺も悪いが、1人の所持数としてはあまりにもこれは多すぎだろ。担任はそこを見ていなかった。犯人探しが面倒だったんだな」
担任は女性だった。空箱を見付けて、弥勒院を指導室に呼び出し突然に泣いたという。普段強気に生徒と接するイメージがある教師であったので、それには沖村も驚いた。
「取り付く暇も無かったな、あれは。なんか精神的にも限界みたいな顔してたし、いいだろ」
俺が何も言わずに、それで終わるなら。
途切れた語尾に、そんな意味が含まれているように感じて沖村は反論しようとするが、上手く説得出来るだけの言葉は見付からない。
つまりは事を大きくしたくないのだ。弥勒院も、担任も。これを聞いて、真犯人の生徒達は一体どう思うのだろう。悔しさが込み上げる。きっと隣に座る彼を、嘲笑っているに違いない。
「お前がそんな顔すること無いだろ」
「………」
弥勒院は怪訝な表情で沖村を見る。クラスでも大人しい生徒の部類に入るであろう彼が、何故そこまでこの話にこだわるのか分からなかった。きっと自分に話し掛ける事さえ、相当思い悩み、決断したことだろうに。
「僕は…」
長い沈黙の後に沖村は呟く。その間には正義についてだとか、社会の法についてだとか、至極全うな──それでいて素晴らしく都合のよい言い訳が込められていたに違いない。口には出ていないが彼はどうやら相当な正直者らしく、閉ざした唇を強く噛み締めているのが隣にいる弥勒院にも分かった。
「僕は…正しい事を正しいとちゃんと言えるのが、一番善いことだと思うんだ」
「……そうだな」
何も間違えてはいないよ、お前は。
羨ましくなる程に真っ直ぐな茶の瞳だった。沖村は眉をよせて、子どものように、それこそ泣きそうな程に。
「でも弥勒院くんは…そうだとは思っていないんだろう?」
「…残念だが」
残念だが、子どもは嫌いだ。
「そういうの、全部偽善だと思うよ。俺は」
「………そう、」
分かった、と沖村は返した。分かった…もう何も言わない、と。
バロンを出た2人は、それぞれ逆の方向へと歩いていく。一瞬だけ互いの目線を合わせたが、もう言葉を交わすことは無かった。
《続く》
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2009/05/16
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