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降雨のアリア

五月雨は鈍色の調べ-Aend
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「──伊綱、ですよ」



さらさらと落ちる雨粒に声が飲み込まれた。自分を見上げる青年は聞こえなかったという顔をして、人差し指を立て、もう一度と口を動かす。


「参ったなあ……」


もう言えないだろう。手短な挨拶をして、涼二は窓を閉めた。風と共に湿気を含んだ空気が髪を揺らす。生暖かい匂いだ。夏が直ぐそこにまで来ている。




伊綱、
自然と名前が出てきた事には我ながら驚いた。それから急に可笑しくなってしまって、その場に座り込み暫く笑った。寄りかかった壁は思ったよりもずっと冷たく硬い。
天井を見上げる。表情から自嘲が消えた。そしてなんだか胸が、呼吸を拒絶するかの様に少し苦しくなった。




遠い。
………何もかも、




タクシーを降りて飛び込んだあの時に、鼻を突く、独特の病院臭は残念な事に涼二を心底安心させていた。婚約者と胎児の安否を気遣う彼に付き添いながら、行き来する医療スタッフを呆然と眺めていた。足音、時には騒々しいキャスター音。空のストレッチャーが視界を横切ったら、一瞬だけ、その上に乗せられた自分の姿を想像した。


ぞっとはしない。きっと悲観もしない。ありのままに受け入れる事が自身らしい生き方とされているのならば、ここで涙を流すことは決して己には許されない。


ふと、思考は隣に座る彼に傾く。彼は震えていた。これは絶望?又は悔恨?───否。確かにあれは、希望を模索し、ひたすらに懇願する眼だったように思う。犯されていない、侵されていない真っ直ぐな眼だ。羨ましいと感じた。欲望を切り捨てた心胸は鈍い痛みを訴える。逢いに行かなければと、言葉を紡ぐ。紺色の制服は防御の盾となり、切り揃えられた前髪が揺れて大きな瞳が覗けば、その中心には確かにあの頃の自分がいた。




分厚い扉が開き、2人は一斉に顔を上げる。光だ。温かい帯のような光が、彼を優しく包み込んでいた。















「───なんだ、起きていたのかい」



涼二が目線を移した先には、腕組みをして、自室のドアに寄り掛かる癸生川の姿があった。前に垂れた長髪を後ろに手で鋤く。だらしなく欠伸をして、腹が減ったと短く返した。



「恥ずかしいな…見られていたのか」


「偶然だ。故意にではない」


「………それはどうも」



涼二は苦笑する。外を覗いた時に濡れてしまったシャツの腕が湿っている。直に染み込む冷たさだけが自分の存在を確立していて、油断をしたらそのまま、跡形も無く消えてしまいそうだった。



「君は来ないのか」




くたびれたコートを乱暴に着て(だからくたびれるのだ、)癸生川が涼二を呼んでいる。誘いのままに外へと出ると、彼は大雨の中、傘も差さずに独り佇んでいた。




「………おい、」



玄関にはきちんと傘が傘立てにあって、しかも長身の彼の為を思って、わざわざ少し大きめのものを買って来たというのに。



「意味が無いじゃあないか…」


涼二は呆れつつ溜息を吐いた。黒い傘を右手で引き抜き、表に立つ癸生川の元へと向かう。小走りにより踵が濡れる。浅い水溜まりが跳ねて、灰色に映した景色を波紋で歪めていった。

自然と右腕が上がり、癸生川の目の前で止まった。



笑う。
癸生川はずぶ濡れになりながら笑っていた。見付からない程度に、口元を僅かに上げて。



そして、差し出された傘を静かに受け取る。



「───僕の為に傘を開いてはくれないのだな、君は」


「…そのくらいは自分でやってくれないと」



涼二もつられて笑った。雨の粒が頬に当たり、涙の様に つう、と流れる。思いの外空は明るい。鬱陶しいと感じ始めているこの梅雨も、きっと彼女が待つあの土地に、美しい緑となって沢山の恵みをもたらしていることだろう。少し近付いた気がした。降雨は奇跡的に、僕達をしかし確実に蜘蛛の糸のような細さで繋いでくれていた。




「───丸顔で目は大きな二重。長い黒髪は眉上で揃っていて、少しおどおどしているけど心はしっかりしたいい子だよ、」



「…へえ、」



「僕が見る限り、才能はある…と思う。いつか君に会わせたい相手だ」




軽快な音が響いて、癸生川が傘を開く。潤った地面に新たな花が咲いた。それは十分過ぎる程の面積を雨から護り、ただ寡黙に2人分の晴れた世界を作りだす。





まるで焦がれる様に焼け爛(タダ)れるその声帯を潰して告げた彼女の───





「名前は───」













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2009/01/29




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