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落陽






奇跡は起こらなかった。


僕らはいつの間にか、つまらない大人になっていた。












“落陽”













「君には関係のない事だ」


癸生川の侮蔑を含んだ表情に、生王は目頭から、喉の奥深くから、今までに無いほどの重苦しく熱い怒りが込み上げてくるのを感じた。

一気に焼け始めた声帯からは勿論冗談混じりの緩やかな言葉の類いなどは出る筈もなく、生王はどくどくと脈を打つ自分の心臓を締め付ける様に押さえつけながら、


「勝手にすればいい」


とだけ、低いごろつく声で言い放ったのだった。




周りには誰もいない。
誰もいない事務所のその真ん中で、2人は対峙する。


生王は上手く喧嘩をする術を知らない。殴ったり、言葉をぶつけ合う意味を知らない。それは人生においてとても窮屈な選択ではあったけれど、誰に対しても公平であり、最善である事を彼は一種の誇りと信じていた。



…信じていたのに。


沈黙が嫌いだった。

幾分かの長い“間”は、自分にとって過去をじわじわと思い出す単なる拷問のそれに違いないからだ。
今回だってそう。ほんの小さな、些細なすれ違いで。



なんて脆い。
心の中で、友情という単語をそっと嘲笑う。



じっとりと合わさっていた視線を先にほどいたのは、癸生川の方だった。


扉が開き、音を立てながら閉じた。












――――――――――――――――――





思い出す事に特に躊躇いは無い。自分は鈍感なのではなく、単純にそういう性格なのだと思う。



「癸生川」


涼二はあちこちに散乱した雑誌を申し訳程度に片付けながらゆっくりと近付いてくる。
呼び声は決して穏やかなものでは無かった。彼にしては珍しく、理解し難いと表情が訴えていた。



「解らないな、」



堪らずに、言葉に出して問いかけていた。




口論というものを初めてした気がする。利口だと幼少から褒められていた自分が、何もかも視えていた自分が、今まさに、この目の前に立つ癸生川という男に、
感じた事の無い、苛立ちを受けている。



ああこれが、解せない、不快感かと、涼二はぼんやりと考えていた。



どうして、
君は最期の時にまで、まるで僕を頼るように振る舞ってみせるのか。


癸生川は答えない。微かに震えた唇が、乱暴に伸びた髪の毛で隠れてしまった。髪を切ったらどうだい、と涼二は笑う。自分は微笑んでいるのだと彼は気付いていない。積み重ねた資料の上にあるハサミを手にとると、痛い程に骨が浮かぶ青白い右腕が、うつむく癸生川の頭をそっと捕らえた。



抵抗は無い。
息が詰まって窒息してしまいそうだ。





「癸生川」


本当に切ってしまおうとも思っていた。彼にはこれから社交性というものを身に付けてもらわなければならないのだ。髭も剃って、服もきちんと着て。涼二は何度だって彼の名を呼ぶ。もう時間が無い。玄関に置いてある小さな荷物が煩わしい。もう時間が無いのだ。




一度帰ることにしたんだ。
―――癸生川。




ぱらぱらとそれは落ちた。

彼の瞳の色は嗚呼、
あんなに澄んでいたのかと、涼二は泣きたくなった。




刃が入れられた前髪により、今日初めて目が合う。

随分と長く一緒にいたような気がする。だからつい、これが永遠であると錯覚してしまう。



「…そうで無いと、困るだろう」


癸生川が掴んだのは確かに涼二のハサミを所持した手の首で、あとほんの少しだけシャツの袖口を上に引き上げれば、そこには何度も点滴を受けたであろう透けた皮膚と、グロテスクで滑らかな青痣を彼は見ることができるだろう。
(ただし、何があっても癸生川にとってはそんなことは全くの無意味だ)



涼二は眉をひそめる。


「永遠など無いよ、僕達には」




別れは来る
我が儘なのかも知れないが、それでも君がこの腕を離す時はいつか必ずや訪れる。


「ありきたりだな」


「…でも真実だ」


哀しいね、と彼は呟いた。

哀しい
泣き出したのは、どちらだっただろう。




「―――」


するりと手が離れた。涼二が事務所の扉を少し開いたその時、癸生川はただただその場に立ち尽くす事しか出来なかった。癸生川は言う、



「君がいなくなったら、一体僕は」



一体僕は、どこに帰ればいいんだ?



扉の隙間から光が射す。
美しかった。落陽に満たされたこのほんの僅かしかない時間に、敬愛すら感じていた。




「…いつでも戻ってくればいい、」


涼二は“恐れるな”と彼を諭した。戻って来るよ、僕も、ここに。






必ず。














――――――――――――――――――



「癸生川…?」



生王は心底驚いた様に彼を見つめていた。普段の姿からは想像も出来ない、事務所の階段に座り込んだその背中は、沈む陽の影になりながら細く小さくなっていた。




泣いているのかもしれない、

生王はふとそんな風に思った。願わくは、泣いていればいい。彼は大人になるのが少しだけ早かったのだ。




奇跡は起こらなかった。





「僕らはいつの間にか、つまらない大人になっていた」



声が震えた。
信じなくてはならない。
それでも前に向かって、僕らは、








暖かいいつもの赤い光が、欠ける事なく2人を包んでいた。









―――――――――
2008/11/06






あきゅろす。
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