幸福の場所
幸せになりたかった。
幸せになるべきだった。
薄く伸ばされた透明な硝子は、自分よりも何百倍も脆かった。
触れた先からぴきぴきとヒビが入った。縁を擦る度に悲鳴の様に高く鳴き、手を離した瞬間にすとんと落ちて、小さく割れる。
恐らくそうなる事を知っていた。
だから手を離さなかった。どうしても避けられない別れが来たとしても、
あの細く握った手だけは、決して離さないと決めていた。
雨上がり独特の草木の匂いが鼻をくすぐる。
昨日から降り続いた雨がつい先程上がり、せっかくだからと彼女を外へ連れ出した。
誰もいない砂利敷きの一本道を2人で手を繋ぎ歩いた。彼女はまだ幼くて、見知らぬ場所を不思議そうに見回しながら歩いていた。梅雨半ばの陽射しは暖かく鋭い。大きめの麦わら帽子を被せてやると、この角度からは彼女の真っ直ぐな黒髪だけが見える様になった。
「ね、どこにいくの」
「さあ。何処に行こうか」
彼女は首を傾げて少し考えていたが、お兄ちゃんに付いていく、と言ってにこりと笑った。
暫く歩いていると、急に空気が湿り気を帯びた。
湖が近いからかもしれない。彼女に気付かれないように眉をひそめた。あの湖はどうしてだか嫌いだった。優しく手を引き、2人で脇道に方向転換した。
ざかざかと膝辺りまで伸びる雑草を掻き分けて行く。空を見上げると、太陽が真上にありお昼頃だと予想出来た。どちらの家の者にも出掛けると伝えていない。夕方までには帰らなければいけない。出来るならば、帰りたく無かった。
「だいじょうぶ?」
彼女が不安気にこちらの様子を窺っている。大丈夫、今日だけは大丈夫でいる。どうせ明日、僕はどこか遠くの病院に長期入院になるらしいから。
不意に脚が軽くなった。開けたその空間の広さに若干驚く。こんな場所があったのか、と声に出して呟いた。
意図的か自然か。そこには点々と白詰草が咲いていた。雨の滴がそのままに、光の反射できらきらと輝いている。
きれいだ、
するりと左手から体温が消えた。彼女は嬉しそうに屈んで葉の数を数えている。目の前を風が吹き抜けて行った。歩いて濡れてしまった膝に構うことなく彼女の隣に座り込んだ。
「葉が4つのね、見つけると」
「うん」
「いいことがあるのよ」
知ってる?と微笑む彼女に笑顔を返す。
それなら探してみよう。
いいことがあるように。
重なった緑色をひとつひとつ丁寧に見ていった。
ううんと唸り声が聴こえる。無いなあ、無いねえ と言葉が少しだけ交わされた。
青空を鳥の群が泳いでいた。じわりと汗ばんだ額を拭い、彼女の貼り付いた前髪も払ってやった。
もう一度空を仰ぐ。
空は海に似ていると思う。
暫くそうやって2人で四葉を探していたが、だんだんと陽が落ち辺りが暗くなり始めても、望みの白詰草は見付からなかった。
「どうしてないのかな」
悲しそうにぽつりと言う。僕は応える事が出来なかった。帰ろう、とも言えなかった。
「―――――」
足音が静かな空間に響いた。夕焼けの赤い地面に大きな影が出来たかと思った刹那、
僕の隣から、彼女は消えた。
「―――いや!はなして!」
乱暴に掴まれた腕。振り向き立ち上がると、そこには…彼女の“父親”がいた。
皺に囲まれた深い深い彼の眼を視た瞬間に理解した。
それは大部分の憐れみと、見下しと、ほんの少しの嫉妬。
「………君も早く帰りなさい」
低い地響きの様な声だった。果たして今自分はどんな顔をしているのだろう。
彼女がこちらを向いた。
ぽろぽろと、泣いていた。
2つの影は直ぐに消えて行った。
周囲は闇。見上げた先には、何も無かった。
「…ずるいよ」
自然と唇から悔しさが漏れていた。
自分の力の無さと、先程受けた痛いくらいの視線が胸を、喉を少しずつ熱くしていく。
よろよろと脚の力が抜けて、その場にしゃがみこんだ。かさりと手に触れた白詰草を長い時間眺めて、
再び、僕は幸せを探し始めた。
―――――――――――――――――――
「………あ、」
不意に眼を留めた先には、小ぶりながらも4つに分かれた白詰草が、それはそれは遠慮がちに咲いていた。
伊綱は静かにしゃがみこむ。愛おしむように根元を摘むと、そのまま空へと葉をかざした。
「―――――」
どうして見付からなかったのか
どうして見付かったのだろうか
どうして彼は、
伊綱は鞄から一冊の絵本を取り出した。貰い物だった。入院すると聴いて泣きじゃくった幼い自分の頭を撫でて、彼はまたねとこれを手渡した。
擦りきれた表紙を開き、テープで留められたカバーを剥がす。
そこには青一色の裏表紙があった。
そして、
丁寧に貼り付けられた
十数年前の、白詰草があった。
その上に摘んだばかりの四葉を乗せた。
色はだいぶ違う
大きさも自分の方が一回りも小さくて、頼りない風だったけれど、
「…見付けました、ちゃんと」
汗が滲む、
「…さて、そう言えばまた矢口さんが何処かへ」
雲が流れて行く
梅雨の空気を含んだ季節の隙間に生きた、あの“幸福の場所”を
私は、見付けた。
END.
無料HPエムペ!