イノセント
変な例え方をすると、彼は全身からセックスの匂いがするのだ。
晒された上半身、ジーンズにまで染みた汗、滑るように動く指がベースの太い弦を弾き撫で叩く。
その指と上がった息を感じて濡れない女はいないのではとからかったのは、どの雑誌だっただろうか。
とはいえ本人はそんなつもりは全くないようで、記者との対談でもしきりに照れているものが多い。
(……天性のフェロモンって事か…)
フリオニールは、生まれてはじめて対面した人気バンドのベーシスト、ティーダをそう評価した。
そうでもしないと、舞い上がったまま何を言うかわからない位に、冷静にはなれなかったからだ。
イノセント
「俺たちの事、知ってるんスか?」
ライブの熱が引ききらない暑い夜。
今夜この場所を熱気で満たしたのが、ティーダがいるバンドだった。男女問わずにファンが押し合い、つぶし合い、踊り狂う。前列では激しいモッシュがおこり、掲げられた腕がリズムに合わせて蠢く。
どのバンドでもおこる事だ。
けれど、会場のスタッフであるフリオニールにとっては彼等はただのバンドではなかった。
同世代の彼等が巻き起こす嵐、独特の空気。ボーカルの低く響く声とリズム隊の均整のとれた打撃音。その全てがフリオニールを圧倒した。雑誌やCDでは決して聞けないその全てに、
惚れた。その一言に過ぎる。
そして、会場の後片付けをしながら夢見心地のフリオニールにかけられた言葉が、「俺たちの事、知ってるんスか」だ。
そう、一瞬でフリオニールを魅了した、彼の。
無意識だった。それはライブのアンコールに歌われた、彼等にはおそらく珍しいバラード。
遠くに暮らしていた恋人を年老いた男がふいに思い出すといったような、そんな歌だった。
曖昧な記憶で、フリオニールはその歌を口ずさんでいたのだ。
ティーダは、それを後ろで聞いていたらしい。むちゃくちゃに歌われたというのに、それはそれは嬉しそうに近づいてきた。
まだシャワーを浴びていないのか、ライブの最中にTシャツ脱いだままの晒された裸体に、乾きだした汗が光り、髪も、ジーンズすらぐしょぐしょに濡れそぼっている。若干息もまだ荒いようで、それはそう、いつか雑誌でみたままの。
「いや、その…スタッフなんです。今日は会場担当で挨拶出来なくて、あの…すいません!!」
「スタッフさんッスか!そっか、俺こそごめんなさい、嬉しくてつい」
その曲、俺がはじめて書いた曲だからさ。と屈託無く笑ってみせた。
その仕草と、滲み出る空気が違いすぎるのだと、思う。
みるみるうちに自分の顔が赤くなっていくのがわかった。この指が今日、何人の人間を魅了したのだろう。何人が自分のように彼を感じ、でももっと感じたいと………
(……ってなんだそれ!感じたいとかちょっとキモい俺!)
自分の思考に赤面して話せなくなったフリオニール同様、ティーダの方も戸惑っているのか、黙ったままだ。
どうしよう、気まずい。
漸くそこまで頭が回転したフリオニールが何か話そうと口を開いた瞬間。
「……っくし!!…あー」
ティーダは、くしゃみを我慢していたらしい。
そういえば半身を晒した状態で夜の空気に触れれば、どんなに暑くても直ぐに冷えるだろう。見れば、腕にも鳥肌が立っている。
色々考える前に、スタッフ専用のブルゾンを脱いでいた。
数歩の距離を一瞬で縮め、肩に羽織らせる。
「え……あの、」
「すぐシャワーして下さい!風邪ひいたら大変だし…それまでこれ着て。ちゃんと袖通して、前しめて」
「でも俺、汗臭い……」
「いいから、そん……………あ、すいません……」
だって、風邪なんかひかせたくなかった。
それはスタッフとして、アーティストに対する思いなのか、違うのか、わからないけれど。
意外と小さく見える肩とか、項に広がった子供みたいな鳥肌とか。守ってあげたくなってしまった。
(そんな言い訳、余計気持ち悪い…よな)
だから、フリオニールは逃げた。
とりあえず戦略的撤退だとかなんとか意味のわからない事をうだうだ考えて、口では俺は仕事がどうのとかなんとかごにょごにょ言って。
音楽に惚れて、人間に惹かれたティーダに背中を向けて、走って逃げた。
(ほんとにばかだ俺!!絶対変な奴と思われた!)
だから、フリオニールは知らない。
急にブルゾンを着せられ、急に逃げられて呆然としていたティーダが、そのブルゾンの裾を握りしめて呟いた事を。
唇に、隠しようがない位に笑みを浮かべていた事を。
その顔が、セックスの象徴とからかわれる程の彼の顔が、誰も見たことのない位に甘く、子供みたいに無邪気だった事を。
「……ふふ、…変な奴!」
/だいすきな子の為に書いたやつでした
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