◇Passing
□
1.
忘れたと思っても克服したと思っても、心の奥底に刻まれたそれは根深く、全てを取り除くことはできない。
行為後の甘美な気怠さを押し退けて、漠然とした不安感が胸を浸蝕する。
ああ今日は駄目な日だと確信に似た直感があった。
穏やかな休息は得られそうにない。
「…貴仁」
縋るように名を呼び、子供のように身を擦り寄せる。
あまりに漠然としたこの感覚だけは、助けを求めようがない。どうしようもない。
抱き込む腕の重みだけで十分だと、大丈夫だからと自分に言い聞かせて目を閉じる。
寝付いて間もなくの事だった。
うなされて目を覚ました視界の中に、うっすらと窓の形だけが浮かんでいる。
嫌な夢を見た感覚が残っていた。
呼吸は乱れ、肌はじっとりと汗ばんでいる。
意識のはっきりとしない曖昧な覚醒。
傍にあるはずの人肌を探し、すぐに触れた体温に安堵する。
眠る貴仁にぴたりと寄り添い直すと、規則的な寝息が微かに聞こえた。
それを頼りにもう一度意識を沈めていく。
浅い眠りについてまた、すぐに目が覚めた。
そこにあった温もりがない事に気付く。
「…貴仁…?」
眠るまで、つい先程まで確かに居たはずが暗闇に腕を伸ばしても、空を掻いてぺたぺたとシーツに触れるだけ。
緩慢な動作で上体を起こし、ドアをみつめた。
どこへ行ってしまったのか。
膝を抱えて蹲る。
また悪い夢ばかり見ていたのか、心臓がおかしなリズムを刻んでいた。
一人きりのベッドは広く目を開けていてもぽっかりと暗い空間がそこに広がる。
急に眠るのが怖くなる。
今日は一人でいたくない。
もう一度貴仁のいない隣に手を伸ばすと、冷たい携帯電話に触れた。
わがままで嫌われたくなくて手を離し、じっと胸に抑えこむ。
「……っ」
はやく帰ってきて。
脈も落ち着かないままぎゅっと両目をきつくつむると、そのまま眠りに落ちていた。
途端、待ち構えていたような悪夢に囚われた。
貴仁がいない独りの部屋で、ここあるはずのない影がのしかかる。
喉を絞められたように声が出ない。
まるで意味を為さない抵抗に、自分の身体が幼いそれに変貌していることに気付いた。
泣いても許されず、無理矢理に身体を開かれていたあの頃。
これは夢だと言い聞かせ必死に振り払って目を覚ます。
「――っ」
早鐘を打つ心臓が苦しい。
鷲掴むようにそこを押さえつけて手探りで携帯を探した。
瞳をいくら見開いても広がる暗闇。
息が上がり無意識の涙が頬を伝う。
漆黒に溶け込んだ目の前のドアが今にも開く恐怖。
祈る思いで電話をかけた。
「……っ」
続くコール音が途切れない。
どこにいるのか――誰といるのか。
「たかひと…っ」
怖い夢を見たなんて、そんな子供みたいな事。
発信を切りベッドに沈み込んだ。
動悸は治まらず、泥の様な眠りに引きずり込まれていく。
悪夢が手招いていた。
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