あの頃、あいつは生きていた




春の生暖かい風に吹かれて私は目を開けた。寺の一角に佇むその部屋は、私の寝室であり私室であった。今は、障子を締め切っているはずなのに、と思ったが、きっと後ろにあいつがいるのだろうと思って、私はもしかしたら、ともう一度思ってしまった自分に対して声もなく嘲笑った。そして先程から肌を心地よく撫ぜるようなその感触に身を任せながらもう一度目を瞑る。去年、私の隣にいた男はもうここにはいない。当たり前のように一緒だったはずなのに、男は簡単に死んでしまった。誰に殺されたとか、事故とか、そういうんじゃない。ただの病死だった。そう、ただの。

死ぬ前にあいつは私の肌を撫ぜながら愛しい、愛しいと繰り返した。私はそれがとても辛くて、悲しくて、これが最後だと思って私も男の髪を撫ぜてあげた。するとそいつは大きく息を吐いて、今までに無いくらい真剣な顔をして、くちは、と私の名前を呼んだ。それっきり、何も喋らなくなってしまったけれど。


時折こうやって肌を撫ぜる感触が、ふいに蘇る。優しく、ゆっくりと繰り返すその仕草に、忘れかけていたあいつの笑顔と思い出と共に頭の中を駆け巡って私はまた泣きそうになる。その手を掴もうと頬に手を当てるが、そこには涙が伝った私の頬の感触しかなく、嗚呼あいつはまた私をからかいに来たのか、と一人呆然と立ち尽くす。


「朽葉」


あの時のように名前を呼ばれる。きっと振り返れば泣きそうなあいつの表情があるのだろう、そんな顔、もう見たくない。それに、例え振り向いたとしても、私には何も、あいつに対して何も出来ない。また泣いてしまうだけだから。

「くち、は」


春の風が、私の部屋に吹き渡る。
温かい感触が、私の頬を撫ぜて、ゆっくりと消えていった

あの頃





あきゅろす。
無料HPエムペ!