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pdr
紙風船のジレンマ(東御)

 御堂筋が落ちた。
 落車ではなく、歩いていて歩道橋の階段からだった。元々、自転車に乗っていない彼の運動神経はゼロに近かったので咄嗟に手を着く事も踏ん張る事も出来ずに一番上の段からまっさかさまに落ちた。筈だった。

 数歩前を歩いていた東堂が彼を受け止めようと伸ばした手は空回り、落ちていくはずだった身体はそのまま東堂の頭を飛び越えて宙に浮いた。ぽかんと口を開けて見送りかけて、慌てて細い手首を掴む。掴まなければ、そのままどこかへ飛んで行ってしまう所だった。

 それから御堂筋の身体は常に浮いていた。本人の意思ではどうにもならないらしく、屋根のあるところでなければ移動したがらなくなった。自転車に乗るか、捕まっていれば地面から離れなかったので外に出るときは常に自転車と共にするようになっていた。
「デローザがなくてもオレが手を繋いでいてやると言ってるだろう」
「いらん」
 偶々住居を探している最中に条件が合い、家賃折半を条件に二人で暮らし始めた。御堂筋翔という人間に興味があった東堂は同居に積極的だった。御堂筋は家賃が安くなるならなんでもいいと受け入れ、暮らし始めても関係は変わらなかった。
 彼の生き様のようだ、と宙に浮かんだ御堂筋を見て東堂は思う。天井に手を当て、ふわふわと移動する姿は異様である筈なのに元の背が高いからか左程違和感を覚えない。
 眠る時は毛布で体をくるんで丸くなり、天井の隅に浮かんでいる。

 自転車にさえ乗れれば何の問題もないと御堂筋は言った。彼の両手は自転車のハンドルを握るためだけに存在し、両足はペダルを回すためだけに存在する。そうであるから彼は地から離れたのだと言われれば、なるほどそうなのかと納得できないこともなかった。
 地から離れた御堂筋はそれまで以上に自転車に触れ、ペダルを回した。走る顔はどこか嬉しそうだった。あれが彼の本質なのか、と練習場の入り口に立って東堂はぼんやりと考えた。
 風を読み加速する後輩の事を思い出す。彼の背には羽が見えた。御堂筋も彼と同じ走りが出来た筈だ。今彼が浮いてしまうのも背中に見えない羽があるからではないだろうか。練習場の使用時間が終了し、ようやく戻ってきた彼の背に手を翳してみたがそこには矢張り何もなかった。
 汗をかいた背に服が張り付き、骨ばった身体のラインがくっきりと浮かんでいる。思わず目を奪われていると訝しげな視線を向けられた。自転車を押している彼の足は地面についている。胸が小さく軋んだ気がした。
 部屋のドアを開け、自転車を所定の位置に戻すと御堂筋の足はまたふわりと床から離れた。思わず手を掴んだ東堂に、今度は訝しげな視線と共に煩わしげな声がかけられる。
「なんなん」
「いや、治らないな」
 床と足の間の隙間を見て言う。別に治らなくても問題ないと言いたげな御堂筋が手をはらおうと振るが、宙に浮いた身体は力を支えられないので振りほどけなかった。
「好きだ」
「は」
 脈絡のない言葉に御堂筋の目が見開いた。大きな目が零れそうだ、と思った。ぱちぱちと瞬きをしてから、首を捻る姿にもう一度繰り返す。
「好きだ、と言った」
 両手首を掴み直して引き寄せる。浮かんだ体に重みはなく、簡単に顔を寄せられた。
「意味が」
「意味なんかない。ただ、背中が」
「背中?」
 うまく言葉にできなかった。トークも切れると自負し誇っている自分とは思えないほど彼に対する思いが形にならない。
 強く狡猾な内側にある脆弱な部分を、きっと感じていたのだ、と東堂は思う。感じ取った内側に確信を持つために同じ屋根の下に住めたらと同居を願った。薄く鋭い刃のような殻の中身は、想っていた以上に脆く小さい生き物が居た。
 それこそ、ほんの少しの風に飛ばされてしまうような。
 引き寄せた体の背に腕を回した。羽はないが、手を放せばまた体は宙に浮く。
「やっぱり、ないな」
「なにが」
「なんでもない」
 肩甲骨を両手で撫で、身長差よりも浮いた分だけ離れた胸に額を寄せた。
「シャワー浴びたいんやけど」
「すまない」
 手を放すと、天井に手を付いて移動するのも慣れたものだった。風呂場に入っていく背中を見て、ドアが閉まってから彼の通った場所を歩く。脱衣所に入り、浴室のドアに手を当てて中から聞こえる音に耳を澄ませた。宙に浮くようになってから御堂筋は湯船に浸からなくなった。元々浴槽にはあまり入らない性質であったが体にいいからと東堂が説き伏せて浸からせていたが浮いてしまっては入るに入れなくなったので仕方ない。
 そうしてどんどん、要らない物から離れていくのだろう。自転車に触れていない体は要らないから、彼はその体を無いものとした。重力を消し、存在を消した。自転車に触れていない自身は世の中に必要ないと。
 脱衣所のドアを閉めて背中を預け、ずるずると座り込んだ。掌を見つめて掴んだ手首の感触を思い出す。
(オレでは駄目なんだろうな)
 どれだけ強く手首を掴んでも御堂筋の足が床に落ちることはない。自転車のハンドルを掴んだ瞬間だけ、彼の身体は重力を思い出す。東堂の手にできることは、重力を忘れた体を必死に捕まえることだけだ。繋ぎ止めることはできない。
 十数分して開いたドアから顔を出した御堂筋に「なに泣いとるん」と言われて東堂は自分が泣いていることに気付いた。
「一緒に寝てもいいか」
「イヤや。っちゅうかムリやろ」
 タオルで体を拭い、足元を指す御堂筋にそうだなと相槌を打ってから東堂もシャワーを浴びた。
 寝室に入ると普段通り毛布にくるまった御堂筋が天井の隅に居る。ベッドに乗って手を伸ばし、服の裾を掴んで引っ張った。
「…なんなん」
「一緒に寝たい」
 重さを持たない体を引き寄せるのに力はいらない。ベッドまで引っ張り、浮いた身体が逃げないように両手で捕まえた。半分眠っていた御堂筋は面倒なのか毛布にくるまって目を閉じる。
 浮きかける体を逃がさない様に抱きしめると、苦しげな声が聞こえたが手は緩めなかった。自身の身体を重しにするように乗り上げ、胸元に形の良い頭を抱きこむ。暴れると思ったが意外にも御堂筋は大人しく寝入った。一度、寝言のように「おと」と呟いた気がしたが確信は持てなかった。

 目を覚ました時、仰向けになっていることに一瞬焦ったが目の前に頭頂部が見えたのでほっとする。腕を回していなかったが、彼の身体は宙に浮かない。けれど、重みはなかった。眠っているのかと思った目は開いており、何をしているのかと見て見れば東堂の胸に耳を当てていた。昨晩の「おと」という言葉が「心臓の音」であったのだと理解するのと同時にそれまで横を見ていた顔が東堂に向いた。
「おはよう」
「…おはよ」
 挨拶をすれば半分閉じた目で返事をした御堂筋が起き上がってベッドから離れて浮いた。昨日と同じだ。髪を掻きあげ、昨晩の事をどう釈明しようかと迷っていると部屋から出ると思った体がくるりと振り向いた。
「東ドウくん」
「は、」
 肩に置かれた手に視線を向けていたせいで、御堂筋の行動の意味を理解するのに数秒かかった。ぴったりと床についた足と目の前の顔を交互に見つめる。
「今日、そこのスーパーで豆腐安いんやって」
 スーパーの中に自転車は持ち込めない。体がこうなってから御堂筋は買い物を東堂に一任していた。
「キミィの選んでくるご飯、飽きたわ」
「な、これでもちゃんとバランスを考えてだな」
 言い返しながらも、彼が一緒に買い物に行こうと提案している事実に感動する。細長い指をまとめて包んで東堂も立ち上がる。手を放せばきっとまたこの体は浮いてしまうのだろう。
 捕まえるだけでなく、繋ぎ止めることができる。変化の理由は恐らく自分でなくてもよかったかもしれない心音だ。彼と同じ部屋に住めた偶然に心から感謝し、重さのない身体が浮かない様に確りと手を繋いだ。

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