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眠れない夜(東御)

その日のレースに東堂は出なかった。もともと前日まで実家で用事があり、調整が不可能であったのでスタートから遅れて観戦にきたのだ。恋人の走りを見るために来たというのに出走後に到着したため彼の姿を確認できなかった。
 心身を削り続けて走る彼に惚れて、同棲するようになって半年経つ。学業とレースに専念する御堂筋と、バイト兼実家の手伝いや同じくレースに集中する東堂の生活サイクルは噛み合わなかった。
 同じ部屋に住み、寝食を共にしながらも恋人らしい営みはない。時間が合わないとは言い訳で、御堂筋が性的な接触を避けているのを察している東堂が彼の準備が整うのを待っているのだ。
 男同士での恋愛を、彼は拒絶しなかった。というより、男女の境なく御堂筋が性に苦手意識を持っているのではないかと東堂は感じていた。



 ゴールの位置までバスで移動するために歩きだした背後から、慌ただしい声がした。運営スタッフと思しき何人かが無線で話している内容が耳に入り頭から血が下がった。

 医療テントに走っていくと、御堂筋のアシストである石垣が手を振って位置を知らせてくれた。ふたりの関係を知り、肯定してくれる数少ない仲間だ。
「御堂筋は」
「大丈夫や。ただ、頭打っとるのと打ち身あるから一週間は安静にしろって」
 ほっと息をついてから、石垣の右腕に巻かれた包帯に気付き、御堂筋だけを案じていた事を謝罪する。
「ええて。俺のんは落車のやないし。たいしたことあらへん。それより東堂、御堂筋がちゃんと安静にするように見張っといてな」
 任せろ、と頷いて御堂筋の荷物を受け取り、検査を終えた彼を連れて帰宅した。


 集団落車のあと、御堂筋は再び自転車に乗って走り、結果一位になった。ロードレースでは落車してから再度走るのはめずらしくない。頭を打っていた彼の行動は誉められたことではないが今日は祝ってやろうと好物の鰻を注文した。
 食べながら聞いた話では、落車したあと、石垣は一度御堂筋を止めようとしたらしい。なるほどあの怪我は御堂筋が彼を振り切った時のものだったのか、次に会ったら改めて謝らなければいけないと東堂は容器にこびり付いた米粒を器用に箸で摘みながら想う。
 食事のあとで、半分眠りながら歯磨きをしていた御堂筋が風呂のドアを開いたので少し悩んでから一緒に入った。今にも眠りそうな彼を、一人で湯槽につけるのは危険な気がしたからだ。僅かな下心は疲れ切った彼を想って押し殺す。

「東ドウ、くん」
 眠たげな声に呼ばれて顔を上げる。男二人で向かい合わせに入る浴槽は狭かった。
「なんだ」
 互いに膝を立てて体を縮めてはいるが、爪先はどうしても触れ合ってしまう。
「キミィ、ボクのこと好きとちゃうよね」
 は、と間抜けな形で口を開けた東堂にかまわず御堂筋は続ける。
「好き言うてもレースの時だけやろ。無理せんでええよ。女の子とお付き合いしたらええやん」
「ちょっと待て、何でそう決め付ける」
「やってキミ、ボクに欲情せんやろ」
 浴槽の淵に肘をついて手の甲に頬を乗せて言う。それだけの姿に東堂がどれだけ欲を煽られ抑えているのか解っていない。
「したいならしてもええよ。どうせ三日はペダル回すなて言われとる」
「一週間だ」
 訂正し、湯から出ている膝に触れると流暢に紡がれていた言葉が途切れた。息を呑み、体を寄せて額に口付ける。続けて伏せられた目蓋に唇を寄せた。
 勢い良く立ち上がり浴槽から出て、ドアを開けた東堂に、御堂筋は驚いた顔で瞬きをした。
「しない。もう寝ろ。疲れてるだろ」
 顔を見ず早口に言って乱暴にドアを閉めた。御堂筋と体を重ねたいと何度も想ったが、無理をしているのがわかって付け込みたくはなかった。

 貰い物であるダブルベッドに、同棲してからずっとふたりで寝ている。性的な意味を持っての接触は一度もなく生殺しと言われればその通りだった。
 風呂から出てベッドに入った御堂筋はすぐに寝入ると思っていたが、意外にも風呂での会話を再開した。
「無理せんでええよ」
 レース後の彼は、死んだように眠るか、あるいは興奮して寝付けないかだ。今日は後者らしい。
「ボクゥはキミのこと嫌いやないからええよて言うたけど、別にキミと付き合いたかったわけやないし」
 知っていると答えそうになるが、彼が話すのを止めたくなくて口をつぐむ。
「勢い、言うかノリみたいなもんやったんやろ。別れるなら早いほうがええと想う」
 キミと付き合いたい子なら山ほどおるで、と背を向けて言う恋人から視線を外さないまま体を起こす。
「さっきも言うたけどキミ、ボクに欲情せんやろしあんま我慢すんのもようないで」
 薄い肩に触れ、骨張った背中に胸を合わせた。言葉を止めた体に擦り寄って項に唇を当てる。息を吸うと、石けんのかおりがした。
「…っう、」
 引きつった声で、彼が押しつけられた熱に怯えたのがわかる。あからさまな興奮の証を隠さずに伝えた。恥はあったが、一番てっとり早い。
「みどう、すじ」
 荒い呼吸に混じってかたかたと聞こえた音に、とっさに体を離した。
「あ…」
 見上げてくる瞳は暗やみでもわかるほど涙が溜まっていた。動きにくい足でトイレに駆け込み、情けなさと恥ずかしさにつぶされそうになりながら自身で熱を処理する。隣で恋人が寝ているというのに、と悔しさがこみあげたが、怯えさせたいわけではないのだ。彼が極端に避けているそれを、強要したくなかった。
 トイレのドアを開けると、寝室にいるはずの恋人が廊下に蹲っていた。
「…どうした」
 膝を抱える姿はレースで負けた時に酷使している。
「体を冷やすとよくないからベッドに戻れ」
 立ち上がらせようと伸ばした手は小さく漏れた声に遮られた。
「かあさん、が」
 御堂筋の母の事は久屋にあいさつに行った時に聞いた。御堂筋という選手が生まれる過程を見た気がして納得したのを覚えている。
「…ボクにとって、オンナノヒトの象徴なん」
 義妹や、伯母も身近な異性ではあるが、彼にとって一番大きな女性像が母であることは何もおかしくない。恥じることではないだろう。蹲る御堂筋の横に膝をついて床を見つめている横顔を覗き込む。
「綺麗なん、や。汚したらあかんもんで、だから」
 途切れる声は、言葉を探しているようだった。意思表示の下手な子供そのものだ。それでも、懸命に伝えようとしてくれる彼に喉が熱くなった。

 御堂筋が、性的な事柄を極端に避けていると東堂は気づいていた。悪ふざけをしたチームメイトがミーティングルームに置いたアダルトビデをのパッケージを見た彼が人知れずトイレで吐いていた事も知っている。電車で騒ぐ男子高校生の下世話な世間話を耳にしただけで青ざめて居た事も知っている。
 性を玩具のように扱うことに嫌悪しているのだと思っていた。だが違った。御堂筋にとって、母と過ごした病室は侵すことも穢すことも許されない聖域だった。早すぎた別れは彼の成長を歪め、勝利のために捨てた中に、普通であれば持っているカテゴライズがあったに違いない。
 異性に対する欲情を全て大切なものを汚す悪意だと信じて嫌悪し、いつしかそれは異性に限らず性的な物全てになっていたのだろう。

「…なんでキミが泣くん」
 いつの間にかぼろぼろと泣きだしている東堂を見て御堂筋が呆れた声を出した。
「おまえ、が」
 理由は解れど東堂に彼の苦しみを取り除いてやる事は出来ない。それどころか彼を愛そうとするほど苦しめてしまう。
「お前が話してくれたのが、嬉しくて」
 不器用な言葉で紡いでも勘のいい東堂ならば解ると御堂筋は恐らく解っている。結論として何が言いたいのかもだ。
「だが、別れないからな」
 拭っても拭っても涙は止まらなかった。
「俺は別に、お前とそういうことがしたくて付き合っているわけじゃない」
 不思議そうに、立てた膝に顔を乗せた御堂筋が眉を寄せる。言葉と、先程の行動が矛盾していると言いたいのだろう。
「いや、勿論したくないわけではない。ただ、お前が平気なるまでいくらでも待つと言ってるんだ」
「…平気にならんかったら」
「待つさ。何年でも」
「一生ならへんかったら」
 それは少し困る。そう思ったが口にはしなかった。
 風呂でそうしたように、膝に手を当てた。レースで疲弊していると、触れただけで解る。
「待てる。それで一生傍にいれるなら」
 若い男として拷問にも近いな、と思った。けれど彼が自転車以外のふたりについて未来の事を口にするのが初めてだと思い当たった瞬間、止まりかけた涙が零れて、しかし笑みが浮かんだ。

 蹲った身体に腕を回して抱きしめる。走るためだけの身体と精神を、傷つけないようにできるだけ優しく腕に閉じ込めた。
 キモイ、と呟いた声に小さく笑い声を漏らす。泣くか笑うかどちらかにしろと御堂筋の声にも笑いが含まれていた。
「一週間だからな」
 どうしても早くペダルを回したがる困った恋人に、もう一度忠告して東堂は笑った。



漫画で本にする予定で没ったネームを思い出して書きはじめたは良い物の最後どうなるか思い出せなかった。
なんとなくハッピーエンドだった気はしてる。

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