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湯豆腐(東御)

 オフシーズンの御堂筋は大人しい。抜け殻と言っても過言ではない。必要以上の消耗を避けて殆ど外出しない。同居している限り家事や買い出しは分担だ。外出を嫌がる御堂筋を負担だと思った事はない。むしろ―

「どこへ行くんだ」
「…おとうふ」
 耳を澄ますと確かに豆腐屋の車が巡回販売している音がする。片手にあるボウルで、言いたいことは理解できた。
「俺が行く」
 玄関に座って靴を履こうとしていた御堂筋の脇を抜け、サンダルをつっかけると東堂は素早くドアを施錠して走り出した。
 ぼんやりとしている御堂筋を一人で外に出すのが嫌だ。もっと言えば誰かに見られるのが嫌だ。
 豆腐を買って帰宅するまでの間、家に一人で待たせている彼が気になった。子供ではない。大学を卒業し、一人で生活できる立派なプロレーサーだ。自転車にさえ乗っていれば御堂筋翔は化け物じみた強さを見せる。何物にも負けず、寄せ付けない気高い生き物だ。
 自転車から降りた彼は弱く、生気がない。自転車に乗るための強さと引き換えにしてるのかもしれない。

「ただいま」
 ボウルに入れた絹豆腐二丁を崩さぬように気を付けてシンクに置いた。
 湯豆腐の準備をしていた御堂筋が礼も言わずにボウルを手に取る。料理をする時の彼も、必要最低限の動きだけでとても静かだ。目を離せばあまりの静かさに彼が消えたのではないかと不安になるので東堂は御堂筋から目を離さない。
 御堂筋翔を儚いと表現すれば、彼を知る人間のほとんどは似合わない形容詞であると笑い飛ばすだろう。勝手に笑えと東堂は思う。彼を笑う人間に、彼の事がわかってたまるかと。
 御堂筋は純粋で強い、とレースで会った石垣は言った。石垣は御堂筋を笑ったりせず、彼を認めている。
 御堂筋は卑怯だが、実力は認めているし根は悪いやつではないと思いますと、学校の交流会で会った総北の今泉は言った。今泉も御堂筋の事を嫌いではあるが認めている。
 総北の選手も、東堂の仲間である箱学の選手も、皆表面で人間を決めつける愚か者ではない。御堂筋翔がかぶっている仮面の下にあるものを薄々感づいている。それがどんなものかは誰も知らない。
 知られたくない。静かな調理の音に耳のをすまして思う。
 ひっそりと生きる御堂筋翔の姿を誰かに知られるのは嫌だった。オフシーズンの、特に自転車から一番離れるほんの一瞬の間を、誰かに見られるのが嫌だ。御堂筋もそう思っているに違いないが、黙って傍にいるだけの人間を追い払うだけの労力も惜しいのか東堂を追い出すことはしなかった。
 出来たで、と小さく、注意深く聞いていなければ聞こえないほどの声で御堂筋が言った。二丁分の豆腐は東堂の分もある。というより御堂筋はオフのこの期間、食事量が驚くほど少ないので一丁の半分だけが彼の物で、残りは東堂の分だ。
 小さな炬燵に運ばれた鍋からそろいの器に豆腐を分けていただきますと言ってから食べ始める。
 大きな口で小さな一口を繰り返す彼の食べ方が東堂は好きだった。敵を威嚇する時の、演技じみた食事の仕方も嫌いではないが、丸まった背に反して綺麗な箸の持ち方が目立つ大人しい食べ姿はいつも胸が締め付けられる。
 レースで走り、身を削っている最中に彼はもっとも生きていると感じるのかもしれない。東堂の後輩である真波がそうであるように彼もまたギリギリの緊張感の中でしか生の実感を得られない生き物だとしてもおかしくはない。
 それでも、静かに大人しく食事を口に運ぶ彼を見ると、東堂は彼が生きているのだとしみじみ実感する。
 走っている彼を否定する気はないが他者を傷付ける彼の姿勢を、正々堂々を信条として生き、育てられた東堂はどうしても認めることができない。勝つために何をしてもいいという御堂筋を、大人になった周囲は徐々に諦め受け入れ、愛し始めてすらいるが、東堂は選手としての彼を愛することは生涯ないだろうと予感している。
 だから東堂は、彼に恋人になってくれと懇願した。
 始めは何を言っているのか御堂筋も理解せず首を傾げ、東堂自身自分の主張が要領を得ていないと解っていながら彼が頷くまで食い下がった。
 彼が自転車から離れてどのような姿になるのか最初から知っていたわけではない。出走前にちらりと見せる表情に東堂の中の勘が働いたのだ。一目ぼれと言ってもいい。追いかけて、彼が自転車から降りた姿を見て離れないと決めた。
 他の誰かに気付かれてはいけない。
 外出を嫌がる御堂筋は、東堂にとって好都合だった。
 誰にも見られたくない姿を、自分で隠してくれるのだ。
 実家の人間にすら、御堂筋はその姿を見られることを嫌っている。練習を再開する直前に顔を出し、挨拶するだけで日本を去る。チームに戻ればまた化け物じみた走りで他社を圧倒する。
 食べ終わった椀を受け取り、自分の物と重ねて蓋をした鍋に慎重に乗せてキッチンに運んだ。うどんを食べるかと尋ねてるが答えは矢張り否だった。
 自分で食べる分をゆでながら、東堂は炬燵で眠り始めた恋人の寝顔を見る。
 静かな寝息は、調理をする時同様に、目を離せば消えてしまいそうだった。


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