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pdr
空の天秤皿(新御
モブの死亡ネタ
すこしふしぎ




間違えた。まただ。

痛む頭を押さえて新開は周囲を見回した。見慣れた交差点、見慣れた制服の人波。朝飯を食いそびれた日に駆け込むコンビニ。雑居ビル。入ったことのない小児科病院。シャッターの降りた開店前の不動産屋。駅からも学校からも半端な位置にある繁盛していない駐輪場。分厚い雲に覆われた空が時間帯を曖昧にし景色全体を重苦しく彩っている。

携帯電話の液晶に表示された曜日は金曜日。金曜朝、通学の時間。同じ方向に流れていく青色の制服。その中に、新開の頭痛を呼び起こす存在がいる。見落とさぬように注意深く周囲に気を配りながら歩を進めた。特徴のない、小柄な女生徒を集団から探すのは難しい。けれどタイミングも位置も大体の当たりがついているぶん有利だ。

「あぶない」

驚く女生徒の腕を、決して驚かさない強さで掴んで歩道に引き留める。同時にすれすれの車道を爆音を上げた大型のバイクが通りすぎていった。驚きと恐怖と安堵の混ざった女生徒は震えた声で新開に礼を言った。




学食から教室に戻る途中、新開は朝と同様に周囲に気を配りながら歩いていた。並んで歩く福富に不自然さを追求されかけたが何でもないと誤魔化す。言葉を額面通りに受けとる友人は新開の嘘を鵜呑みにした。

長い廊下の先、突き当たりにある理科室には選択科目を変えてから入っていない。階ごとの間取りは変わらないので下の階でよく使う特別教室を想像すれば差違はないだろう。入りもしない理科室の前に立つと同時に突き当たり角から荷物を運んできた、恐らく新任である教諭にぶつかった。避けられる速度で、相手も避けようとしていただけに数歩先にいた福富がやや驚いて目を見開いていた。

「すみません」

新開の丁寧な謝罪に若い教諭は苦笑いをして落とした冊子を拾おうと屈む。校舎全体が震えたのは冊子を拾い上げた教諭が立ち上がるのと同時だった。

地震か、と福富が呟き若い教諭も結構揺れるねと廊下のすみに置かれた掃除用具入れを見ながら言った。古くなり立て付けの悪くなった扉が揺れに合わせてキィキィと音をあげている。

けたたましい破壊音が響き、新開を除く二人が息を飲んだ。理科室、ではなく理解準備室。慌ててドアを開けた教諭の背後から福富に並んで室内を覗く。棚に並べてあった瓶が地震で軒並み床に叩きつけられていた。大小様々な瓶は、教諭が運んだ荷を下ろすであろう机に直撃し頑丈そうな表面を無惨に傷付けていた。

落下防止の器具が老朽化していたのかもしれない、と言ってから教諭は新開に感謝の視線を向けた。



コースを変えようと言う新開の提案に反対はなかった。練習メニューにめったに口を挟まない仲間に幾人かが意外そうにはしたが。

卒業を控えた三年生は下級生とは別に、けれど今までと極端にレベルに差をつけない練習をしている。進学や就職を控えながらペダルを緩める意思のない仲間は新開の誇りだ。

走行中に降りだした雨は部室に戻る前に本降りになり、着替えの最中には耳を塞いでも聞こえるほどの豪雨になった。帰りの下りで後方を走る一人が機体トラブルに見舞われたが大事には至らず無事に部室に着いた。三年がコースを変えたついでに途中まで同行した下級生は運良く近場のコンビニで雨宿りをしていると連絡が入った。

道を変えてよかったと電話越しに話しているのはクライマーの東堂だ。電話の向こうが何時なのかはわからず、あるいは電話ではなくインターネット回線を利用したアプリかもしれないが、遠い地にいる好敵手に天候の話をしていた。熱がこもるのも無理はない。予報になかった豪雨の中で予定通りの道を行けば登りの道で負傷者が出ていただろうからだ。晴れていれば、僅かな雨ならば良い練習場になるやや急な長い登りは一歩間違えれば凶器になって乗り手に牙を剥く。

運がよかった、と東堂は嬉しげに話を続ける。明るい声に室内のメンバーは喧しいと眉をひそめながらも同意していた。




一日が終わる。ようやくだ。今度は間違えなかった。

深いため息をついて教科書の入った荷物をベッドに投げ出す。これで終わりだ。夕食をほとんどとらずに部屋に戻る新開を皆心配していた。特に泉田がかわいそうなほど取り乱していたので明日の朝には謝らなければいけない。他の仲間にも心配をかけたと気負わせない程度に挨拶をしなくては、と決めて新開はようやく目を閉じた。

疲れきった脳は朝までろくに機能しないであろうと思ったが、よりによって睡眠すらまともにとれないようで季節に似合わぬ汗で目を覚ました。強い月明かりに思わず起き上がりカーテンに手を伸ばす。校外との仕切りにあるフェンスに人影が見えた。不審者か、夜中に出歩く不良かと目を凝らす。どちらでもなく、けれど新開のよく知る長身の影だった。

「ーみ」

御堂筋、翔。なぜ彼がここに、 こんな時間にと思うのと同時に早足に窓の外を駆けていく足音が聞こえた。

遠目に見ても何が起こっているのか理解できてしまう観察力の高さに新開はひどく後悔した。


深夜の逢瀬は、告白のための僅かに無理を強いた呼び出しだった。偶然関東に来ていた御堂筋を、来れたらでいいからと呼び出し更に偶然が重なって深夜になった。

誰もいない寮の裏、フェンスを挟んで密やかに行われた告白は細長い体がゆらゆらと揺れ、伸び始めた髪に覆われた綺麗な後頭部が小さく頷いて成就した。うつくしい歯並びが覗く薄い唇は決して相手を想ってではないと断言していたが。

カーテンを握る手に力がこもった。今は誰とも付き合っていないからいいと確かに少年は言った。声が聞こえたわけではない。暑い競技の中で焼き付けた唇がどう動けばどんな言葉を発するのか理解できるだけだ。

月明かりが射し込む部屋で、新開はぐるぐると繰り返し続けた一日を思った。

御堂筋がこの時間にこの場所にいる理由。場所の指定は寮の敷地内から出れない相手がしたに違いないが時間はどうだ。ベッドに乗せたままになっていた鞄からノートと携帯電話を取り出す。筆箱を探る間に液晶に時刻表を呼び出した。

おそらく、と新開はやわらかさで書きにくいベッド上のノートにペンを走らせて考えた。おそらく御堂筋はもっと早くに箱根学園を訪れる予定だったに違いない。そうして落ち合った相手から告げられる告白を受け入れる予定だった。はずだ。

それなりの震度を計測した地震やどしゃ降りが遅れた原因だろう。

もっと早くに彼に会う方法はないだろうかとノートに時系列をまとめながら眉をひそめる。今は誰とも付き合っていないから、そう言った。先に新開が交際を申し込めば無頓着な薄い唇は同じ返事をする。確信めいた予感にすがり、強く目を閉じて一日の終わりが来ないことを願った。

願ってはいけないと知りながら


間違えた。何を間違えたかさえ気付いていなかった。


痛む頭を押さえて新開は周囲を見回した。見慣れた交差点、見慣れた制服の人波。朝飯を食いそびれた日に駆け込むコンビニ。雑居ビル。入ったことのない小児科病院。シャッターの降りた開店前の不動産屋。駅からも学校からも半端な位置にある繁盛していない駐輪場。分厚い雲に覆われた空が時間帯を曖昧にし景色全体を重苦しく彩っている。

携帯電話の液晶に表示された曜日は金曜日。金曜朝、通学の時間。同じ方向に流れていく青色の制服。

 新開のやや左前方を足早に描けていく小柄な女生徒を目を細めて見送る。初めて見送ってからは何度もその細い腕を掴み彼女の辿るべき運命を壊した。

 タイヤがアスファルトとの摩擦で大きな音を立てる。小さな悲鳴に続いて大きな衝突音。小さく聞こえるのは細い身体の皮膚が裂け肉が潰れて骨の砕ける音。事故を認識した生徒たちから息を呑むような声ではなく大きな叫びが木霊した。少女の身体は右側からの衝突で不自然に折れ曲がり止まり切れなかったタイヤに潰された頭蓋は髪を巻き込んで粉々に砕けていた。飛び出した眼球と視線がかち合った。気がした。

 ごめんとは謝らない。けれどきっと忘れないとアスファルトに広がって行く血だまりに浮かぶ細く美しい黒髪を見て新開は胸中で誓った。

 かつて細い腕を掴み胸元に引き寄せたか細い声で新開に礼を言った。あの声を聞く事は二度とない。遠く聞こえるサイレンの音が頭痛に響き、視界に焼きついた鮮血があまりに眩しく感じて新開は目を閉じた。




学食から教室に戻る途中、新開は朝と同様に周囲に気を配りながら歩いていた。並んで歩く福富に不自然さを追求されかけたが何でもないと誤魔化す。言葉を額面通りに受けとる友人は新開の嘘を鵜呑みにした。

長い廊下の先、突き当たりにある理科室には選択科目を変えてから入っていない。階ごとの間取りは変わらないので下の階でよく使う特別教室を想像すれば差違はないだろう。入りもしない理科室の前に立つと同時に突き当たり角から荷物を運んできた、恐らく新任である教諭とすれ違った。あまり見ない、別学年を担当する若い男性だった。

 見知らぬとはいえ教師と生徒だ。福富が挨拶をし、続いて新開も軽く会釈をする。まだ学生にも見える教諭は大量の資料をもったまま顔をほころばせて返事をした。器用に資料を片手に預けてドアを開き理科準備室に入って行く背中を横目で見送る。ドアが閉まる音を聞きながら階段まで歩いて新開は一瞬だけ足を止めた。不思議そうに振り返る福富に何でもないと言った直後に校舎が揺れた。

 地響きに似た音が聞こえ、大きな揺れの後に長く続く気味の悪い振動。校舎のあちこちから悲鳴やざわめきが聞こえる。大きな揺れと同時に聞こえたガラスの割れる音に福富が理科準備室を振り返った。

「寿一、部室いこうぜ。自転車が心配だ」

 階段の上からも廊下の奥からも聞こえてくる揺れに対する喧騒にまぎれ少し離れた位置にある扉から響くうめき声。出どころも理由も騒がしい校内では誰にもわからない。

 きっと消えない傷になるだろうとドアの中を知っている一人は思った。思いながらドアを開く事はなく階段を下る。いつまでも戻らない教諭を探しに誰かが理科準備室のドアを開くまでガラスで傷付いた肌と酸性の強い液体に溶かされた肉で、先ほどまで朗らかに笑っていた青年は苦しみ続けると知りながら。

 初めてガラスの割れる音を聞いた新開は扉を開けて強く後悔した。人肉の焼ける臭いを初めて知った。悲鳴とも嗚咽ともつかない声をあげ、それでもドアを開いた新開と福富に対して教師の顔を見せようとした青年の優しい瞳に、頭痛を引き起こす巻き戻しを決心した。はずだった。扉を開く前、地震が起こって室内のガラスが床にたたきつけられるまでの間の足止めさえ成功すれば簡単だった。

 身体をすれ違いざまにぶつけて資料を落とし、拾い上げた新開にありがとうと笑った青年の顔が見る影もないほど焼け落ちた。

 部室につくころ、遠くからサイレンが聞こえた。朝も聞いたものだ。今日二回目であり新開の頭痛を引き起こす騒音。

 部室には地震の影響はなかったが仲間が先に何人か集まっていた。皆備品や自転車を調べており、福富と新開もすぐに彼らと同様の作業に入った。


 練習メニューは一、二年生と三年生で別だった。卒業を控え進学や就職の準備をする三年生は身体に影響が出るほどの練習を控えるように教師や保護者から言い渡されている。

 三年生のコースを決めるのは専ら福富だった。誰も異論を唱えない。新開も黙って頷きグローブに指を通した。

 スプリンターを先頭にした平坦を終えて登りに入る。ペダルが重く感じるのは上りのせいだけだはない。曇ってきた空のせいでもない。

 ぽつり、ぽつりと降り出した雨にアスファルトの色が変わる。灰色から黒に埋め尽くされるより早く視界が遮られるほどの水滴が落ち始めた。豪雨だ。隣を走る仲間の声すら聞こえないほどの雨。路肩に寄って地面に足をつく。視界の隅、滑りの良くなった真っ黒な滝によく知る色の塊が転がり落ちた。数日前の工事のせいで水はけの悪くなった道は突然の豪雨に追いつかない排水が、それでも重力逆らわず登る者の進路を阻んだ。頂上近くまでペダルを回していた一人が勢いをつけて落ちていくのを誰もが目を見開いて見つめていた。手を伸ばして止める事も出来ないほどの速度で転がり落ちた身体はペダルに固定された足が離れず車体ごと坂の終わりに停まっていた車に叩きつけられた。常であれば焦らずに両足を解放できたはずがパニックに陥った選手は混乱のまま全身を強く打って短い命を終わらせた。転がり落ちていく身体から聞こえた救いを求める短く高い悲鳴は豪雨の中でもくっきりと聞こえてしまった。あるいは幻聴や、驚愕と恐怖に

 雨の音がうるさい。頭痛を引き起こすサイレンよりずっと耳の奥に残る音だった。




「今付き合うとるヒトおらんし、ええよ」


 告白の返事は知っていた。御堂筋は相手が誰でも同じ返事をするだろうと予想はしていた。そして予想は当たり、御堂筋の止まっていたホテルの一室で御堂筋は昨晩の新開の記憶通りの返事をした。

「―なに」

「なに、って付き合うって決まったんだからいいだろ」

 見た目よりも柔らかい頬に触れ、自分より背の高い御堂筋の顔を俯かせて新開は微笑んだ。唇が触れ、初めて何をされているのか理解した大きな瞳がますます大きく開かれる。

 強張る体に経験がないのだと新開は興奮しながらも冷静に安堵した。

 今付き合っている人間はいないという言葉に過去に経験がるのかもしれないと僅かな不安があった。触れた唇も抱きしめる身体も何もかもが初めてであると語っている。

「よかった、俺が初めてで」

 偵察をかねて関東に来ていた御堂筋が帰る朝、新開はその宿を訪れていた。昨晩は一度も外に出ていないという御堂筋にそうだろうなと内心で返事をする。連絡は自分が頼んだのだと新開がいえば御堂筋は少しも疑わなかった。

来るはずだった仲間は、昨日の事故を目の当たりにしたショックで他の部員同様自室に居る。


間違えた。そう強く感じ後悔を悔いた瞬間、新開は一日をやり直すことができた。そうなったのは野うさぎの母親を轢き殺してからあとのことだ。時間を遡るだけの後悔は命に関わるときだけであると昨晩までそう信じていた。仮に戻れたとして、あの日道路で壊した小さな命に対する冒涜だと頭のどこかでセーブしていたのかもしれない。

悔やみ巻き戻すことができるのは一日の始まり、最初の間違いの直前までだ。それ以上には戻れない。

命に関わること。たぶん新開にとってこれは命に関わる。腕の中で強張る体温に、手に入らなければ死んでいたと小さく呟いた。あまりに小さな独白は初めて与えられる熱に戸惑う御堂筋には届かなかった。



 通学時間に起きた交通事故で発生した交通規制は渋滞を起こし、ある車両が線路内で立ち往生した。ここで僅かに電車が遅れる。

 地震による被害で学校教諭が重体になったと部室で聞いた。少し早く着いた部屋の中は騒然としていたがニュースになっているとは新開以外は知らなかった。夕方のニュースの時間にズレが生まれ、交通情報の伝達がうまくいかない。

 練習開始から数十分経ったころどしゃ降りに見舞われた。スプリンターである新開は急な坂の手前で雨に逆らわずペダルを緩めていた。練習中に起きた不幸な事故で、仲間の誰もが気落ちして自室にこもった。

見知らぬ女生徒やすれ違うだけだった新任教諭よりも、誰より先に彼へ愛を告げることが大事だった。では仲間は、

失った仲間は新開と親しいと言える仲ではなかった。会話すら挨拶以外に交わした記憶はない。人数の多い箱根学園の自転車競技部でタイプも学年も違う走者はよほどのきっかけがなければ交流はなく彼と新開もそうだ。互いにとって互いがその他大勢だった。

事故の現場も新開は直接見ていない。痛ましい音と、悲鳴、仲間の嘆きだけを聞いた。

涙は流れなかった。豪雨の中では誰も気付かなかった。


飄々とし何を考えているかわからないながらも友を大切にし仲間を思いやり後輩にも目端の利く良い選手。いつだったか、新開に対して誰かがそう評していた。

暗くなり始めた部屋の固いベッドで深い眠りにつく御堂筋の肌に浮かぶ鬱血を指でなぞる。行為に及ぶには狭いシングルベッドに仰向けに転がる薄い身体。ブラインドの隙間から消えかけた夕陽が射し込んでいる。部屋のすみに置かれた輪行袋は使い込んでいるものの扱いが丁寧なのは一目でわかった。

布団から見えるだけ色素の薄い肌を撫でてから、新開は狭い部屋の入り口すぐにあるユニットバスに向かった。薄い扉は入り口の扉と同時に開けることがかなわないほど最低限のスペースしか確保されていない窮屈なつくりだった。安宿なだけあると苦笑し、汚れた鏡で顔を見た。新開は自身が特別整った顔をしているとは思わないが鏡にうつった顔は予想より遥かに憔悴していた。

仲間を失った選手の顔。ではない。新開自身回数を忘れた繰り返しの最後の顔だ。体感にすれば一週間では足りないほどの時間。洗面台に手をついて排水口を見つめる。長い前髪が視界にちらりと入った。もう一度顔を上げ、鏡に映った顔は先ほどよりは幾分かましだった。ほしい物を自覚し、手に入れる手段も知っていて実行するだけの覚悟もあった。

 仲間想いだなどという評価を新開は一度も自身にしたことはない。ほしいものに対して愚直に進むのが新開隼人であると誰よりも理解してる。他者に分かりにくいのは、みっともない姿を晒してまで求める物が極端に少なかったからだ。努力を怠ったつもりはないが、努力に見合うだけの結果が出し続けられた幸運で求める物は自然とあとからついてきた。勝利を求めて回したペダルも一度の過ちで失った命を取り戻す事はできなかったが復帰に後悔はない。

 純粋に犠牲を生みながらも勝利に向かって走ると言う意味ではいい選手と評して間違いないのかもしれないが、周囲からの評価と新開の自覚には齟齬があると感じていた。

 備え付けの歯ブラシを手にとって包装を破く。歯磨きの音は嫌いではない。頭痛が僅かに和らいだ気がした。

 歯磨きと洗顔を終えて新開がユニットバスから顔を出すと御堂筋は未だにベッドで深い眠りの中だった。初めての行為に疲れ切った少年は少しの物音では心地よい夢の中から出てこない。

 色素も身体の厚みも少ない、全体的に薄い身体だ。ふたりで乗っていた時よりも御堂筋が手足を伸ばしている時の方が狭く見えるベッドに不思議と笑いがこみ上げた。

 御堂筋が好きだと自覚をしたのはほんの数時間前だ。正確に体感時間で表現するなら一日と数時間。けれど誰よりも早く、恋人のいない状態の彼にその場所を請うにはじゅうぶんな時間だった。

 月明かりの中でよく知る仲間に対して頷いた顔。炎天下の道の上で見た表情とは少しも重ならなかった。穏やかで、大きな瞳には月が映り込み、低い鼻は陰影をつくらずにつるりとしていた。真っ白で並びのよい歯は素直にうつくしいと思えた。

 道を走る中で観客が彼の風貌を恐ろしいと口にしているのを聞いた事がある。異様に大きな目も口も、確かに恐怖を感じる者はいるはずだ。理解はできるが新開は少しも共感できなかった。御堂筋がどういう意図を持って自身の見目を利用しているのか察しのいい新開には容易に解ったからだ。解ると同時に精いっぱい威嚇をして恐怖を押し殺す子供に沸いた感情は間違いなく同情に似た好意だった。仲間や後輩は彼を卑怯だ、口が悪いと負の評価をしていたが新開はやはり共感できず口を噤んだ。

 大会を終え、京都に帰ってしまった御堂筋翔という選手にいつかまた、できれば道の上ではないどこかで会えればいいとぼんやり願っていた。

 御堂筋が一晩箱根で眠っていたと後になって知り酷く後悔した理由をその時の新開はまだ自分でもわからなかった。寝顔を見たとどこか嬉しそうに言う仲間が御堂筋に対して抱いていた思いにも、新開はまだ知らなかった。

 仲間が御堂筋翔に抱く気持ちを知るのと自身が抱いていた気持ちを同じ夜に知ってしまった。奪う方法を躊躇わずに使う自分の酷く恐ろしい部分も同じ月明かりの夜に知った。そして恐らくこの先も。

 シーツに投げ出された掌は新開よりも大きい。横向きの掌を仰向けて自身のものと重ねる。新開の掌は重ねたそれよりずっと分厚い。御堂筋の身体は一見骨と皮だけに見えるがペダルを回す為に必要な個所には無気味なほどに筋肉がついている。ハンドルを握る為の掌が薄いのを知り、勝利を渇望し誰よりも強く握ってる手には肉は不必要なのだと思えた。行為の名残りなのか掌は僅かに熱を持っていた。

 寝息と熱が室内に充満している。生きている人間が狭い部屋にふたり存在しいてる。

 生きている、と単純なことを新開はぼんやりと認識した。生きて、薄い掌を握っている。重い筈の何かを捨てて片方の皿を選んだ結末だ。

 見捨てた人間だけではない。自室で仲間の死を悼んでいる友の想いも新開は捨てた。今彼が御堂筋に同じ想いを告げても、御堂筋は少しも悪びれずにその位置にはもう新開がいると告げるに違いない。罪悪感と幸福感で唇が歪んだ。

「…ん」

 薄い唇から自分の名前が漏れた事に気付いて手を重ねたまま声の元へ視線を向ける。焦点がぼんやりと合い始めた瞳が新開を見つめていた。

「しんかい、くん」

「うん」

 呼んだのではなく、そこにいる人間を把握して口にしただけの音だった。視線はすぐに天井に戻り、眠気に抗えない瞳が再び瞼に覆われていく。

「大丈夫だよ。チェックアウトの時間延ばしてもらったから」

 新開の言葉に御堂筋の唇から細い息が漏れた。相槌にもにた吐息からゆっくりと規則的な息が漏れる。

「まだ眠いの?」

「…ん」

 短い髪を撫でて額に触れた。掌よりも熱を持つ額に、そっと唇を寄せる。

「御堂筋くん」

 瞳を開いたまま眠る顔を、仲間は知っている。箱根で一晩身体を休めた夜に御堂筋の眠る部屋に忍び込んで見たらしい。いつか見れるだろうと思いながら、今は仲間も知らない大人しい寝顔を眺めた。少しだけ開いた口から覗くうつくしい歯。うつくしい。ずっと新開は彼をそう形容したかった。身体の柔らかい個所や粘膜に触れている時も覚えた感情だった。

 血管の浮いた肌を指先でなぞる。内側に流れる血を想像した。道路に広がって行った少女も同じように体内に流れていた血だ。競技でついた傷が新しい皮膚で色を益々薄くしている。薬品で焼けただれた青年の肌もきっと同じだった。

 掛布をそっと捲くりあげて歪な形の脚を撫でた。ペダルを回すためだけの脚だ。滝の様に水の流れる道路を転がり落ちていった仲間も同じに必死にペダルを回していた。

「すきだよ」

 深い眠りに落ちた御堂筋にたった四文字の言葉を伝える為に、新開は片方の皿を捨てた。浮き上がった皿を天秤から外し、二度と物が乗らないようにしてしまった。

 沈んだ皿に乗った薄い身体はまだ自身の居所を知らない。

 片方だけ残った天秤の皿に乗っているのは御堂筋自身だけではない。決して彼を皿の上から下ろさないようにする堅牢な檻だ。沈みきった皿が浮き上がる事はない。片側の皿は外され天秤は壊れてしまったのだから。

 外された皿は地に落ちてこの先も新開に選択を迫り続けるだろう。重い選択は宙から皿に叩きつけられ骨を砕き肉を裂いて骨を砕く。真っ白だった皿は砕けた骨や血肉に塗れて見る影もなくなっていく。大型バイクに挽肉にされた少女と同じように。たとえ少しの隙間もないほど臓器や肉片で皿が埋まったとしてもそれを拾い上げ救う意思は新開にはない。

 檻の中で何も知らずに新開の指先に撫でられる愛しい少年はとても薄く、片側の皿を天秤繋げばそれが空であっても浮き上がって消えてしまう。檻の鍵は新開が抑えて居なければ開いてしまうが浮き上がった皿には手が届かない。



 間違えたとは少しも思わなかった。これが正解だ。

 頭痛はもうしなかった。狭い部屋の中には御堂筋翔と自分だけだった。世界中で二人きりになったような錯覚を覚える。正解だともう一度呟いてみる。これでいい。何も間違えていない。もう二度と間違えない。

 眠る愛しい身体を起こさないように小さく、何度も呟く。繰り返し、繰り返し、何度も繰り返した時間とおなじように

もう まちがえない だいじょうぶ せいかいだ

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