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pdr
人生美味礼賛(新御)
人生美味礼讃

 深夜に空腹で目が覚めた。
インターハイが終わってから新開はほぼ毎日同じ時間に空腹で目が覚めていた。
常備してあるパワーバーを口に含み、普段通りに咀嚼しかけて口元を抑える。
「…まっず…」
 好物のバナナ味が酷く不味く感じるのだ。パワーバーだけではない。インターハイを終えて一晩経って以降口にした物全てが新開にとって吐き気を催すほど不味かった。
 食欲が減ったわけではない。むしろ増している気さえした。何を口にしても不味いというのに口に入れずにはいられないほど空腹を感じている。

寮でゲームをしている時ふと消しゴムを口にしかけて荒北に止められた。酷い顔をしていたのか、それとも荒北特有の野生の勘によるものなのかひどく心配され病院を進められた。病院に行くほどでもないとは思ったが異物食はものによっては重病出る可能性も否定できないと荒北をはじめチームメイトに押し切られ病院で検査を受けた。
結果は至って健康、異常なしであった。精神鑑定まで受けさせられたが異常はなく、検査の間だけ帰っていた実家で悠人に酷く心配された。
両親は基本的に放任主義だったので病院代は出しても結果にさほど興味を持たなかった。異常がなかったからだけではなくあったとしてもほとんど同じ反応だった筈だ。
寮に戻ってチームメイトや後輩が異常なしと聞いて涙ぐんでいる姿を見てどちらの方が本当の家族かわからないなと内心で苦笑した。
 部活の練習がある後輩は夏休みの最中でもあまり実家に戻らない。新開も混じって寮に残っている三年のうちの一人だった。実家が遠すぎる者や家庭の事情で残るものは何人かいる。自転車競技部の仲間はただペダルを回すために寮に残っていた。
 家に戻ってペダルを回すことができないわけではないが、仲間と過ごす時間が僅かだと口にせずとも誰もが悟っているからだ。
 
 その日も吐き出したくなるような味のパワーバーを噛み砕きながら新開はペダルを回していた。
「不味そうに食うなァ」
 スピードの出ていない登り区間で背後から迫ってきた荒北に声をかけられて振り返る。
「そうか?」
 確かに味はしないし不味いとは思うが空腹は満たされる。周囲に気を使えないほど子供ではない。顔には出さないようにしていたつもりだった。
「三年も一緒にいりゃイヤでもわかンだよ。」
 自分の方がよほど不味い物を口に含んでいるような顔で荒北は言う。平地で遅れていた真波が追い付いて、どこから聞いていたのか荒北さんの方が不味そうに食べますよねと言いながら通り過ぎ、荒北が怒鳴りながら後に続いていく。後輩の練習開始時間はもっと早かっただろうに、真波は相変わらず補習や寝坊で遅刻している。
 食べ終えたパワーバーの包み紙をポケットに押し込んでいるとまた背後から声がした。
「大人になると味覚が変わるとも聞くがな」
 今日は流す程度にすると宣言していた東堂がボトルを差し出していた。礼を言って受け取る。
「たとえば子供の頃に食べられなかった魚の内臓なんかを酒の肴で食べたら美味かった、だとか。」
 東堂に渡されたボトルを返しかけて自身のボトルがとっくに空になっていることに気付く。空のボトルを東堂が言葉をつづけながら引き受ける。言葉の切れ目がないので礼を言うタイミングを逃してしまった。
「幼い頃好きだったチョコレートが大人になってからは甘すぎて食べられないなんて事も珍しくはない。」
 東堂のバイクに乗っているボトルはまだ二本目が満タンだったので新開は遠慮せずに受け取ったボトルのスポーツ飲料を胃に流し込んだ。
 スプリンターの新開はすぐに引き離され、軽く流すと言っていた東堂はあっという間に見えなくなった。
 東堂の言葉は事実だろうが、新開の症状に当てはまるかと言えばそれは違うのではないかと思った。
進路調査室に行っていた福富が背後から迫ってくるのを感じ、新開はペダルを緩めた。
「どうした」
 登りとはいえ遅すぎると言いたいのだろう。わかりにくい福富の表情は確かに新開を心配している。
「寿一は優しいよな。」
 寿一だけじゃねぇけど。付け足す新開に福富は頷いた。
坂を上りきると随分先にチームメイトが見え、そのずっと先に後輩が走っていた。インターハイを終えてから後輩たちは気合を入れてペダルを回している。昨年の自分たちがそうであったから新開もその気持ちがよくわかった。
わからないのは今の自分の気持ちだ。体に異常がないのであれば検査で見つかりにくい精神の方に異常があるのは明らかだと言うのに本人である自分でさえ味覚異常の原因に心当たりがない。
下りを降り切り、校舎に向かって走る間、福富は無言で新開の後についていた。最近の不摂生と睡眠不足を気にしているのだと声に出さずとも解って新開は苦笑した。
早く正常に戻らなければ優しい仲間まで消耗させてしまう。
憎まれ口を叩いてる荒北でさえ新開を心配しているのが伝わってくるほどだ。
空腹は感じる。けれど何を食べても味がしない。
部室の前でヘルメットをとり、澄み切った空を見上げてため息を吐いた。深い青に、もうすぐ秋になる、と思った。

また、空腹を感じて目を覚ました。つもりだった。
夢だと解ったのは新開が体を起こしたベッドが見た事もないほど真っ白で、頭上には星がきらめいているにも関わらず地面は真っ黒なガラスがどこまでも続いていたからだ。
上下左右と深夜の屋外にしか見えない空間に白いベッドがぽつりと浮かんでいる。腹は減っているがここには食べるものがないようだった。
夢の中で食べたところで空腹が満たされるわけでもないだろうと解ってはいたが、つい周囲を見回してしまう。まず左を向き、どこまでも続く闇を確認してから右を向いてぎょっとした。先程まで何もなかった空間に真っ白なベッドがもう一つ並んでいるのだ。ベッドだけではない。病院の仕切りカーテンもそこにあった。
カーテンは上半身側が少し閉じていた。どうやら横たわっているのは女性らしかった。細身で、新開よりずっと年上な気がした。記憶を探っても新開の知った人間ではないようだった。
一瞬死んでいるのかと思ったが、胸の上で組まれた手が小さく動くのが見えて呼吸をしていると安堵する。隣に死体が並ぶなど悪夢以外の何物でもないではないか。
ぼんやりと光を発しているように見える薄い黄色のパジャマを着た女性の手は、病院のカーテンに似合い細く白い。
 病人だと解ってしまうと直視するのが悪い気がして新開は目を逸らした。早く目覚めてしまえばいいのに。いったい何を暗示する夢なのだろう。
「おなか空いてはるん?」
 細い手首と同様に、か細い声がした。逸らした視線を戻すと組まれていた白い手が開かれ、新開に向かって伸ばされていた。掌の上には小さな飴玉が乗っている。黄色い包み紙の飴玉を受け取り礼を言うとカーテンに隠れたままの女性が笑うのがわかった。
 包み紙から出した飴玉も黄色だった。パイナップルの味で、ひどく甘い。口の中で転がし、甘さに感動した。久しく感じていなかった味覚に自然頬が緩む。
 甘さに夢中になっていて、隣の女性がいつのまにか笑みを絶やしていることに気付くのが遅れた。
「綺麗な顔やねぇ」
 向こうからは見えているのだろうか、相変わらず女性の顔は見えなかった。
「けど、おなか空いてる時の顔はちょっと怖いわ」
 はぁ、すみません、そう言葉にしたつもりだったが口の中の飴のせいか声は出なかった。
「無暗に何でも口にしたらあかんで」
 解ってるんですけど、味がしなくて、腹は減るんですよ。
「おなか壊してまう」
 真剣な声につい謝るがやはり声は出なかった。ふと、自分が普段眠る時に来ているスウェットではなくユニフォームを着ていることに気付いた。腰を捻って確認するとゼッケンナンバーは4だった。
 その番号を付けた事は一度ではないと言うのに新開の脳裏には最後のインターハイ、二日目のスプリントリザルトラインしか思い浮かばない。
 夏の日差しと声援。焼け付くような熱気の勝負だった。
 
「うーさーぎ、おーいし…」

 びくり、と肩が強張る。薄いカーテンの向こうで子守唄を歌うような優しい声がする。綺麗な女性の声だ。彼とは似ても似つかない声。
 けれど新開の背中にはぞわりとした寒気が走り、同時に強い空腹感に襲われた。
「おにいさん、あのこを、たべんでな」
 懇願する言葉に初めて訛りを認識した。何故今まで気付かなかったのだろう。
「お願いな」


 新開が目を覚ましたのは病院のベッドだった。
 涙ぐんだチームメイトが大声で仲間に新開の目覚めを報せ、集まってきた仲間がまた涙ぐんでいる。首を傾げる新開に荒北が怒鳴った。
「馬っ鹿お前ェ女子が流しに忘れてった石鹸食って倒れたンだよ!」
 そういえば、味覚はともかく嗅覚は正常だったのでいいにおいのするものを手当たり次第口にしていた気がする。
「ああ…なんか、いい匂いだったから」
 思い出した、と口にした瞬間荒北が再び怒鳴り出した。
その後、怒り狂った荒北が新開を殴ろうとして福富と東堂に引きずられて病室を出て、後輩たちも部屋を出て行った。
簡単な問診と検査の後、問題ないと言われた新開が病院を出たのはすっかり日も沈んでからだ。
「さて、と」
 病院を出て、新開が向かったのは寮ではなく京都だった。


2014/04/25

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