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pdr
Let's get to your love(兄安+新御)/下


 アパートが視界に入るのとほぼ同時に、背後から声をかけられた。
「今日も残業やったんですか」
 振り向かずともそこにいるのが後輩だと解り、安は苦笑した。
「なんや、今日は友矢も一緒か」
「さっきまでそこのファミレスにおったんですけど」
 安のアパートから歩いて十分かからない場所にあるファミレスの明かりを指して井原が言った。
「レース今週末やろ。練習ええんか」
 言いながらも後輩二人を追い返すことはせずにドアを開けて中に促す。そこで初めて、井原の背後にもう一人いることに気が付いた。井原より背は高いが横幅はない。走っている時より、前に辻の部屋で見た時よりももっと小さく見える少年は確かに京都伏見のエースだった。
 何故彼がここにいるのかを言及したかったが周囲を気にする後輩二人に部屋に押し込まれた。食事を済ませてきたと言う三人に一言断ってから朝残した米と味噌汁をよそって座る。小さなテーブルを挟んで辻と井原が並び、その後ろに御堂筋が座っている。玄関には彼の自転車と、大きな肩掛けカバンが置かれた。嫌な予感がした。
「…あの荷物なんなん」
「…すんません」
 井原と辻が同時に謝る。言葉の意味を察してしまい安は箸を持てずに髪を掻いた。
「明久んとこもあかんかったんか」
「なんであんな早く調べがつくのか解らへん…」
 頭を抱えそうな井原に辻も頷く。二人の後ろに座る御堂筋の顔を見るが表情から感情は読み取れなかった。ただ、レースに向けて練習をしているのだろう事は解った。以前よりも痩せているが研ぎ澄まされた顔をしている。目の奥に見える光は勝利を見ているに違いない。
「ま、別に泊まってって構へんよ。週末にはケリつくんやろうし。」
「そうなんですよ。大体レースまでは会わへん約束やったのに」
 ぶつぶつと文句を言う辻と井原にこれしかないけどなとスポーツドリンクを渡し、黙って座っていた御堂筋にも渡した。小さく礼を言う姿に苦笑して安もようやく遅い夕飯に手を付けた。
 練習の疲れからか布団を敷いてやれば御堂筋はすぐに横になって眠った。後輩二人を玄関口まで見送りに出るついでに、安は週末のレースについて尋ねた。
「何人になったん」
「三人です。御堂筋の方はオレと、荒北です」
 辻の返答に井原が視線を地面に落とした。メンバーに入れなかった安堵と落胆が見える。
「荒北?誰やそれ。あ、髪の毛水色の後輩か?」
「水色の髪?ああ、それ岸神です。荒北は箱学の卒業生ですわ」
 箱学の選手と聞いて一瞬首を傾げるが京伏でこれだけ問題になっていれば恐らく新開の周囲でも問題になっているのだろう。
「ん、三人?光太郎はおらんの?」
 安の疑問に答えたのは井原だった。
「そうや!安さん聞いてください!石やんの奴が!」
「おい、声大きいで。御堂筋寝とるんやから」
 部屋の奥に心配げな目を向ける辻に井原が小さく謝る。
「石やん、新開の味方になりよったんです。」
 意外な言葉に驚いてなんと答えていいか解らず、へぇ、と気の抜けた声を出してしまい後輩二人に睨まれてしまった。

 後輩を送り出してから茶碗を洗って風呂に入り、眠っている御堂筋をまたいでベッドに乗った。眠る顔は普通の子供だ。
 辻と井原の話を思い出す。御堂筋に惚れていたはずの石垣が何故恋敵の味方になったのかと聞こうとして、辻たちが石垣の想いを知らない可能性を考えて何故とだけ聞いた。
 石垣は御堂筋の人間関係を気にかけ、新開は悪い人間ではないからしっかり話し合って互いに納得できなければ別れるべきではないと主張したらしい。
 間違ってはいない。御堂筋を想うのであれば自然な判断とすら思える。けれど、と安は思う。それで新開のチームに入ったのは果たして本当に二人の仲を取り持つつもりなのだろうか。新開側について、わざと負けるという手段も考えられる。石垣に限ってないとは思うが恋愛は人を変えるとどこかで聞いた。
 自分と寒咲の関係もそうだ。寒咲に惚れて、隠して生きてはいたが確かに人生観は変わった。付き合うようになってからも安の生活は変わらなかったが生きる目的が変わった。けれどそれはいい方にだ。御堂筋と、彼を取り巻く人間たちが、彼を想う故に変わった方向はいいものなのか安には判断できなかった。
 電気を消し、すっかり寝入ってる来客におやすみと告げた。

 車を停めて乗せてきた選手を降ろす。先に着いていたらしい安と京都伏見の選手が入り口に立っているのを見て大声で謝った。渋滞に捕まらなければ先に来て手続きを済ませておけただろう。貸し切りにできるとは思わなかったが参加するメンツに顔の広い金持ちが居たのでシーズンオフである事も手伝ってあっさり貸し切れた。伊豆にある自転車用サーキット、総北高校が毎年合宿で使う場所だ。5キロあるコースには長い直線と坂が二か所ある。今回は直線と、二つ目の坂、それからゴールで勝ち負けを決めることになった。
 コースを回って戻ると新開のチームは既に準備を終えていた。御堂筋は一人で先に準備を終えて一人で走りに出ている。残された辻と荒北がコースの地図を見ていたがオーダーはとっくに決まっているのかそれほど長い時間話はせずに二人もすぐにアップに入った。
 直線のリザルトラインには井原が立ち、二つ目の坂には安が立った。ゴール前には寒咲が立つ。
 ゴール前は必然的にスタート位置でもある。スタートの準備を終えた選手を眺める。新開の隣にいる顔を見て眉を寄せた。石垣の事は話に聞いていたが東堂がそこに居るのは寒咲には予想外だった。場所を借りるのには確かに彼の力が大きかったがレースに彼が出るとなると圧倒的に力の差が出る。寒咲の記憶にある限り、御堂筋の隣でヘルメットのストラップを直している辻明久はインターハイで一度も山岳リザルトを獲っていないクライマーだ。対して東堂尽八の実力はここにいる人間どころかほとんどの自転車乗りの高校生が知っている。
 六人並んだ選手のインターハイでの勝敗を思い出す。純粋に勝敗だけで言えば御堂筋は新開に勝ち、石垣と荒北は正面からぶつかっていないので解らない。辻と東堂はそれこそ勝負にならないのではないだろうか。
 スタートの合図は寒咲の隣で目を輝かせている妹の役目だ。寒咲と安が走った日と違いあいにくの曇りだ。早く終わらせなければ雨が降るかもしれない。
「はじめますよー」
 可愛らしい声が響き、空気が変わった。どの選手も勝ちを譲るつもりはない顔をしている。
 石垣がわざと負けるつもりなのではという安の言葉が頭に過った。それはないだろうな、と道を見据える男の横顔を見て寒咲は思う。
 スタートの合図と共に六人が飛出し一瞬で見えなくなった。
 勝てよ、と呟くと妹が大きな目で見上げてきた。
「誰の事応援してるの?」
「さぁ」
 実際、寒咲自身も誰を応援しているのか解らなかった。安との賭けも今はどうでもよくなっていた。

 スタートしてすぐに緩い下りのあとに右カーブ。そこを抜けるとすぐに登りだ。
 下りの先頭はそれぞれ新開と御堂筋だった。カーブを抜け、新開の前に東堂が出る。後ろを行く石垣がちらと御堂筋を見たが声はかけない。辻もここに来るまで一度も石垣に声をかけなかった。御堂筋ともオーダー以外で言葉を交わしていない。
 登りに入り、御堂筋と先頭を代わった。先を行く三人との距離は遠くないが縮まらない。登りで東堂に勝った事は一度もない。一つ目の坂は二つ目よりも緩やかだが先を行く三人の背を見ると心臓が重くなった。勝てる訳がないと誰かが言う。
「オイ、余計なコト考えてんじゃネェぞ」
 噂には聞いていたが荒北は勘がいい。辻の迷いを読み取ったらしい言葉に声に出さず頷いてペダルを回す脚に力を込めた。一度目の坂で山神に挑む必要はない。直線まで引き離されずに後ろの二人を運べばいいのだ。
 山の神と呼ばれる男に勝つことは出来ないが、三年間積み重ねた時間と努力は負けていない。特に最後の一年、暴君に課された練習は辻の能力を飛躍的に上げた。自身でも驚くほどタイムが伸び、過去の二年の練習方法を疑うほどだった。
 登りが終わる百メートル前で御堂筋が前に出た。聞いていない動きだったがスムーズに動けたのは彼と走った時間のおかげだろう。畏怖と嫌悪を感じていた後輩の背中を見て辻は彼に感謝せずにいられなかった。
 新開も先頭になり、直線に入ると二人はあっという間に先を行った。
「お疲れェ」
 軽く肩を叩かれて御堂筋の背から視線を外す。独特の笑みを浮かべた荒北が前に出て並走する東堂と石垣に声をかけた。
「東堂おメェなんでそこに居ンだよ」
「チームメイトが困っていると聞いては黙っていられないだろう。お前こそ何で御堂筋の味方なんだ」
「ハッ、相変わらず頭空っぽだな」
「荒北」
「あ?」
 走りながらの会話で声の調節は難しい。東堂と石垣に聞こえない程度と声を押さえると察した荒北がそれとなく二人から距離をとった。
「荒北はどこまで知っとるん。御堂筋と、新開の…」
「こっちで全部知ってんのはオレと真波くらいだヨ。オレは鼻が利くからな。真波はなんか、なんとなくだって言ってたケド」
 なるほど新開は詳しい事を仲間には話していないようだ。そういえば御堂筋も自分からは話さなかった。新開と揉めているところを石垣が止めに入り発覚して、それからも御堂筋は自分から何かを語る事はなかった。
 何も言わないエースを、石垣は恐らくエースという理由ではない他の動機で守ろうとした。辻がエースを部屋に匿ったのは違う。アレは、オレたちのエースだ。
「ほらァ辻チャン、集中しろよォ」
「え、」
 オーダーでは辻の出番は最初の緩い登りだけだった筈だ。この先は直線も登りも御堂筋が獲り、ゴールに荒北が向かうと聞いた。
「計画通りにいかネェのがレースだロォ」
 心底楽しそうに笑う荒北の先に見えた井原の姿に辻は言葉を失った。
 後続に勝敗を報せるためにリザルトラインに立った審判は色のついた旗を上げることになっていた。御堂筋側のチームが勝てば京都伏見のユニフォームと同じ紫色、新開側が勝てば箱根学園の青色だ。
「…青」
 ペダルを僅かに緩めて声を漏らしたのは石垣だった。後ろについていた東堂に声を掛けられて慌ててペースを戻す。辻は石垣ほどショックを受けなかった。旗を上げている井原もそうだ。恐らくは僅差だったのだろうと解る。
 スピードを上げる東堂に、荒北が並んだ。
「荒北、今はまだ」
 ここで荒北を消耗しては最後に響くのではと辻が声をかけるが止まる気配はない。引かれるままにペダルを回し登りに入った。地図で見た通りの激しい、千二百メートルの登りだ。最初から飛ばしたのではもたないが先を行っている御堂筋に追いつくにはそれなりに回さなくてはいけない。東堂のペースが上がる。噂に聞いていた通り音のないペダリングだった。無理についていく必要がない石垣との距離が徐々に開いていく。
 ここでは溜めろと言われていた荒北が言葉少なに辻を退く姿に思わず疑問をぶつけた。
「荒北、オレが引いた方が」
「黙ってろ。」
 低くなった声に押し黙る。鼻が利く男が言う事を疑う必要はないのかもしれない。クライマーである自分が引くべき坂でオールラウンダーの荒北が引いている違和感はぬぐえない。何故、と聞こうとして六百メートル登ったところでその疑問は消えた。前に見えたのは新開の背だ。スプリンターである彼をここまで捕えられなかったすぐには理由が解らなかった。抜き去る瞬間、消耗しきっている顔見てハッとする。
 まさかと過るのと、荒北の前に出るのは同時だった。体が勝手に動いたのだ。守らなくてはいけない。あと一つ負けてしまえば逃げられないエースを。
 暴君に課された練習メニューを思い出す。ペダルを回す際の足首、ハンドルを握る手首、視線すら、部の全てを支配した暴君は辻に指示した。初めこそ苛立ったが従うほどにタイムは伸びた。
 今だ、とかつて御堂筋に習ったタイミングでギアを変える。力強くも、特徴的でもないダンシングをして進んだ先に背中二つが見えた。もっと先を行っていると信じていた御堂筋の背と、追いつける気がしなかった東堂の背だ。音もなく走る彼を遮る事は普通の選手なら出来ないだろう。上手く遮っている御堂筋に感動を覚えた。それも長くは持たないこともすぐに解った。そう狭くないコースでは限界がある。東堂が御堂筋を抜くのは時間の問題だ。
 今なら、と思って辻はボトルに手を伸ばした。
「ア?」
 背後から荒北の声がした。当たらない様に投げたつもりだが声をかけてからの方がよかったかもしれない。
 少しでも軽く、速く、それしか頭に浮かばなかった。
 大会と違い、準備もまともにできなかったのでリザルトラインまでの正確な距離が解らない。表示があったとして限界までペダルを回している辻には見えなかったかもしれない。
 顔を上げ、二人に追いついた事を確認してペダルを回す。坂の先に見慣れた明るい色の髪が見えた。安さん、と出ない声で呼んだ。睫毛の長い瞳が見開かれた。ここに辻が来ると思っていなかったのかもしれない。オレかてクライマーなんです、と出ない声でまた叫ぶ。並走する選手も声をあげていた。誰の声なのかすらわからないほど脳が焼けている。
 明るい色の髪が視界の隅を流れた。

「…嘘やろ」
 走り抜けていった四人を見ながら安は開いた口を閉じることを忘れていた。新開と東堂の実力はよく知っている。御堂筋ならあるいは彼らに勝つことができるだろうとは思っていた。御堂筋の実力を最大限に引き出し硬い作戦で二勝獲るに違いないと思っていた。
「安さん!」
「あ」
 後ろを追ってきた石垣と新開が安の手に握られた旗を見ている。あまりの事に上げるのを忘れていた。睨むのに近い新開の目に慌てて旗の色を確認して手を上げた。
紫色の旗を高々と掲げる。石垣は恐らく御堂筋が獲ったと思うだろう。後で教えて驚かしてやろうと思って安は笑った。

「誰が最初に見えるかなぁ」
 待ちきれない様子でコースの先を見る妹に苦笑してゴールラインに立つ。ただ走るだけの準備しかしていなかったので細かいタイムも解らない。自転車と選手を運ぶだけでいっぱいになったのでセンサーや電光掲示板はない。井原からのメールで最初の直線を新開が制したことは解ったがそれ以降の流れは全く分からない。
 とっくに山頂も出ただろうに安からの連絡はなかった。実力から言えば東堂が負けるとは思えない。賭けに負けたので連絡できないのだろうかと思っていと妹の黄色い声が上がった。
「お兄ちゃん!荒北さん!」
 妹の言葉通り先頭は荒北だった。すぐ後ろに見えるのは石垣だ。妹が慌てて兄と逆のゴールラインに立つ。兄妹で公正な審判を下せるように真剣にラインを見た。目だけが頼りなので選手を追いかけるのではなく正確にラインを見なくてはいけない。
 自転車の音が近くなり、正面に立つ妹の顔にも緊張が走った。
 石垣の車体は赤で、荒北の車体は薄い緑だ。見間違えることはありえない。
 妹が屈み、倣って寒咲も膝を折る。
 荒北と石垣の声が聞こえた。どちらも叫んでいる。ゴール前に叫ぶ選手は多い。寒咲もその一人だった。安は歯を食いしばって叫ばずに走るタイプだった。
 声と音が耳元の空気を震わせた。正面をタイヤが通り抜ける。
「…おい、幹」
 二人が通り抜けた後も同じ姿勢で道を凝視する妹に声をかけるが、寒咲自身も立ちあがれなかった。

「同着?」
「正確に機械で測れば違ったかもしれないけど、少なくともオレと幹の見解はそうだ」
 せっかく貸し切ったのだからもう少し走って行くという選手たちを遠目に見ながら寒咲と安はレースの結果を話していた。
「じゃあ引き分けか。直線は新開で、山頂は御堂筋が獲ったんだろ」
「ちゃいます」
 山で負けた、と嘆いていた東堂の言葉を聞いて真っ先に御堂筋が勝ったのだと寒咲は判断していた。否定する安の顔は心底嬉しそうだった。
「て、ことは荒北が?」
「明久です」
 明久、と聞いてすぐには解らなかった。嬉しそうにコースを見ている安は寒咲が辻の名になじみがない事を忘れているようだった。
一度もインターハイで山岳リザルトを獲った事のない選手が東堂尽八を下したのだという事実に、背後で荷物を整理していた幹が声をあげた。私も見たかった!と騒ぐ妹を宥める。
 嬉しそうに後輩の勝利を祝う横顔を見て、賭けの話を今持ち出すのは無粋だと寒咲は口を閉じた。

 新開と東堂は電車で帰り、静岡に住んでいるという荒北を礼がてら夕食に呼んだ。荒北の家の近くにあるレストランまで車で向かった。京都伏見の選手と寒咲兄妹に囲まれた荒北は始めこそ気まずそうにしていたが食事が進むにつれてかつてのレースの話やチームメイトの話で饒舌になっていった。
「荒北さんは何で御堂筋くんのチームに入ったんですか?」
 食べ盛りの男の中で一人先に食事を終えた幹が飲み物の入ったグラスを持って首を傾げた。それまで別の会話をしていた石垣や井原や辻と、何も言わずに食事をしていた御堂筋が荒北に目を向ける。
「なんでってェ…」
 返事に窮して箸を彷徨わせる荒北に助け船を出したのは石垣だった。
「荒北は、新開が迷惑かけてると思て責任取る言うたんや」
「結局は石垣が新開のほう入るっつったカラだロォ」
 睨まれて苦笑する顔を見て幹は質問の矛先を変える。
「石垣さんはどうして新開さんのチームに入ったんですか?」
 石垣の隣に座っていた安が箸を止めて後輩の顔を見る。寒咲も苦笑いしたままの石垣に視線を移す。
「新開が必死やったから、かなぁ」
 更に首を傾げてしまう妹に引き換え寒咲は成程と納得した。石垣が御堂筋に対して抱く思いは先輩から後輩へのそれを超越していると安に聞いた。新開と交際していなければもしかしたら石垣が御堂筋の恋人になっていたのではないだろうか。言葉を出さず会話にも興味を示さない御堂筋をそっと見る。自転車に乗っていた姿からは想像できないほどおとなしい。生気がないと言ってもいい程だ。新開の熱烈な追跡を見る限り彼は相手の想いに応えたのではなくただ聞き流していただけに違いない。遅いか早いかの違いで相手が新開だっただけだ。
「そりゃ不一致にもなるわな…」
「なにが?お兄ちゃん」
「なんでもねぇよ」
 安が空になった皿を重ねて店員の取りやすい位置に移動するのを見て思わず口元が緩んだ。こういう所が好きだと実感する。
 ベッドの横に敷かれた布団の中で天井を見ながら会話した夜、自分たちの関係と彼らの関係が似ていると感じた気がした。けれど今になって考えればそれは全く違う物だった。寒咲と安の関係は互いに納得し形成されている。
「ま、オレはみどチャンの味方だけどサ」
 隣に座っていた辻を押しのけ、黙って食事をしていた御堂筋の肩に手を回した荒北が歯をむき出して言った。
「新開のヤツ、ほんとひでェよな。あんなヤツさっさと捨てっちまえって」
 レース後の疲れが出て興奮してきたのか急に声が大きくなる荒北に御堂筋の肩がぎくりと揺れる。不穏な気配を察した石垣が荒北の声を遮って伝票を手に立ちあがった。
「安さん明日仕事ですよね。はやいとこ帰りましょう」
 会計を済ませて店を出て、荒北は自転車で家に帰って行った。
車に妹を乗せ、挨拶してくるから少し待てと告げて外に出ると安も自分の車から降りていた。声をかける前にその隣に立つ石垣が、突然寒咲に頭を下げたので意味が解らず口を開けてしまった。
「御堂筋の為に色々、ありがとうございました」
 別に、自分たちの関係についても清算しようとしたのだから礼を言われる謂れはないのだが交際を隠しているので寒咲は短くああとしか返事ができない。
「光太郎、なんで新開の方についたんや?」
 車で待っていた辻と井原もいつの間にか出てきていた。
「せや石やん。御堂筋かわいそうやろ。」
 インターハイの登りで切り捨てられたスプリンターの言葉とは思えなかった。安から聞いていたが本当に彼らは御堂筋をエースと認め、彼を追う相手から守ろうとしていたのだ。
「荒北でさえひどいって言うくらいの事されてたんやで。オレらは直接見たわけやないけど」
 先程食事の席で遮られた荒北の言葉だ。男同士の性交については寒咲も調べたので知っている。ひどい事をされた、というからには御堂筋が抱かれる側なのだろう。それも恐らくは合意を得ないで。
「せやけど、話も聞かんと逃げ回るんはあかんやろ」
 一瞬安が苦い顔をしたが寒咲以外は気づかなかった。
「そうだな」
 強めな寒咲の声に石垣たちが黙り込んだ。
「ま、どっちの気持ちもわからないでもねぇけど」
 黙り込む後輩たちの頭を一度ずつ小突いて寒咲は自分の車に体を向ける。
「とにかくレースの結果で決めるって言ったんだからその辺決めとけよ。」
 今のままでは問題は解決しない。結果は出たのだからあとはそれを利用して強引にでも解決するべきだ。そう言って車に乗り込んだ。
 待たせたな、と声を掛けようとしたが助手席で妹は小さな寝息をたてていた。起こさぬように気をつけながら車を出す。駐車場から出る直前にまだ車外に居る四人に手を振ったがこちらを見ていたかどうかは解らなかった。

 車に乗れと言うのは簡単だが安はどうしても言えなかった。石垣を責めるように見つめるふたりの気持ちは解る。安の部屋に泊めたエースは確かに守るべき存在に違いなかった。道の上で強く独裁的な体制で部を乗っ取った彼はしかし、自転車から離れればたった十六の弱い生き物だ。自転車以外に目を向けてこなかったことが付き合いの浅い安にすら解る程で、そんな彼に対して異常なまでに執着する新開から守らなければいけないと思うのは当然だ。
「オレも、辻も…だけやない、ヤマたちかて御堂筋の事は確かに怖いし気に入らんて思うこともある。せやけど新開とこのまま付き合っててええとは思われへん」
 日が沈み、辺りは暗くなり始めていた。黙って聞いている石垣の顔は安から見て逆光になっていてよく見えなかった。
「逃げてても解決せぇへんやろ」
 怒気を孕んだ井原の声に引き換え石垣の声は静かだった。喧嘩と呼ぶには大人しい言い合いに止めるタイミングを計りかねた。辻は何も言わずに二人を見ている。
 逃げても解決しない。確かにそうだ。安も最近それを知った。状況は違うが確かに逃げても何も解決しなかった。御堂筋は今後も逃げるのだろうか。今回の結果は引き分けだがスプリント勝負で御堂筋は新開に負けた。一度は勝っているのでこれで引き分けになるのだろうか。差引ゼロ、という事になってしまえばいいのにと彼は思っているかもしれない。
「…遅なるで。帰ろう」
 未だにらみ合う二人を車に押し込む。後部座席に座った御堂筋はイヤホンをつけて目を閉じていたが眠ってはいない。
 御堂筋の隣には井原が座った。石垣を彼の隣にはしたくなかったようだ。窓際に石垣が座り、助手席に辻が座った。
 車を走らせて少ししてから辻が携帯電話を取り出して口を開き、閉じた。何か言いたいことがあるのだろうが、後部座席の気まずさに戸惑っている。気の使い方が不器用な後輩にため息をついて代わりに安が声を出す。
「すごかったな、登り」
 ぱっと顔を上げた辻が何度か口を開閉して照れくさそうに俯いた。咄嗟になんと言っていいのかわからないのだろう。
「まさかあの東堂に勝つとは思わんかったわ。ようやったで」
 携帯電話乗せた手に、逆の手を重ねて辻が深く頷いた。目が僅かに潤んでいたのは見間違いではない。
「みどう、すじ、くんのお蔭です」
 走行音にかき消されないように、後部座席にいるイヤホンをつけたエースに聞こえるように、辻にしては珍しいはっきりとした大きな声だった。
「オレが東堂に勝てたんは御堂筋くんのお蔭や。」
もう一度はっきりと口にしてから意を決したように携帯電話を開いて辻は番号を押し始めた。メールか、と尋ねる前に電話を耳に当てて正面を向いた辻が新開の名を呼んだ。元々誰も喋ってはいなかったがますます車内がしんとした気がした。
「今回の勝負、引き分けやけど、勝ちとったもの同士で一つずつ条件飲むことにせんか」
 電話口の向こうで新開がなんと言ったのか解らないが辻は短く肯定の返事をしてから続ける。
「わかった。オレの条件は、御堂筋が自分の家か、オレか安さんの家に居る時は何があっても関わらんようにしてくれ、て事や」
 え、とイヤホンをつけた御堂筋以外の全員が声をあげた。危うくハンドル操作を誤りそうになり安は慌てて減速する。
「別れる別れないの話はふたりでしたらええ。けど御堂筋がほんまに嫌がっとるのに付きまとうんはルール違反や。」
 なるほど、と安全運転を心がけながら助手席で喋る後輩の真意を想った。引き分けになった以上最初の賭けは無効だ。その後の事は二人次第であり、他者に関与する権利はない。ただしレースに参加し勝利を得た男だけは別だ。
 立派にエースを守ってるじゃないか。うっかり視界が滲みそうになる。
「すんません。安さん」
「ええて。光太郎んとこはあかんしなぁ」
 からかうように言えば車内の空気が僅かに緩んだ。井原が息を吐くのが聞こえ、石垣が髪を掻く音がする。
「ようやったわ。ほんま」

 石垣と御堂筋、井原を学校の前で下ろして辻を乗せたまま車を走らせる。一人暮らしをしている辻の家だけが学区外だ。
 うとうとし始めた後輩の為に速度を上げる。明日は辻も学校がある。安も疲れたが全力で回した辻ほどではない。
 井原の言葉を思い出した。自分も辻もヤマも、御堂筋を畏怖しているが心配していると言った。
 何度かスポーツ飲料を差し入れた時にヤマからも話を聞いた。御堂筋にすっかり心酔しているノブは兎も角ヤマは彼を疎ましく思っているようだったが、今思えば確かにどこか心配してたかもしれない。そうでなければどんなに自転車が好きでもあのつらい練習メニューをこなすことはできないだろう。
 誰より部を強くするために貢献しているのが誰なのか、レギュラーに入った、つまり彼と走った者は選手としての本能で悟っているのだ。
「守りたくもなるわなぁ…」
 新開が御堂筋に執着するに至った経緯やその根本が何なのか安にはわからない。けれど近い物を石垣が持っている事は解った。
 御堂筋翔という選手を壊すのは競い合うロードレースの選手ではなく、彼を愛そうとする他者に他ならない。新開や石垣がそうなのだろう。強く想うほど伝わらない苦しみを想って安は身震いした。それに比べて自分と恋人のなんと恵まれた事か、とも思った。
 車を停めて浅い眠りに居る辻の肩を揺すった。
「ついたで。」
「あ、ありがとうございます」
 寝ぼけた声で返事をする後輩に手を出せと言うと素直に掌を広げた。骨の目立つ手の上にキーホルダーから外した鍵を落とす。
「…なんの鍵ですか」
「うちの鍵や。さっき電話で言うてたやろ」
 どうせ一週間のうちほとんど会社に居るのだ。高校生が一人避難してきたくらいで困る事は何もない。
 断りなく決めてすみませんと言う辻を別に盗られるようなもんもないしなと笑い飛ばして部屋に入るまで見送った。

数日後、部屋で安からの電話を受けた寒咲は告白を強要した日と同じ怒声を上げた。お前の部屋の鍵なんてオレだって持ってないんだぞと怒鳴り、廊下を歩いていた妹に叱られる。形だけ謝って、それでも怒りを孕んだ声で電話を続けた。
「っつーか結局オレらの賭けはどうなったんだよ」
『ええですよ。どっちでも』
 意外な内容で即答され寒咲は言葉に詰まった。心境の変化は恐らく後輩のレースが理由だろう。感謝と嫉妬が入り混じった複雑な気持ちになる。
『アパートの契約内容確認して、大丈夫やったら寒咲さんのぶんも合鍵つくりますから。』
 待ってます。そう言って電話が切られた。普段と同じ低く優しい声だったが、普段以上に柔らかい声だ。その声を寒咲は知っている。恋人ではなく後輩に向けられた頼りがいのある「安先輩」の声。
 安が辻に、正確には御堂筋に鍵を渡した事を本当に責めるつもりはない。彼は後輩を守りたいのだと痛いほど解っている。
「…違うか」
 卒業しても、寒咲が総北に対してそうであるように安は京都伏見自転車競技部をチームとして支えている。彼が守りたいのはチームを勝利に導けるエースだ。エースを守る為に走った辻と同じなのだろう。
 合鍵を作りますと言っていた安の声を思い出し、何度か目にしたキーホルダーが頭に浮かんだ。どこにでも売っている、サッカーのユニフォームを象った安物のキーホルダー。貰い物かと聞いた時に自分で買いましたと安は言った。青いそれに刻まれた番号が何だったのか、今になって急に思い至ってしまった。
 野球でもバスケでもなんでもいい。預かる合鍵につけるキーホルダーは同じ形の、けれど違う数字の入ったものを買おう。安と寒咲が最後に同時出場し、走ったインターハイで安が背負っていたゼッケンの番号。今でも覚えている事に驚いて、なんだ、自分は初めからあの男のことを意識していたのではないかと壁に飾ったインターハイの写真を見て笑った。
 チームで撮った写真に安はいない。けれど寒咲のつけているゼッケンの数字は安の鍵についているキーホルダーに刻まれた物と同じだった。



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