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pdr
Let's get to your love(兄安+新御)/上
2015年1月発行本の再録です。
兄安メインで若干新御。
色々捏造してます。








Let's get to your love


昨年と同様に総北高校クライマーである巻島の司会で始まった収録が終わったのは夕方だった。いったい何の収録だったのか誰も彼も解らない。無事に終わった今となってはそれも問題ではないが。
 京都から石垣を車で運んで来たのは京都伏見のOBである安だった。懐かしい顔だ。寒咲通司は数年前のインターハイを思い出した。京都伏見のオールラウンダーであり、目立ちはしなかったがいい選手だったと記憶している。後輩からの信頼も厚く、優しい男だった。確か寒咲の一つ下だったはずだ。
「安、今から京都に戻るのか?」
 小野田や鳴子と話が盛り上がっている石垣を、少し離れた位置から見守っていた安に話しかける。驚いた顔で振り返った安は寒咲を確認してからもう一度驚いて言った。
「名前、知っとったんですか」
 記憶の中とほとんど変わらない安は、それでも幾分か大人びていた。

 話が盛り上がり、坂道や鳴子に引き止められて石垣は今泉の家に泊まる事になった。
「安は?」
 寒咲の質問に石垣は自分も知らないのだと苦笑いをした。先輩に大丈夫だと言われれば後輩はそれ以上追及しようがあるまい。石垣から強引に聞いた携帯の番号にかけると安は駅前のネットカフェにいた。そこで一夜明かすつもりだったらしい。ほとんど休みなく働いて、後輩を京都から車で関東まで連れてきておいて足も伸ばせない場所で眠るという男を寒咲は放っておけなかった。

 広くはないが狭くもない部屋に通されて安は少し萎縮しているように見えた。交流があるとはいえ卒業してから後輩を通して、それも一つ上の相手ならば仕方ない。
「ほかの家族は出てるから。気ぃ遣わなくていいぜ。」
 寒咲サイクルの二階が、寒咲一家の住まいだ。
 妹の幹は不可思議な収録のあと綾の家に泊まりに行った。両親も町内会の旅行で出かけている。
 寒咲の部屋には物が少ない。特別綺麗なわけではないが物が少ないせいで散らかっているようには見えない。部屋の奥にベッドがありパソコンを乗せた低いテーブルがカーペットの上にある。
「え、俺床でええですよ。」
「客だろ。ベッド使えって。それより飲もうぜ。」
 今年二十歳になったと聞いて帰りがてら買ってきた酒を出す。後輩たちと話すのも嫌いではないがいかんせん後輩は皆未成年だ。面倒ばかり見ている寒咲は同世代との付き合いが少ない。こうして自転車乗りとアルコールを飲むことはめったにない。そう告げると安は遠慮がちにコップを受け取った。あまり室内を見回しすぎるのが失礼だと思っているようで落ち着かない仕草で時折部屋の中に視線をめぐらせている安に、やはり自分はこの男が嫌いではないと思った。最後に出場したインターハイの写真を見つけた安が、何か言おうと口を開いたが結局言葉が出ることはなく注がれたアルコールを流し込んだ。
 数時間もしないうちに安はすっかりできあがってしまった。仕事の愚痴や後輩の可愛さを繰り返し口にしているところを見ると寝落ちするのも時間の問題だろう。そのうち、寒咲の事を聞きたがり始めた。自分で話すのが億劫になったのかもしれない。
「寒咲さんはぁ…今も自転車やってるん?」
 半分眠っているような声に苦笑いしながら、たまに乗る程度だと答えると愛嬌のある目がぱちりと瞬いた。一瞬、酔いがさめたのかと思った。
「けど、おれよりはずっと近いとこにおるんやな」
 寂しそうな声は、自転車競技から離れてしまった選手の声に聞こえた。日常の中で使うことはあってもそれは決して自転車競技ではない。あくまで移動手段であり、ロードバイクで走る事を目的とはしてない事がどれほどつらいのか寒咲にはまだわからなかった。一線を退いたとはいえ後輩たちの大会に関わり強く繋がっているからだろう。
「後輩の面倒も見てっからな。職業柄、っつーか」
 思ったことをそのまま言葉にすると安が渇いた声で笑う。笑顔に安心し、空いたグラスに酒を注いだ。
「羨ましいですわ。高校生と合法でお話できるて。」
「おいおい、俺が話すのなんて妹と男ばっかだぜ。」
 安が女子高生好きだとは思わなかったが男のほとんどは制服に特別な意味を持って見ているし、女子高生というのはそれだけでブランドだ。わからなくもないと寒咲も笑う。自分のグラスも空になっていたので酒を注ぐ。
 壁に飾った写真を見ながら安がぽつりと呟いた。
「男子高生、て眩しいですやん」
 一瞬何を言っているのかわからずグラスから酒が溢れているのも気付かなかった。
「ぉわ!変な事言うなよ!零したじゃねーか!」
 慌ててティッシュでカーペットをたたいていると安が眠そうな目のまま首を傾げた。酔って本音が出たのだろうか。安は自分の発言に何の疑問も持っていないように見えた。
「…安って男が好きなわけ?」
 カーペットに広がる前に水分を拭き取り、そこから視線を外さずに恐る恐る口にすると安からはぼんやりとした声が返ってきた。
「高校のころは、おれ、寒咲さんのこと、好きやったから」
 カーペットを拭っていた手を止めて、寒咲は思考を整理した。たっぷり数分経ってから意を決して顔を上げる。
 机に頬杖をついた安が、静かに寝息をたてていた。

 翌朝、安は何事もなかったかのように石垣を拾って京都へ帰って行った。寒咲が話しかけてもまつ毛の長い目に動揺はなく本当に覚えていないのだと解った。
 男同士の恋愛に偏見はない。けれど自分の身に関係してくるとなれば話は別だ。嫌なのかと言われれば不思議とそうは感じなかった。元々尊敬に近い感情を持っている選手であったからだろう。好かれているというのは相手が誰であれ嬉しいものだ。

「お兄ちゃん。集中してないね。」
 仕事中、背後からかわいらしい声がした。妹の幹が友人を連れて店に来たのだ。ここ最近、幹はよく友人の綾を店に連れてきては自転車の話をしている。特別自転車に興味がある女の子には見えないがどうやら自転車競技部を応援してくれているらしく幹の暑苦しい説明もちゃんと聞いているようだった。
 狭い店内で、整備していた自転車から離れて二人が歩き回る邪魔にならぬよう寒咲は壁に凭れた。給料日前である今日は客も少なく、日が傾きだしてからは店内は寒咲だけになっていた。
「集中してねぇかなぁ…。疲れてんのかも。」
 煙草を取り出すと幹が無言で店外を指差した。友人や自転車の傍で煙草を吸うのが気に入らないのだ。
 火をつけてぼんやりと秋の空を見上げる。あっという間に冬になるのだろう。店内で盛り上がる高校生二人の声を聴いて寒咲は歳を感じた。高校生の頃はもっと時間が長く感じた。今では秋を感じたと思ったらもう冬が来て、春になっている。ついこの間まで一年生だと思っていた後輩が二年生になり、気付けば卒業しているのだ。しかし安が京都に帰ってから一週間の間、まるで高校生の頃のように時間がゆっくりと進んでいた。高校の頃を思い出し、後輩の顔を思い浮かべているうちにふと思い出した。
「お兄ちゃんどっかいくの?」
「ちょっと総北。店頼むわ」
 文句を言う妹を残して車に乗り込んだ。幹は簡単な修理ならできるし店番も慣れている。あまり任せるのはどうかと思うが店主である父が外回りから戻るまでの間であれば問題ない。

 学校にはまだ数名の部員が残っていた。すでに何人かは制服に着替えて帰路についていたが寒咲の姿を見つけると皆ちゃんとあいさつをする。元気の良い声に返事をし、目的の人物を目で探すとすぐに見つかった。二人はまだジャージのまま部室の外でファイルを片手に話をしている。部室が外からも見える窓の近くに立っているのが如何にも彼ららしい。
「手嶋」
「寒咲さん。おつかれさまです。」
 礼儀正しく挨拶をする手嶋の隣には予想通り無口なスプリンターがいた。チームメイトと呼ぶには近い距離に立つ彼らにしか相談できないと再確認して寒咲は手嶋に声をかける。
「今日時間あるか?」
「このあとですか?特に用事はないですけど…」
 手嶋の隣にいる青八木に視線を移すと彼も同じように頷いた。三年に上がって見た目は変わったものの中身は全く変わっていない。夕陽に反射する金髪が眩しかったが、それ以上に並んだ二人が眩しくて寒咲は目を細めた。
 総北高校自転車競技部の部室はそれほど広くない。インターハイでの成績のおかげで入部希望が殺到してからは狭く感じてばかりだった。こうして三人だけでいると何年か前に戻った気がする。寒咲がベンチに腰掛け、二人はパイプ椅子に腰かけた。何をどう説明すべきか迷って煙草を取り出し、部室であることを思い出しライターと一緒に机に置いて寒咲は頭を掻いた。
「えーっと…お前らって付き合ってんだろ?」
「はぁ」
 全く動じず答える手嶋の横で青八木が驚きに目を見開いた。どうやら手嶋は周囲にバレていることを薄々気づいていたらしいが青八木はそれに気づいていなかったらしい。バレたところで冷やかすような人間もいないと解っているから手嶋は隠そうとしていなかった。
「それでちょっと聞きたいんだけど、男同士でそういう関係になる事に戸惑ったりしたか?」
 二人のなれ初めを寒咲は知らない。チームふたりがどういう特性を持ったコンビであるかは知っているし、選手としてのふたりも妹ほどではないがそれなりに理解している。ただ、恋人同士としてのふたりがどういうものなのかは知らなかった。
「しましたよ。そりゃ。」
 関係を肯定した事で顔を赤くして責め立てる恋人をなだめながら手嶋はあっさり言う。
「でも青八木が好きなのと、青八木が男であることは関係ないですし」
 そこまで言って手嶋は一度言葉を切ると机に置かれた煙草をちらりと見てから続けた。
「俺たち若いんで。」

 二人を駅まで送って店に戻り、父に代わって閉店まで店番をした。幹に指摘された通り戻ってからも仕事に集中できず客の少なさに感謝した。
 シャッターを閉めて自室に戻る。酔いつぶれて安が眠っていた場所に何気なく視線を向けた。まだ寒い季節ではなかったし安はそれなりに体格がいいのでベッドに運べずカーペットに寝転んだ体に毛布を掛けたのだ。
 手嶋は寒咲の質問の意図をほぼ完璧に理解して汲み取り回答を寄越した。自分たちは若いから、迷うことなく信じる物を勢いだけで選べたのだと。寒咲にはそれが難しいこともあっさり提示した。いい後輩であり、嫌な後輩だ。
 安の言葉は一週間たっても寒咲の頭で繰り返し再生されていた。むしろ日々それが占拠する場所が増えている気さえした。
 好きだと率直に伝えられたのなら返事を考えるのはさほど難しくはない。しかし安は「好きだった」と言ったのだ。今どうなのかは聞けずじまいで京都に帰ってしまった。アルコールのせいか記憶すら定かでないようだった。
 胸の中に残った苛立ちに、洗濯機に入れるはずだったエプロンを床に叩き付けて煙草を取り出した。火をつけて、机上に乗せてあるカレンダーに目を向ける。明日は店の定休日だ。
 電気を消し、ポケットに入った車のカギと財布を確かめ、開けたばかりのドアの鍵をかけて階段を下りる。時計の針は一時間もせずに日付が変わる事を報せているが寒咲はそれを無視して車に乗り込んだ。
「待ってろバカ」
 安がどこに住んでいるのか聞かなかったが、愚痴の中で会社の名前を言っていた。大きな会社であり名前だけなら大体の人間が知っている。京都の支社は一つしかないはずだ。カーナビを設定し、煙草を一本吸ってから車を出した。

 インターハイが終わり、例の不思議な収録のあとから安は定時で上がれた日がなかった。入社して二年になる。後輩もできたが責任が増えただけで仕事は減らない。今日も後輩のミスをフォローしてやりながら最後まで職場に残っていた。泣きそうな顔で謝る後輩を先に帰したのは彼が残っていたとしても作業効率が下がるだけだったのと、無茶をさせて辞めますと言われるのが怖かったからだ。
 がらんとした倉庫内でバインダーに留めた紙をめくる音だけが響く。在庫の整理と発注数の確認を終えればあとは事務所に戻りタイムカードを押すだけだ。事務所は会社ビルの中にある。一度外に出なければいけないのが億劫だった。疲れた体を引きずって倉庫とビルの間にある狭い道を歩いていた時、正面玄関に見覚えのある車が止まっているのが見えた。寒咲サイクルの車によく似ている、と思ったがそれが本当に寒咲サイクルの車だとは思わなかった。
 運転席の窓が開いており、不機嫌そうに煙草を吸う寒咲通司の姿が見えなければ確信を持てなかっただろう。
 深呼吸をして、寒咲の車に近づいた。口の中が乾いていた。妙に緊張する。それは過去に彼に抱いたよこしまな気持ちのせいだ。
 彼がそれを知っている筈もないのできっと何か用事があって近くに来たので寄ったのだろうとあたりを付けて不自然にならないように声をかけた。
「寒咲さん。どないしたんですか。」
 正面玄関を見ていた寒咲が意外な方向から現れた安を見て一瞬目を見張る。煙草を揉み消してから車を降りた寒咲は先程見た通り不機嫌な顔をしていた。
「お前、あの夜の事覚えてねぇよな」
 あの夜、とは恐らく寒咲の部屋で酒盛りをした日の事だろう。はぁ、と曖昧な返事をすると寒咲の眉間に皺が刻まれる。何か悪いことをしただろうかと首を捻るが思い当たらない。というか覚えていない。
「お前、俺に好きだっつったの忘れたんだな?」
「…は?」
 間抜けな声が出た。
基本的に寒咲は温厚だが部活でけじめをつける際に厳しくなり後輩に怯えられていた。まさにその後輩の気分を味わい、言葉の内容も耳に入らず安は身を縮めた。
「す、すんません…?」
 疲労と混乱で回らない頭で、とにかく寒咲は千葉から京都までわざわざ自分に会いに来たという事と、怒っていることがわかり口から自然と謝罪の言葉が出た。途端、足元がぐらつき視界が回って背中に衝撃を感じた。
 目の前に寒咲の激怒した顔と、会社の正面玄関が見えた。胸倉をつかまれて車に押し付けられたのだと解ったが何故なのかはわからず目を瞬かせてしまう。
「すみませんじゃねぇよ。言い逃げしやがって、こっちはあれからずっと考えてんだ。忘れてんじゃねぇよ。」
 低い声に喉が上下するのがわかる。身長はさほど変わらないが元スプリンターの筋力は伊達ではない。本気で怒っているからか手加減もされていない。少しの抵抗では解けそうになかった。
「あの…俺、あとタイムカード押すだけなんで…待ってもらってもええですか?」
 小さい声で控えめに言うと、安がまだ作業着であることに気付いたのか寒咲は乱暴に胸倉から手を放して正面玄関に向かって顎を杓った。
 よれた胸元を整えながら守衛室の小窓で雑誌を読んでいる守衛に頭を下げて社内に走る。階段を上がって電気もつけずに事務所に入った。タイムカードを手に取って真っ暗な事務所からそっと窓に近付く。寒咲はまだ車外に立っていた。駐車禁止の道路だがこの時間は車もほとんど通らないし運転手が近くにいるので大丈夫なのだろう。煙草に火をつける仕草が妙に大人びていて安はめまいを覚えた。
 さっき寒咲はなんと言っただろう。口元に手を当てて考える。言葉を思い出し、持っていたタイムカードを落とした。
 寒咲の部屋で酒盛りをした夜の事を安は途中から覚えていない。仕事の愚痴を言ったり後輩を褒めた事までは覚えているのだがいつの間にか眠ってしまった。広いとは言い難い寒咲の部屋に飾られた数年前のインターハイの写真ばかり見つめていたのは、はっきりと覚えている。
 あの頃、安は間違いなく寒咲通司に惚れていた。選手としてではなく一人の男としてだ。けれどその想いは二年間隠し続け、完全に封印したはずだった。アルコールの勢いで零れてしまったのだろうか。寒咲の言葉が真実だとすればそれ以外考えられない。落ちたタイムカードを拾い上げて退勤を押すと、安の足は裏口に向かっていた。
 アパートについて鍵を取り出す。青いキーホルダーのついたそれを一度落とし、緩慢な動作で拾ってからカギ穴に差し込んだ。合鍵を渡す予定もなく、キーホルダーには二つともつけっぱなしになっていた。鍵をかけてから携帯電話の充電が切れ居た事を思い出した。充電すれば恐らく寒咲からの着信やメールがあるだろう。電源を入れることはできない。電源が切れたままの携帯をベッドの上に投げた。疲れ切っていたせいか、そのままシーツに倒れこみ、朝まで眠ってしまった。
 翌朝、携帯の電源を入れて後悔した。着信が山のように入っており、メールも数件あった。最後のメールは「覚えとけ」だ。
 その日は仕事にならなかった。あまりに集中力が切れていたので後輩にも心配され忙しさのピークを終えた事もあり久しぶりに定時にタイムカードを切ることができた。すっかり気が抜けて正面玄関を抜けた時、昨夜見たのと同じ車がある事に気付いて足を止めたが遅かった。せめて正面玄関を抜ける前ならばまだ何とかなっただろう。
「よぉ」
 一言挨拶をして寒咲は早足に安の目の前まで歩いてきた。体を引こうとする安の肩に腕を回し半ば引きずるようにして車まで歩く。
「乗れよ。夕飯まだだろ」
 内容としては悪い物ではないはずなのにその声には有無を言わせぬ圧迫感があった。声に出さず頷いて、抱えていたカバンを膝に置く。
 昨夜から京都にいたのか、店はいいのか、聞くことは多かったが不機嫌な横顔を見ていると何も聞けなかった。車で来たのだろうか。だとすると十時間以上運転して京都まで来たことになる。不機嫌な顔には疲労も見えたがそういう事なのだろうか。
 安の職場から車で十分走ったところにある焼肉屋に寒咲は車を停めた。何も言わずに歩き出す寒咲に続き、財布の中身を確認してから店に入った。ボックス席に通され一番安いコースを注文しようとする安を遮って寒咲が適当に肉を数種類注文した。肉が来るまでの少しの間、寒咲は煙草に火をつけようとしてやめた。吸ってええですよと安が言う前に寒咲が口を開いた。
「今はもう好きじゃないのか」
「え」
 言われた言葉を反芻している間に店員が元気な声であいさつをしてカルビと牛タンを机に置き、机に備え付けてあるコンロに火をつけて去って行った。
 安の返事を待っているのか、寒咲は黙って網の上に肉を並べる。空腹に、肉が焼ける匂いがしみた。店員が何度か肉を運んで来たが注文がそろうまでの間、安は結局一度も言葉を発せなかった。
 沈黙は結局、机上にある肉を全て焼き終えた寒咲の方が破った。レモン汁を小皿に入れて安の前に置き、取り皿に肉を入れていい加減食えよ、と言ってから自分も食べながら会話を再開した。
「お前俺に「好きやった」て言ったんだよ。」
 やはりあの夜自分は想いを零してしまったのだ。久しぶりの焼肉の味がわからないほど安は動揺していたが抑え込んで飲みこむ。箸を置いた寒咲が煙草に火をつけて続けた。
「過去形だよな。それって。」
 何故、と声に出しそうになった。寒咲が何を言っているのか解らずひたすら、何故放っておいてくれないのかという想いがぐるぐると頭の中を巡る。今はどうだか知らないが寒咲には彼女がいたと噂を聞いたことがある。自分と違いそれなりにイケメンの部類に入る寒咲は高校時代に大会で見かけるたび女子に騒がれていたのをよく覚えている。同性愛者である安の気持ちを疎ましい以外に感じるはずがない。
「俺はお前の事嫌いじゃないし、たぶん付き合おうって言ってくれたら付き合えるんだけど。」
 短くなった煙草を灰皿に押し付けて寒咲が吐き出した。
 同情か、からかっているのか、と沸いた怒りは不機嫌と疲労が滲んだ寒咲の顔を見てすぐに消えた。京都まで車で来て、丸一日待って捕まえてそれを伝えたという事は恐らく本気なのだろう。告白から一週間以上経っている。悩んだのだろう事も解る。
 過去形で溢れた想いは、安にとってまだ進行形だった。後輩の応援で見かけた寒咲が安を見つけて微笑んだ瞬間に恋心が死んでいなかったのだと気付いてしまった。
「…いまも、たぶん、好きです。」
 曖昧な返事に寒咲の眉が寄せられた。新しい煙草に火をつけ、ゆっくり吸い込んでから低い声で言う。
「たぶん?はっきりしろよ。」
 鬼主将に睨まれる後輩の気持ちが再びよみがえり安は無意識に背筋を伸ばしていた。
「俺は酔っ払いの一言に振り回されて一週間悩んだ挙句店休んで京都まで車で来て捕まえたと思ったら一晩放置されてんだよ。」
 勝手な言い分だが、昨晩安が逃げた事は事実なので反論はできない。
「はっきりしろよ。嫌っつーなら俺はこのまま帰るし、いいならいいでそう言えよ。」
 強めの口調に体が硬直した。震えださないのが不思議なほど怖かった。
「…き、です」
 喉が渇いて声が出ない。
「聞こえない」
 ほとんど怒鳴り声に近い声に、店員が廊下の先からボックス席を気にしているのが見えた、
「すき、です。」
「声が小さい!」
「俺は、寒咲さんが好きです!」
 店員の視線が痛かったが、それ以上に寒咲の怒鳴り声が怖かった。最後まで言い切った安の目からは涙が流れていた。
 自分の意志で声に出すことは一生ないと思っていた言葉を、墓まで持っていこうと決めていた言葉を本人に告げた事が信じられなかった。
「よし。」
 泣いてる安をそのままに、寒咲はまた肉を頼んだ。そのあとは無言で淡々と肉を焼いては食べを繰り返し、会計は安が椅子から動けないでいる間に寒咲が済ませていた。財布を出すと年下に払わせられるかと断られた。家まで送られ、その日は昨晩よりもぐっすり眠った。寒咲はその足で千葉へ帰って行った。本当に自分との関係にけじめをつけにきただけなのだと思うと妙に胸が騒いだ。

 京都伏見の自転車競技部にスポーツ飲料を差し入れに行くと卒業したはずの石垣と校門で会った。量が多いので運ぶのを手伝わせ、部室につくと安とは直接面接があるわけではない暴君が出て行くところだった。安を認めると小さく頭を下げたところを見ると常識はあるようだ。
 荷物を置いてすぐに練習に出る御堂筋を追って走っていく石垣に安は首を傾げた。石垣はあんな顔をする後輩だったろうか。二人を追って、中性的な顔立ちの後輩が走って行った。彼の顔もまた、石垣のそれとよく似ていた。
 車に戻ってそれが羨望に近い表情だと思い至って安は妙に納得した。石垣がエースに向けている感情はきっと安が寒咲に向けているものとそれほど変わらないのだろう。後輩に相談するというのは情けない気もするが石垣ならば真剣に聞いてくれるだろうと思って安は元主将が戻ってくるのを待った。
 石垣が片思いである事と、エースの少年が今別な同性と付き合っているのだと聞いて安は驚いた。
「ほな石垣は失恋したんか」
「再確認させんでくださいよ。これでも傷ついてるんですから」
 苦笑いする石垣の話を聞いているうちに安は自信がなくなってきた。寒咲は本当に気の迷いではなく自分を好いてくれているのだろうか。石垣のような人望もあり見た目も男女ともに好かれそうな男でさえ成就しない物が、自分に叶えられるのだろうか。
 石垣と別れて車を走らせていると見慣れたジャージがペダルを回しているのが見えた。練習時間を過ぎても走っているのは先程見かけたエースだった。
 並んで走っているのが先に見た後輩でないことに安は眉を寄せた。練習時間外に誰と走っているのだろうと気になったが、それが石垣の言っていた男なのだと理解したのは二人の距離が近かったからだ。
 京都伏見のエースと並んで走っている男には見覚えがあった。インターハイで見た顔だった。安が三年の時二年生だった男で、確か箱根学園のスプリンターだ。
 彼の眼差しもまた、大切なものを見る優しい物だった。前だけ見ている京都伏見のエースの背を愛しげに見つめている瞳は片思いのようにも見えた。安が寒咲を見るときも同じような目をしているのだろう、と自覚した。
 やはり自分と寒咲が付き合うのは無理があるだろう。まっすぐな道を迷いなく走る少年たちを、アクセル一つで追い越して安は思った。次の休みに千葉へ行って、なかった事にしてもらおうと決める。直接会ってしっかり話せばきっと寒咲はわかってくれるはずだ。

「…なんでこんな事になったんでしたっけ」
 ヘルメットのストラップを締めながら安は隣で同じようにヘルメットのストラップに触れている寒咲に尋ねた。
「知るか。とにかく約束は守れよ。」
 安が寒咲サイクルに来て話し合いをしてから一か月が経っていた。
 別れる別れないの話し合いをしてる所に寒咲の妹が飛び込んできて「それなら自転車で決めればいいんですよ!」と言ったのをきっかけに安が勝ったらなかった事にする、寒咲が勝ったら納得できるまで付き合うという賭けを成立させ、互いに一線を退いたため一か月の練習期間を設けて今に至る。
 故障のある寒咲は心配していた安を、就職して腑抜けたやつには負けねぇよと笑い飛ばしていたがそれでも一か月しっかりリハビリを兼ねたトレーニングをしていた。仕事の休みがほとんどない安も、寒咲の妹が作ったメニューをそれなりにこなすことができ、現役時代ほどではないがかなり体力も勘も戻ってきていた。
 すっかり寒くなったが走っているうちに温まるだろう。幹が設定したコースは起伏が少なくスプリンターの寒咲に有理にも見えたがオールラウンダーである安にも不利ではなかった。
 観客は幹一人だった。学校がある筈の高校生が何故ここにいるのか安が聞くと寒咲は苦笑いしてそういう妹なんだと説明した。愛らしい声がもうすぐスタートですと告げる。
 晴れ切った空を見上げて寒咲がいいレースにしような、と呟いた。白く細い腕がスタートの合図を出す準備をする。真っ青な空と、合図を出す腕が眩しくて安は目を細めた。
                           2

 二人だけのレースの結果を思い出し、安はため息をついた。
 酔った勢いで長いこと隠していた想いを告げ、安は寒咲と両想いになった。その後、釣り合わないだとか距離が遠すぎるだとか言い訳をして逃げ回った安にしびれを切らした寒咲が持ち出したのがロードバイクでの勝負だった。
 正確には寒咲の妹が提示したのだが、結果、レースは寒咲の勝ちという形で幕を閉じた。
 とにかく付き合ってみなければ何もわからないではないか、とは寒咲の主張だ。
 仕事場の隅にかけてあるカレンダーに目をやれば、レースからの日数を思い知らされた。やっぱり、と安は思う。千葉から京都までの距離、自分と寒咲の休みの違い。運よく会えたとしてひと月、否ふた月に一日と言ったところだ。
 更に、安と寒咲は距離と休み以外に新しい問題に直面していた。

 月末は書類仕事が多い。普段現場で働いている安は体を動かす以上に疲労を感じる仕事だ。ひと段落した所で目頭を強く抑えて時計に目をやると日付が変わるところだった。どおりで腹が減ると納得し、近場のコンビニに夜食を買いに出ることにした。
 会社には既に守衛と安しかいないようで、月末はいつもこうなので守衛も安に手をあげて声を出さずに挨拶をする。安も軽く頭を下げて正面玄関を出ると歩いて十分とかからないコンビニに向かった。
 翌日は休みだ。ついでにアルコールでも、と籠に放り込んでいるところで背後から声をかけられた。
「安さん…?」
 振り向いた先に居たのはコンビニ店員だった。制服のせいか名札を見てもピンとこなかったが、疲れた目を数回瞬かせて顔を見ればそれはよく知った後輩であることがわかり安は驚いて籠を落とす所だった。
「明久やないか。なにしとるん、あ、いや働いとるんやな。見ればわかる」
「安さんこそ…こない時間まで仕事ですか。」
 俺はバイトですけど。と付け足して辻は店内を見回した。真っ白な蛍光灯の明かりで照らされる店内には安の他に客はいなかった。
「まぁもうちょいで終わるけどな。お前は朝までなん?」
「や、俺もそろそろ上がりです。半夜なんで」
 半夜、とは恐らく勤務時間の呼称なのだろう。コンビニで働いたことのない安はそれが何時までの事なのかはわからなかった。
「これから帰るん?もう電車ないで」
 安の記憶では辻の家は京都伏見高校からそれほど離れていなかった筈だ。安の勤める会社は学校まで車で一時間はかかる。辻の家は更にそこから遠くなる。車を持っているのかと尋ねる前に辻が言った。
「家出たんですよ。大学入ってすぐ…」
「なんや?」
 急に言葉を濁す後輩に首を傾げる。少しの間の後、俯いていた辻が意を決したように顔を上げる。
「もう仕事終わるって言いはりましたよね?」
 もともと痩せて見える辻の顔は、更にやつれているように見えた。
 
 翌日が休みだと告げると辻は安心したように息を吐いてからすみません、と言った。どうしてもアパートに来てほしい、相談したいが説明が難しいのだと言われて会社に車を置いたまま安は辻のアパートまで来ていた。
 三階建のアパートの最上階、角部屋が辻の部屋だった。チャイムを鳴らす後ろ姿に違和感を覚えていると、中からチェーンを外す音が鳴る。石垣や井原が遊びに来ているのか、もしくは恋人でもいるのだろうか。僅かな好奇心を持ってドアが開くのを待っていた安が見たのは予想していなかった顔だった。
「あ、ええと…俺らのふたつ下の…、御堂筋って言うんですけど」
「知っとるよ。けどなんで」
 安の質問が終わる前に、ドアを開けた御堂筋は室内に入っていった。挨拶もなければ安の存在を気に止めた風もない。
 髪も服も真っ黒な少年は、自転車で恋人と走っていた時より随分薄っぺらい体に見えた。
「相談ちゅうんはアイツの事なんです」
 玄関から伸びた廊下に入ってすぐユニットバスがあり、向かいにキッチンがあった。奥には部屋が二つあり、御堂筋はその片方に入っていった。
「どうしたん。なんや家におれない事情でもあってお前んとこ来てるとかそういうんか?人様の家庭の事情に首突っ込むのもなぁ…」
 電気をつけて、誰もいない側の部屋に入る。小さなテーブルの上にコンビニ袋を置いた辻に勧められて座布団に腰を下ろした。
 安の正面に座った辻は言葉を探しているのかしばらく無言だった。コンビニ袋から出した弁当を几帳面に安と自分の前に並べ、割りばしも置く。
「御堂筋にはその…恋人がおるんですけど」
「箱学のスプリンターやろ?」
 割りばしを割って答えると、辻が驚いて顔を上げた。
「光太郎に聞いてな。で、恋人がおる御堂筋がなんでお前んとこ泊まっとるん。浮気か?」
 やるなぁ、と茶化すと辻が声を荒げた。
「やめてください!冗談でもそんなん聞かれたら殺される!」
 同じチームで走っていた頃ですら一度も見たことがない剣幕に、今度は安が驚く番だった。思わず謝ると、辻も大声出してすみません、と謝った。
「痴情のもつれも、他人がどうこうできるもんとちゃうやろ…」
 プラスチックの蓋をあけ、コンビニ弁当に箸をつける。自身が抱えている問題が頭を過るが、今はともかく後輩の話に耳を傾けなければならない。
「俺かて好きで関わっとるわけとちゃいますわ。井原んとこは実家やし、石やんの家はもうバレとるし、いや、そうでなくても石やんとこなんて行ったら修羅場になりますし」
 そういえば石垣は彼が好きなのだと聞いた事を思い出して安は隣の部屋とを仕切る壁をちらりと見た。
「ようわからんなぁ。」
 はっきり事情を説明してくれなければ相談に乗るものも乗れない。白飯の上に乗った鮭をつついて先を促す。言いにくそうにしばらく黙っていたが安が弁当を半分食べるころにようやく口を開いた。
「なんちゅうか…性の不一致…てやつみたいで…あ、それ以外はうまくいっとるらしいんですが御堂筋がもう会いたないっていうのを向こうさんが追っかけまわしてるらしいんです」
 咀嚼していた野菜を吐き出す所だった。慌ててお茶で流し込み、なんとか咽ずにすむ。
「もちろん詳しくは聞かないし、聞きたないし関わりたくないんですけど」
 辻の話は途中からうまく耳に入らなかったが、ともかく箱根学園の、今は大学生であるスプリンターの男と、京都伏見のエースが交際していて拗れた。放っておけなかった石垣が相談に乗り、更に拗れて御堂筋はただ逃げ回っている。どうやって調べているのか何処に逃げてもすぐに見つかり、気付けばまだバレていないのが辻の部屋だけだった。
 なんで俺が、と当然最初は断るつもりだった辻が引き受けざるを得なかったのは公道で土下座しかねない石垣と、暴君であった後輩があまりに憔悴していたからだ。
「はぁ…」
「俺らが言ってもどっちも耳貸してくれへんのですわ。年上が言うてくれたらもしかしたら、てのもあるし安さんからなんとか話してもらえませんか」
 確かに御堂筋も相手も安より年下だ。
「でもなぁ…」
「頼みます。正直石やん見てるのもキッツイんですわ」
 床に頭が着きそうなほど下げて言う辻の前に置かれた弁当は蓋どころかそれを留めるテープすら切られていなかった。
 詳しい話を聞かなくてはわからないが、聞いてみて力になれそうなら、と承諾して、安は頭を抱えたくなった。
 泣きそうな顔で後輩に頼まれては、面倒見のいい安が断れる訳がなかった。
(けどなぁ…)
 ようやく弁当に箸をつけて安堵の表情で食べ始めた辻を見つめながら安は内心でため息を吐いた。
「最近の子ぉは進んでるなぁ…」
「なに年寄りみたいなこと言ってはるんですか」
 痩せている割によく食べる辻が白飯をほおばって笑う。コンビニで会ってから今まで、辻が笑っていなかったことに気付く。
「年寄りで悪かったな。」
 なにしろ、自分と恋人が抱えている問題は、御堂筋とその恋人が抱えている問題の数段階前の物なのだ。
 付き合って暫く経つが、安と寒咲は未だに一線を超えていない。
 互いに欲情しないわけではない。安は寒咲がそういう意味で好きであったし、寒咲も性には寛容な方で興味もあった。それでも一線を超える事がないのは、どちらが上をするかで揉めているからだ。
男同士の行為ではどちらにも負担や危険がある。長い事寒咲に片想いをしていた安は知識があったので寒咲に聞かれるままにそれを説明した。
どちらの側にどれだけの負担や危険があるか話合った結果として、二人揃ってどちらでも構わないができれば相手を抱きたい、という意見が一致した。つまり譲らなかった。
触れるだけの戯れなら何度かした。それなりに興奮したが二十代前半の若い男がそれだけで満足できる筈もなかった。
会うたびに話題にしては気まずくなり、有耶無耶のまま千葉と京都に別れて帰る。付き合っているという事実だけで幸せを得る事ができない訳ではないが、このままの関係を続けていくのは無理だろうと安は思っていた。

辻の家で雑魚寝をした安は、朝早くに車を取りに会社に戻った。安の起きる音で目を覚ました辻が何処かで飯食いながら話しませんかというので石垣にメールをしてから車で京都伏見に向かう。
御堂筋から直接話を聞いているのは石垣だけだと車の中で辻が言った。
「俺たちは石やんと違うて、信用されてへんし」
 替えたばかりの携帯電話を弄りながら軽口で誤魔化そうとした辻の言葉を安は聞き逃さなかった。
「なんだかんだ、石垣だけじゃなくてお前らもあの後輩の事大事なんやなぁ」
 返事は返ってこなかった。安もそれ以上追及せず、車内にはラジオの音だけが響いていた。

 石垣と合流し、近場のファーストフード店で朝食をとった。食事中の世間話は殆ど石垣による御堂筋の話だった。今回の問題ではない。ただ石垣が見ている御堂筋翔という人間、選手についての話だ。
 問題の話をしようにもどう聞いた物かと安が迷っていると、辻が突然立ち上がって店の入り口を見た。つられて目をやった安は思わず声を出しそうになった。
「おう、今日休みなんだろ」
「寒咲さんは休みやないでしょ…」
 隣の空席に座る寒咲に話しかけているのを、一緒に入ってきた男や石垣たちも不思議そうに見ていた。交際の事は伏せ面識があると説明したあと、寒咲と共に入ってきた男に石垣が言った。
「新開、何しに来たん。まだ会いたないって言うとるのに」
 彼がそうなのか、と安は改めて箱根学園の元エーススプリンターを見た。
 綺麗な顔をしている。体格もよく、ファンの女子が多いというのもうなずける見た目だった。彼ならば男女問わず相手は選び放題なのではないかとも思った。
 二人が話している内容を、辻から聞いた断片的な情報と共に整理し終える頃には、後から合流した寒咲達も食事を済ませていた。
 御堂筋に会わせろと言ってきかない新開を宥め、石垣と辻は近くのファミレスに彼を連れて移動して行った。昨日から着替えていない安は一旦家に戻る事になった。
「…なんで不機嫌なんですか」
 車ではなく新幹線で来ていた寒咲は安のアパートまで助手席に座っていたがその間一言も喋らなかった。部屋に入り、すっかり定位置になった窓側の床に座っても、寒咲は口を開けない。
「寒咲さん、今日仕事で来れへんて言うてたやないですか。」
「まぁ…」
 不機嫌な顔で曖昧な返事をする寒咲に、つい口調が荒くなる。
「もしかして俺が休みやからって仕事サボったんとちゃいます?あかんですよ妹さんにばっか働かせたら」
 説教じみた言葉を無視し、寒咲が煙草に火をつけた。もともと安の家に灰皿はなかったが、今は置いてある。わざわざ買ってきたのは間違いなく目の前で不機嫌な顔をしている男のせいだ。
「寒咲さん」
 呆れた声で名前を呼ぶと、ようやく不機嫌な目が安に向いた。
「別にサボってきたわけじゃねーよ」
 短くなった煙草を灰皿に押し付けて顔と同じ不機嫌な声で寒咲が言う。先日のゲリラ豪雨で店が雨漏りし、当然二階の寒咲の部屋も雨漏りしたので改装工事を行っている、と寒咲が説明した。
「急に来れることになったから来たんだよ。そしたら新幹線で偶々隣にあいつが座って」
 新開の事だと気付いて安は思わずテーブルに手をついて身を乗り出す。新幹線で隣り合わせたなら何か会話をしたのではないか。それが後輩の悩みを解決する糸口になるのならと期待したからだ。
「何か話しはったんですか?」
 寒咲が黙り込む。呆れて乗り出していた身体を引くと、今度は短い沈黙の後不機嫌な声が話し出した。
「すげー見てたろ」
「は?」
「新開の顔」
 確かに綺麗な男だと思ったし、斜め向かいに座っていたので自然と視線が行ってしまった。
「もしかして、それで不機嫌やったんですか…?」
 恋人の前で違う男を凝視したからなどと、高校生ではあるまいし。思わず吹き出すと煙草の空箱が飛んできた。

 安のアパートに辻が来たのは夕方になってからだった。どうしても御堂筋の居場所を聞き出そうとする新開を石垣が根気強く説得し、関東に送り帰すまでにそれだけの時間を要したのだ。石垣は京都駅で新幹線に乗るところまで見届けると言ってついていったらしい。
 部屋でくつろいでいる寒咲を気にしていたが部屋の主が何も言わないからか、辻は安に話を始めた。話の途中、寒咲は何度か苛立った声で遮ったが、安に窘められて最後まで一緒に聞いていた。後輩の痴情のもつれを話す辻は、自分が石垣同様熱心に御堂筋翔の話をしていることに気付いていなかった。自分も井原も彼を認めていて、確かに暴君ではあったが彼のメニューをこなして間違いなく選手として成長したのだと辻にしては珍しく熱のこもった声で話した。石垣が語っている時も思ったが御堂筋という年下以上に後輩を成長させてやれなかったという意味では少しの悔しさを安は覚えた。見透かしたように寒咲が笑ったので、安もつられて小さく笑う。
 安は御堂筋という後輩と直接面識があるわけではない。まともに顔を合わせたのも昨夜がはじめてだ。けれど辻と石垣の話で、彼がどれほど自転車に賭けているのかは理解できた。同時に脆く、危うい人間である事も言葉の端々でとらえることができた。
 辻や石垣はまだぼんやりとしか掴んでいないようだが、彼らから話を聞いただけで安はそれがわかった。安自身、高校生であったら気付かなかっただろうと目の前で不安げに語る辻を見て思った。
 石垣が戻り、簡単な食事を出してから安は後輩二人を帰した。未だ辻の家にいるはずの後輩が心配なのだろう石垣から話を聞いても大した情報は得られそうになかったからだ。
「逃げ回ってる方が悪いだろ。話し合いって言ってんだから」
 ふたりが帰ってから寒咲はまた煙草に火をつけた。辻の前で煙草を吸わなかったのは一応気を使っていたらしい。
「けど話聞く限りじゃ向こうさんも相当強引って話ですし、気持ちはわからんでもないですけど」
「どっちの」
「どっちもです」
 呼吸音が聞こえるほど強く息を吸って煙を吐き出した寒咲が頷いた。
「俺も」
 ようやく顔から不機嫌さが消えたが、今度は安とそろって苦笑していた。どうせ今夜もただ飲み交わして眠るだけだ。翌日は仕事だし、合鍵を寒咲に渡して安は先に出かける。いつもと同じ休日だ。
 後輩の話を聞いても、解決できるかどうかはわからなかった。御堂筋も新開も人の話に耳を貸すようには見えなかったし譲れない物を互いに持っているようにも見えた。
 食器を片づけ客用の布団をベッドの隣に敷き、シャワーから出てくる寒咲を待っている間にぼんやりとレースの事を思い出した。
 二人だけで走る道は広かった。晴れた空と澄んだ空気。並んだ瞬間も、背中を見ている瞬間も、寒咲の前を行った瞬間も、競り合いすらすべて鮮明に思い出せる。走っている間は恋人や想い人ではなく競争相手であり選手同士だった。それがきっかけで彼に恋をしたが、道の上に戻ればそこにあるのは恋愛ではなく選手としての羨望と勝ちたいと言う意思だけだ。
 恋心を自覚したのも大会が終わって彼の姿を思い浮かべた時だった。
 二人で走った道を思い出し、彼の背中や後姿を思い出す。
「明日何時に起きんの」
 いつのまにかシャワーから出ていた寒咲に声をかけられて肩が跳ねた。
「八時です。」
「なんか顔赤いけど、お前」
 アンタのせいです、とは言えず安は黙って電気を消した。
 並んで眠るのも慣れたが、レースでの彼の姿を思い出していたからか今夜はやけに現実感が薄かった。
 白く細い手が、スタートの合図を出すのを思い出す。かわいらしい声で。
『それなら自転車で決めたらいいんですよ!』
 かわいい少女の声が頭に響いた。
「「あ」」
 安と同時に、寒咲も声をあげた。視線を向けると、寒咲も安の方に目を向けていた。
「今さぁ…幹の声が聞こえた」
「…俺もです寒咲さん」
 今の御堂筋と新開の行き違いは過去自分たちが通った問題と少なからず似ている。寒咲も同意し、けどなぁ、と呟いた。
「俺らの時と違ってこんだけ周りに迷惑かけてるとなぁ…」
「迷惑…とはちゃうと思います」
 確証を持って言う安に寒咲は眉を寄せた。
「光太郎…石垣たちは関わりたくて関わっとるんです。明久、ええと、辻かてちゃんと御堂筋を心配しとるし、何とかしてやりたいって思っとるのは見ればわかります。」
 寒咲にはわからないようだったが、安にはそれがわかった。石垣も辻も、辻から聞く限り井原ですら、自分たちを振り回した後輩を助けたいと思っているのだ。
「安がそういうならそうなんだろうけど…」
 あおむけになった寒咲があくびをする。
「ああ、だったら一緒に走ればいいんじゃねぇの。チーム戦。」
「は、スケジュール合いますかね」
 うつったあくびを噛み殺して返事をすると寒咲が笑った。
「社会人よりはよっぽど合うだろ」
 眠そうな、けれど楽しそうな声が暗い部屋で言い、それから急に低い声で寒咲は続けた。
「新幹線でさ…」
 寒咲が座っていた席の隣に腰を下ろした時、相当追い詰め垂れた顔をしていたらしい。話しかけて会話をしているうちに人当りのよい青年に戻ったと言うが、それは危険信号としか思えなかった。
 寒咲の話に、安も頷いた。
「早いところはっきりさせた方がいいと思うんだよな」
「別れるにしろ続けるにしろ、て事ですか」
「自転車で決めればどっちも納得するんじゃねぇの」
 わかんねぇけどさ、と呟いて寒咲が寝息をたてはじめる。隣に寒咲がいることを実感し、まだ若干火照ったままの頬をシーツに押し付けて安も目を閉じた。
 寒咲と話した事で、なんとかなってしまうと思った。実際寒咲はなんとかしてしまうだろうとも思った。寒咲だけではなく、あのかわいらしい妹も一緒になってレースの予定を組み、またあの可愛い声でスタートの合図をするのだろう。真っ青な空に伸ばされた手を瞼の裏に浮かべ、安も眠りに落ちた。

 翌朝、寒咲に見送られて出社し、職場から石垣と辻にメールを送った。昼休みには辻からメールが返ってきていた。御堂筋は一も二もなく安の提案に乗ったという報告だった。仕事を終えてタイムカードを切る頃に、石垣からメールが来た。新開も話に乗る、という報告だ。
 人数は希望者を募り、新開と御堂筋が各々で選ぶ。奇数で編成し、コース内の登り、直線でそれぞれ勝敗を決めてその数で最終的な勝ち負けも決まる。スケジュール調整は寒咲兄妹が行い、場所も決めるという事だった。メンバーは御堂筋と新開がそれぞれの判断で選ぶのだそうだ。自分たちの問題も、いっそ彼らのレースに預けてしまおうかと安は思った。
 新開という選手の事はそれほど詳しくない。けれど箱根学園が強豪であり、彼が仲間に協力を頼むとすれば、それはきっと京都伏見など相手にならないチームだという事はわかる。
 それでも、と安は思った。それでも御堂筋という選手と、短い間だが彼と走り、彼を信頼して成長したあいつらならば、あるいは。
 インターハイの走りを、安は全部見ていない。二日目のゴール前、ほんの少しの距離だけだ。仕事の合間だったのであとは全て記録として聞く事しかできなかった。
 結果として、京都伏見は箱根学園に負け、前年よりも順位も下げた。インターハイのあと、石垣が電話で結果を報告してきた事を思い出す。石垣の声は震えていなかった。リタイアしたというのに恥じることもなく安に報告したのだ。あの日の石垣の声はどこか誇らしげですらあった。
 全力で走ったからだろうと思っていたが、今ならそうではないと解る。彼は御堂筋と走った事を誇っていたのだ。
 恋人との関係を思えば、どちらの気持ちもわからなくもない、と安は思う。片方の味方をする事はできない。どちらが勝つかも冷静に考えればわかる。

『俺は別にいいけど』
「ほんまにですか」
『どっちが勝つと思うの。念のため聞くけどさ』
 どちらが抱かれるか、と言う問答の答えを、後輩のレースに乗せることを寒咲はあっさり了承した。
「御堂筋です」
 へぇ、と寒咲の感心した声がした。笑い声はしなかった。馬鹿にしている声でもなく、安はそれが妙にうれしかった。

 レースの日取りは、安の休日を第一に考えて組まれていたと後になって知った。


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