[携帯モード] [URL送信]

pdr
神様のいない春休み(東→御)
2015年6月発行本の再録です。

※注意
・謎のファンタジー設定
・東堂×御堂筋ですがその描写はあまりありません
・幼児化

※仲のいい箱学旧三年生が好きな方には向きません

以上を見て大丈夫な方のみどうぞ





神様のいない春休み



 来月頭に箱根で行われるヒルクライムのレースに参加するか、と問われて小野田坂道は返答に困った。自身の参加であればともかく電話越しの声が尋ねたのは東堂尽八が出場するかどうかだったからだ。同じ学校の人間であればまだしも他校の、しかも卒業生だ。
「巻島さんも知らないんですか」
 質問に質問で返すと巻島裕介は彼特有の吐き出すような笑いをもらしてから返事をした。
『一か月くらい前からあのくそうるさい電話がぴたっとなくなってな。今回たまたまそっちに用事があってレース出れそうだから教えようと思ったんだけど』
「巻島さん帰国するんですか!」
 言葉を遮って叫ぶ小野田にもう一度苦笑いをしてから巻島が話を続けた。

 在学中に小野田が見ていた限り、東堂から巻島への連絡が途絶えるとは想像できなかった。万一彼の身に何かがあればそれなりに交流のある総北高校に連絡がないのはおかしい。否連絡がないにしても噂くらいは聞くはずだ。携帯電話に入っている番号を呼び出しかけても東堂は出なかった。箱根学園の選手で小野田が連絡先を知っているのは東堂と真波山岳だ。久しぶりの電話に僅かに緊張しながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
『ひさしぶり。どうしたの』
 呼び出し音すら鳴らなかった東堂と違い数回のコールで出た声はどこか不機嫌だった。
「あ、あのさっき巻島さんから電話があってね」
『巻島さん?まさか東堂さんについてじゃないよね』
 なんでわかるのと小野田が驚きの声をあげる前に真波は畳み掛けるように早口で言った。
『オレは何も知らない。あと来月頭にある箱根のレースには出ない。キミも出ないで。じゃあね』
「え、真波く―」
 通話の終了はあっけなく、かけ直しても真波は電話に出ず次に小野田の携帯が鳴ったのは巻島からの帰国の連絡だった。

 過去に訪れた時はこんなに重い空気だったろうかと周囲を見回す。先を歩く巻島も箱根に入ってから口数が少なくなっていた。天気予報では晴れると言っていたのにバスを降りてから空は今にも雨が降りそうな色で染まっていた。
 東堂庵の屋根が見え、小野田は一度足を止めた。あの建物はあんなに得体が知れなかっただろうかと自身でも理解できない恐怖に支配される。昼間だと言うのに暗すぎる空の所為だろうか。
「小野田?」
 立ち止まっている後輩を不審に思った巻島の声に我に返り慌てて歩き出す。首を振って視線を戻せばそこにあるのは立派な旅館で、恐ろしいという単語は微塵も似合わなかった。
 早足に巻島の隣に並び、一歩前に出た。何故かそうしなければいけない気がした。まるで深い山道を歩いていて、はぐれてしまいそうな不安があった。

「すみません」
 休業中の札もないのに旅館に人影はなかった。客どころか従業員も一人もいない。何度か声をかけるが返事もない。夜逃げでもしたのか、と巻島が冗談交じりに言うが小野田は笑えなかった。
 東堂の自宅がある方向に行こうという巻島の提案に頷き、玄関に背を向けるのと声が聞こえたのは同時だった。
「まきちゃん!」
 幼く舌足らずな声と共に軽い足音が高級な床を転がってきた。ふたりが振り返ると、玄関から飛び出してきた影が巻島に抱きついた。
「…は?」
 巻島の腰より低い位置に抱きついたのは紛れもなく子供だった。
「おい!」
 次いで聞こえてきたのは聞き覚えのある低い声。箱根学園の元主将、福富寿一。
「福富…?おいこの子供…」
「何故お前がここにいる。海外に行ったんじゃないのか」
 純粋な疑問をぶつける声ではなく責める色を含んだそれに状況がわからない小野田と巻島は顔を見合わせてから抱きついたままの子供に視線を向けた。
「何で、て言われても」
「東堂さんと連絡がつかなかったから、それで」
 来月頭のレースに出るのだとの説明に福富は一度こめかみを抑えてからため息をついた。
「中で話そう」
 緊張した声はただ事ではないと物語っていたが小野田にはまだ何が起こっているのか解らなかった。


「…なンでこいつらがここに居ンだよ」
 小野田と巻島が通されたのは東堂庵の客室でも東堂の自室でもなく宿から離れた位置にある小さな、けれど厳重に鍵のついた小屋だった。
 畳八畳分ほどの部屋には格子のついた窓があり入り口以外にはトイレに繋がっているらしい扉しかない。
 窓枠に嵌っている格子に貼られた札を見て振り返ると予想通り入ってきた扉にも同じものが貼られていた。悪いものが入れないように、或いは何かを逃がさないようにするための結界に見える。作り話の中に迷い込んでしまったようだ。異質な部屋以上に、巻島から離れない子供を見て小野田は目眩がした。幼い顔には見た事のある面影があった。
「説明してもらえるんだろうな」
 小屋に入ってからも頑として離れない子供に疲れを隠さずに巻島が問う。正面に座った福富と荒北は無邪気に笑う子供をしばらく見つめてから頭を下げた。
「最初に謝らなければいけない。もっとしっかり箱根には来るなと言うべきだった。」
 連絡を絶ったのは巻島を箱根に近付けない為だったのだと福富が言う。
「この子供は、」
 東堂なのか、と続くはずの言葉はあまりに現実離れしているせいで言葉にできない。黙り込む巻島に福富は苦々しい表情で頷いてから口を開いた。

「その子供は東堂で間違いない。」
 驚きで叫びそうになるのをこらえ、小野田は口を両手で塞ぐ。事実として語られてもなお、小野田も巻島も子供の正体を信じられなかった。体のサイズが違うことや仕草や言葉が子供だからだけではない。福富にも荒北にも、子供は一度も話しかけず名前も呼んでいないからだ。子供が東堂だとして、巻島に対して好意的な態度であると納得はできるが仲間を完全に視界に入れない人間ではなかった。
 子供と、正面に座るふたりを交互に見る視線に今度は荒北が答えた。
「東堂の記憶に、もうオレたちはいネェんだよ。」
「は?」
 そろって間の抜けた声を出してしまったが場にいる誰も笑わなかった。
「東堂はもう元には戻らない。もう一月もすればその姿ですらなくなる。」
 巻ちゃんと繰り返し嬉しそうに笑う子供には福富の声が届いていない。
「ちょ、ちょっと待つッショ、どういうことなのか解るように説明しろ。」
 福富の声には無反応だった子供が、語気を荒げた巻島を見て目を丸くした。
「巻ちゃん、なにをおこっているんだ?」
 舌足らずな声は子供だったが紛れもなく東堂尽八だ。
「東堂は、山に還る。」

 東堂尽八は生まれた時から行く末が決まっていた。容姿にも才能にも恵まれた彼には、けれど未来を選ぶという誰もが持っている自由がなかった。
 生まれてすぐに瞳の色を見た母親は嘆いたらしい。東堂家の言い伝えで紫色の瞳を持った子供は十八を過ぎれば山に還るとされていた。山に安泰をもらたす神として、人から離れた存在として還る、山にとられるとも言い伝えられていた。
 年齢がくれば人ならざる能力を持ち始め、体が縮み、人としての感情や記憶が消えていく。人から離れる東堂を見ることに耐え切れなくなった家族は彼を残して家を空けた。休業の報せを出し、小さな小屋に子供を残して。
 消えるまでの短い期間、彼の傍に居たいと望んだのはかつての仲間だった。食事や排泄の一切を不要とし、屋根の上でぼんやりとすることが多くなった東堂は、それでもはじめは福富たちをきちんと認識していた。言葉は減り遠くばかりを見るようになっても声をかければ今までと同じように返事をして会話をしていた。
「記憶が消えたのと、こうなったのは同じ時期だった。」
 家族の事を忘れ、次いで福富たちも記憶から消し、あとは山に還るだけだった東堂を引きとめたのは巻島の来訪だったのだ、と福富は言った。
「少しの間だけでも話したりしたらいけなかったんですか?」
 このまま消えてしまうのはあまりに悲しいではないか。抗えない流れだとしても親しかったものとの別れすら叶わないなど小野田にはとても信じられなかった。
「そう思ったからオレたちはここにいる。」
 けれど、と長い瞬きをして福富が言う。
「巻島は駄目だと、そう判断したから連絡を絶った。真波も同様に今は箱根から離れている。」
「オレが?」
「ああ。山に帰すると決まった者に愛されると連れて行かれると言われている。」
 何を言っているのかわからなかった。これまでの説明さえ半分も理解できていなかったが、最後に語られた言葉で小野田の視界は一瞬真っ白になった。
「山に、とられるっていうのは」
 震えた声で言う後輩を心配させまいとしてか恐らく最も不安であろう巻島は動じずに福富に視線を向ける。数秒の沈黙の後、笑顔のままの子供の頭に手を乗せて箱根学園元主将はもう一度頭を下げた。
「存在そのものが消え、元々いなかったことになると言われている。考えた中で最も可能性があるのが巻島だった。」
 連絡を絶つのではなく事実を伝えるべきだったと、並んだ荒北も床に手をつく。
「まだ時間はあるんだろ。決まったわけじゃないッショ」
 得体のしれない力が目の前にある事実に恐怖を感じないわけがない。良く知った顔に似ている子供が笑う。瞬間理解した。天気の悪さも東堂庵から感じた威圧感も皆子供の力によるものだった。
 山と同化するにつれ足を踏み入れただけで東堂は気配を察知できるようになったのだと荒北は言った。最初は出入りする仲間の帰りをいち早く察していたがそのうち山に居る人間の全てを見通すようになったと言う。
「この山に入れば東堂に見えない物はなくなった。天気が荒れてここから東堂が飛び出した時に巻島が来たのは薄々解っていたんだ」
 ここ数日表情を無くし山の中の気配を感じるだけになっていた東堂が笑い、声を出して走る姿を見た二人はその喜びを止めることができなかった。咄嗟に来訪者である小野田と巻島を責めたのは一瞬でも喜んでしまった事への罪悪感からだったのかもしれない。

 離れたくないと泣き叫ぶ子供を荒北が宥め、小野田と巻島は東堂庵を後にした。短い間子供と話し、彼に残っている記憶が巻島と、ロードに関するほんの僅かなものだけだったと知った。巻島と話していると小野田の事も思い出し以前と同じにメガネくん、と癖のある笑みを見せていた。
 福富や荒北が何を言っても見知らぬ他人に対する顔を店る子供にぞっとした。もしも巻島が居なければ恐らく小野田も同じ瞳で見られたに違いない。幼くなっても記憶を持っていれば彼は間違いなく東堂だと言うのに。

 雷が鳴り、雹が降り始めた。完全な境がどこかは解らないが山を司るものが帰らないで欲しいと泣いているのが解った。激しくなる雹に無言で進む。前を進む巻島から目をそらさないように必死だった。消えてしまえば二度と会えないのは理解できない話の中でも恐ろしいほどに解った。東堂にとって無二の好敵手であり親友だと知っていても、小野田にとっても巻島は無二の存在で、無くすのは想像すら耐えられなかった。激しい雹と雷で声は遠く、視界すら目立つ頭髪を見失いそうになる。恐ろしくなって傘を放り出して隣に並ぶ。驚いて巻島が振り返ると急に安心した。何か言っていたが雷で届かなかった。
 周囲に大きな雷鳴が響き渡り、一瞬空が暗くなった。驚いて叫び目を強く閉じる。恐る恐る目を開いて巻島がいることに安堵の息を漏らす。雹も雨も止み、雲の切れ間から差し込む光がどんどん増えた。
「…出れたみたいッショ」

 晴れ渡った空に、雷の名残はどこにもなかった。




「勝手を言ってすまない」
 何度目になるか解らない福富からの謝罪に巻島が苦笑いした。
 無事に箱根を出られた日から、福富に頼まれて巻島は東堂庵に居た。帰れなくなる不安から付きそう小野田も自然毎日通うようになり、東堂が消えるまで寝泊まりすることになった。山に帰依するまでの間少しでも人間らしい別れができるようにという仲間の願いを巻島が受け入れた。
 巻島が話しかければ十八歳の東堂と何も変わらない饒舌な言葉で話すが、そうでない時に宙を見て黙り込むことが増えた。
 山に在るすべてを把握するには人間としての意思は邪魔なのだろうと新開が言った。新開もまた、東堂との別れを惜しみ仲間と共に此処にいた。
 人間の決めた予定と違い、東堂尽八がいつ山にとられるのかはっきりとは解らない。古い文献によれば三月から四月だと福富が言っていた。

「明日はレースなんだろう?オレも見に行きたかったんだが駄目と言われてな」
 ダダをこねる子供の仕草で東堂が言った。部屋中に貼られた札は彼の親が少しでも人間でいる時間をと願った藁に縋る想いの形だ。
「けど、ここからでも見れるんだ。内緒だぞ。」
「見れるんですか?」
「なんだメガネくん。オレの言うことが信じられないのか。」
 慌てて首を振る小野田に、得意げに笑った東堂が深呼吸して目を閉じた。
「何してるッショ」
 黙り込んだ東堂に巻島が声をかけるが返事はない。少しして、うっすらと開いた瞳は以前よりずっと濃い色になっていた。
「今日の練習中にメガネくんの乗っていた自転車のチェーンが外れただろう。直したのは女性だな。違うか?」
「え」
「巻ちゃんはボトルに入れてくる水分量をミスったな。途中で足りなくて仲間に分けてもらっただろう」
「あ、ああ田所っちに…」
 なんで解るのかとは愚問だった。練習コースは離れているとはいえ箱根の山で、そこは既に東堂の意識の中なのだ。
「見えると言ったのが嘘ではないとわかってもらえたか?」
 嬉しそうに笑った顔が、数秒もしないうちにぼんやりと宙を見た。人も、動物も、植物も、生きていないものさえ全て意識の中にある東堂が人間の意思を表す時間は巻島と話していても減り始めていた。
 遠くを見る子供の目に、小野田はもちろん巻島すら映っていない。悲しくないと言えば嘘になるが、それ以上に視界から外れた大切な人間が連れて行かれないと何処かで安堵していた。

 レース当日、荒北は東堂が脱走しないように小屋に居た。荒北という人間が記憶から抜け落ちている東堂は、はじめ見知らぬ大人に怯えを見せたがすぐに宙に視線を泳がせて黙り込んだ。座りもせず、じっと立ったまま何もない部屋で宙を見る子供は異様な雰囲気を纏っている。

彼の末路を福富に聞いた時、荒北はなんとかして人間に留まれないのかと東堂の家族や福富、新開にまで詰め寄った。焦る荒北を止めたのはまだ記憶が残っていた、しかし子供の姿になった東堂だった。
 生まれた時から決まっていて、納得もしていると東堂は言った。特徴的な色の瞳は消滅への怯えもなければ別れの悲しみもなく、既に人から遠ざかっているのだと荒北は背中に寒気が走るのを感じた。大切な仲間はその時点で既にいなくなっていたのかもしれない。それでも、どうか消えるまでは傍にいてやりたいと荒北も、新開も口をそろえて言った。家族が居なくなった広い家で人から離れる東堂を三人で見守る事を決め、巻島や真波を近づけないようにすると約束をした。
 どんどん言葉を無くす東堂に三人とも不安と寂しさを覚え、あの日巻島が現れて僅かだが確かに喜んだ。三人を忘れた東堂が久しく見せた彼らしい顔だったからだ。
 東堂が、見た事のない大人を見る顔で自分を見た日を一生忘れないだろうと荒北は思う。子供の姿だったからではない。そうなるまでのことも、そしてその先も荒北にとって一生を左右するだけの重みがあった。

「…い」
 ぼんやりと宙を見ていた東堂がぽつりと言葉を吐いた。山に意識を飛ばしている間に声を出すのは初めてだったのでぎょっとした。
「あ?なに?」
「…あれ、が」
 綺麗な顔が宙を見たまま僅かに歪む。あ、泣く、と思うのと大粒の涙が畳に落ちるのは同時だった。
「あれが、ほしい」
 ぼろぼろと流れる涙の美しさに魅入ってしまい、走り出した子供を取り逃がす所だった。なんとか両腕で抑え込むが死に物狂いで暴れる小さな手足に腹と言わず顔と言わず攻撃され、力加減を忘れて子供を組み伏せた。
「なんなんだヨ、急に!何が欲しいってンだ!」
「どうした」
 騒ぎを聞きつけた福富と新開が小屋に駆け付け、暴れる子供を三人がかりで抑え込む。
「あれがほしい!あれじゃないとイヤだ!」
 さっぱり意味を組み立てない主張に三人が困り果てた頃、東堂庵の玄関に青ざめた小野田が飛び込んできた。




 先日の雹や雷雨を忘れるほどの晴天だった。小さなレースで、観客の数も多くない。というより小野田が経験したレースの中で最も少なかった。
「箱根の住民は知ってるのかもしれないッショ」
 周囲を見ていた小野田に話しかける巻島の顔はやつれていた。無理もない。ここ数日、巻島は東堂の住む小屋に寝泊まりしていた。日々人ならざる者に近付く親友を失う瞬間を恐れているのだ。いつ消えるのかと不安を抱いたまま傍で見守る恐怖を小野田は想像しか出来ない。
「大丈夫ですか。」
「ああ。なんともないッショ。変に気使って手ェ抜くなよ」
 明らかに不調な巻島に、逆に気を使われてしまい恥ずかしくなる。ヘルメットを被り、参加者を見回した。ヒルクライムで、箱根であるにも関わらず東堂も真波もいないレースに違和感を覚える。
「あ!」
 何度か共に走った事のある選手を見ているうちに、一際目立つ人影を見つけて思わず声を上げた。
「なんやサカミチ、と巻島クン、海外行ったんちゃうの」
 人を小ばかにした声や動きに、巻島は嫌そうに眉を寄せたが小野田は涙が出そうなほど安心感を覚えた。離れていた日常に戻った気がした。もうすぐ失う東堂尽八という人間への悲しみを一瞬でも忘れさせてくれた御堂筋に感謝の気持ちすら沸いた。
「随分顔色悪いんちゃう?そんなんで頂上取とれるん?」
 嫌味を向けられた巻島の苦笑にもどこか安堵が混じっていた。一緒に来ているらしい石垣に呼ばれた御堂筋が立ち去った後に巻島がぽつりと呟いた。
「あいつが居てよかったと思ったのは初めてだわ」
「ボクは御堂筋くんと走るの好きですよ」
「それには同意できないッショ」
 苦笑ではなく、素の笑みだった。かつて東堂が下手な笑い方だと揶揄した笑みで、久しぶりに見る巻島のそれに小野田はもう一度御堂筋に感謝した。

 長いコースではなかった。厳しくはあったが元々登りを得意とする選手が集まったレースだ。先頭集団から飛び出したのは小野田と御堂筋で、巻島はそこに居なかった。振り返るなとスタート前に言われた言葉を守りペダルを回す。自身の不調を十分理解していた巻島はトップ争いに入る前にリタイアをしていた。
 ゴールが見える頃には小野田の視界には御堂筋しかいなかった。特異な走りは歪だが研ぎ澄まされ、観客から上がる怯えた悲鳴に小野田の方が胸を痛めた。御堂筋の走りを、小野田は醜いと思わない。周囲を乏しめる発言さえ彼の強さだと信じている。
 気持ち悪い、と観客から聞こえる声に言い返してしまいそうになる。ヒルクライムのスピードは速くとも直線を走るよりは観客の声が耳に入る。自分に向けられた暖かい声援の裏に聞こえる御堂筋への非難に、思わず声を出していた。
 ラストスパートに向けての意気込みだと思われたのか観客からの声援はますます強くなる。そうではない、彼を悪く言わないでくれとペダルを回す脚に力を込めて喉が裂けそうなほど声を上げた。すぐ隣を走る御堂筋は歯を食いしばっていて声を出しては居なかったが同じだけペダルを回していた。
 叫ぶ小野田に同調するように突風が吹いた。なんとかバランスを保ち、小野田も御堂筋も姿勢を立て直してゴールに向かう。と、予報外れの雨が降り始めた。大粒の水滴がばらばらと降り、観客が慌てて屋根の下に移動した。豪雨に、雑音が消えた、とそう思った。雨の音は酷いのにこんなに静かなレースは初めてだった。

 一位になった小野田の横に御堂筋は居なかった。雨の中の表彰式は早々に終わり徐々に悪化する天気にどの選手も急いで帰路についていた。せめて挨拶をとジャージのまま御堂筋を探すと救護テントから戻った巻島が二本持った傘のうち一つを小野田に渡し優勝を祝う言葉を言った。
「ありがとうございます。あの、御堂筋くん見ませんでしたか」
 礼もそこそこに下した相手を探す後輩に呆れながらも周囲を見回して巻島は眉をひそめた。
「いた、けど、なんだアレ」
 小野田より数センチ高い視界は目立つ影をすぐに捉えた。しかしその影は不自然だった。周囲に石垣の姿も、乗ってきたはずの車もなくただ一人で立ち尽くしている。携帯電話を持った手には焦りも見えた。
「御堂筋くん?」
「サカミチ、電波、」
 小野田の声に振り返った御堂筋の顔にはレースの疲れだけではない疲労が見えた。
「どうしたッショ」
「電波、立っとる?」
 焦りのこもった声に、なるほど携帯電話が通じないのかと把握して自分の端末を取り出した。
「ああ、良好ッショ」
「ボクも。御堂筋くん電波悪いの?」
 悪いなんてものではないと疲れ切った顔が物語っていた。
「石垣クン仕事で呼び出されて先に帰ってまうし、学校で出してもろた車もボクのこと忘れて置いてったんや。自転車は乗っけたくせに。」
「普段の態度が悪いからじゃないのか」
 巻島の声に御堂筋は反論しなかったが、引率の教師がそこまでするわけがないとは言った本人も解っていた。運の悪い偶然が重なった結果だと、そう思っていた。
「バス停まで送るよ」
 小野田の申し出を断らなかったのは携帯電話で時刻表すら調べられなかったからだろう。

 いくらなんでもおかしいと思い始めたのはバスが御堂筋ひとりを置いて発進したあとだった。乗り込む直前に閉まったドアに小野田が慌てて手を振ったが時すでに遅くバスは発進していた。あれだけ存在感のある人間を見落とすことなどありえないと巻島が呟き、次いで雨が強まり雷が響いた。もう小野田や巻島がどれだけバスを呼んでも聞こえないのは一目瞭然だった。
 バス停から東堂庵までは歩いて十分もかからない位置だった。雨宿りと家への連絡を優先する御堂筋は少しもしぶらずに歩を進めたが小野田と巻島の足取りは重かった。不自然な豪雨と雷はあの日と同じで、けれど明らかに違う力の働き方が見えていた。
「なんや、さっきから変な声せん?」
 東堂庵に近付くにつれて弱くなる雨の中で御堂筋が言った。
「声?」
「子供の声みたいな。ほしい、て。どっかで泣いとるみたいな」
 雨で濡れた体が急激に冷えていく気がした。





 玄関に転がり込み、何事かと駆けつけてきた新開にまともな説明ができずとりとめのない単語を吐いた。聡い青年は取り乱した小野田を宥め、わかった、落ち着けと繰り返し乾いたタオルを渡してくれた。背後から追いついた巻島と、もう一人を見た深い青の瞳が悔やむように細められるのを小野田は確かに見た。
 玄関をくぐった二人の元に、軽い足音が駆け寄る。巻島に向かうと誰もが思っていた子供は何の迷いもなく歪な体をした京都の選手の手をとった。
「なん、この子供。東堂クンの弟かなんか?」
 呆気にとられる周囲に気付かず新開に渡されたタオルで髪を拭いながら御堂筋が問う。答える人間は一人もいなかった。
 風呂に入りたいという御堂筋について子供も一緒に入って行った。
「…なんで御堂筋なんだ」
 誰もが感じていた疑問を口にしたのは荒北だった。わからない、と巻島が答え、小野田も頷く。新開は黙り込み、福富も腕を組んで目を閉じていた。
「あの二人とかサァ、全然会話してなかっただろ、インハイで。しかもインハイでしか会ってないじゃネェか」
 無関係な人間を巻き込んでいる事実に荒北の声は苛立ちを含んでいた。
「…東堂が」
 目を開いた福富の声に全員がそちらを見た。普段の彼と違い、床に落とされた視線には罪悪感が滲んでいる。
「生まれてからその責を負い受け入れて生きてきたとすれば、明るく振舞っていたあの性格が全て虚偽だったのかもしれない。」
 誰も福富の言葉を否定しなかった。うるさいほど付きまとわれた巻島さえ黙っていた。
「あの場にいたのはオレだけだった。」
 思い出したような口調に小野田は首を傾げるが、荒北も新開も顔を曇らせて俯いた。福富の話はどうやら箱根学園の人間には解るらしい。巻島も小野田同様不思議そうな顔で福富の言葉を待っていた。
「インターハイ二日目、新開がスプリントを獲られた直後の山岳リザルト。」
 確か御堂筋が獲ったはずだと小野田は記憶を探る。その場にいなかった小野田も巻島も、東堂がどのような顔をしていたのか知らない。
「同じ顔だった」
「同じ?」
「福チャン!」
 言葉を遮ろうとする荒北に、床から視線を上げた福富は小さく息をついてから巻島に向き直って話し始めた。
「東堂が俺たちを記憶から消した日と同じ顔だ。」



 箱根全体を見通せるようになる少し前、視界に入れた人間の過去や感情、魂とでもいうのだろうか、そういったものを東堂は見るようになっていた。家族が箱根を離れたのはそのころだ。
 福富の姿を視界に入れた東堂は、静かに表情をなくしてから一言、全て報告してくれ、と言った。
 何のことなのか初めは解らなかった。困惑する福富に、東堂は更に幼い声で言った。

オレに、お前を軽蔑させたまま記憶から消させないでくれ

 福富が金城のジャージを掴み転倒させた事を知っているのは箱根の仲間では新開だけだった。新開は大会への報告を強いなかった。過去に自分が背負った罪の重さに後ろめたさを感じていたからなのは福富も知っていた。知っていて新開にだけ告げた。
 事実を知った荒北は東堂と同意見だった。例え箱根学園の戦歴に傷がつこうとも大会のルールは守るべきだと主張した。

「しなかったんだな」
 何の報せも聞いていない巻島はすぐに悟って呟いた。金城が許している限り総北の人間は福富を責めるつもりはない。小野田もそうだったが、ルールを重んじる東堂や荒北はそれを認められなかった。報告を拒んだ福富を許しはしたが、東堂はその日以降福富をはじめとする箱根学園の人間を忘れた。記憶を消した東堂に、もう福富と同じチームで走る事はない、と荒北は小さく呟いた。知らない人間の呟きに、東堂は小さく首を傾げるだけだった。
「東堂が、オレに本心から話したのはあれが初めてだったのかもしれない。」
 喧しく、明るく、器用になんでもこなし仲間を想う男は同時に厳粛な精神を持った選手だった。
 王者という地位を捨てたとしても、大会の規定を守り報告するべきだという主張を福富は飲めなかった。数年経った今報告したとしても大会は成績を変えないかもしれない。けれど父や兄、家族に知れればどうなるのか、順位を変更せずとも今後箱根学園が大会への出場停止を言い渡される可能性もある。後輩の為を想えば金城と自分が納得している手前報告は不要だと、感情を顕わさなくなった仲間にそう告げた。
 そうか、と短い返事をした東堂はしばらくの間宙を見つめ、それから意識を同じ部屋にいる人間に戻した時そこに彼の仲間は存在していなかった。見知らぬ誰かを見る瞳を、福富も荒北も、あとから話を聞いた新開もきっと一生忘れない。


「大会に報告しろと告げた顔は、二日目の山岳リザルト手前で御堂筋を見つめる顔と似ていた。」
 東堂は勘がいいと真波が言ってたのを小野田は思い出した。人の考えを見抜けるんじゃないかなぁなんて笑っていた彼は、その言葉が今事実として作用しているのをどう思っているのだろうか。
 福富の言う山岳リザルト前の東堂は、御堂筋に何を見ていたのだろうか。
「あの顔が、演技をしていない東堂尽八だったんだな」
 誰にともなく福富が言い、その後は誰も口を開かなかった。仮面をかぶり演技をして生きてきた東堂の素顔を、引きずり出した男はまだ自身に起こっている災厄に気付いていない。

 風呂から出ても手を握って話さない上機嫌な子供に、御堂筋はうんざりとしていた。御堂筋の手を引く東堂について入ったのは東堂庵の客間の一つだった。成り行きを気にした福富たちに続いて小野田と巻島も部屋に入る。客室は広く高級で、小野田は僅かに緊張した。豪華な部屋への緊張以外に、確かに得体のしれないものへの不安からくるものも混ざっていた。
「あんなぁ、ボクもう帰るんやで。遊びたいなら他のオニイサンにお願いせぇや」
「かえる?どこに?」
 大きな目がきょとんと見開かれた。言葉の通じない子供を相手にしている御堂筋は大げさに呆れた声を出す。
「ボクはァ、ここに泊まりに来たんとちゃうんですぅ。雨宿りして、バスの時間になったらさっさとお暇するんやって」
「なんでだ?」
 小さな両手が、骨ばった手首をしっかりと掴む。はらはらと見守る周囲に気付かない御堂筋は子供を怯えさせるために大きく開いた目と口で迫っている。
「なんでもなにも、こないなとこに泊まる縁もなければ備えもあらへんしぃ?キミィのオニイサンともまともに会話したことないしなぁ」
 本物の子供であれば怯んで泣きだすであろう御堂筋の風貌にも東堂は動じない。どころか迫ってきた顔に自分の顔を寄せて頬ずりするほどだった。
「変な子供やねぇ」
「こ、子供じゃないんだよ、東堂さんの弟でもなくて」
 静まり返る四人に耐え切れず思わず声を出していた。
「小野田チャン、なに」
「だって荒北さん、このままじゃ御堂筋くんが連れていかれちゃうんでしょう?ボクそんなの…」
「サカミチ、なんの話や」
 切羽詰った声が引っ掛かったのかそれまで茶化していた口調が一変し、小さな手を振りほどいてから御堂筋はまじまじと子供を見た。しかしどれだけ見ても今の東堂はただの子供にしか見えない。
「御堂筋くん、あのね、その子供は東堂さんで、山の神様になるって決まってて、あの、それで気に入った人を連れていっちゃうんだって」
 自分で理解できない事を説明するのは難しく、黙りこくっている箱根の人間に助けを求めて視線を彷徨わせるが返事はない。
「だから、」
「小野田」
 部屋の隅に座っていた巻島に呼ばれ、視線を合わせると険しい目で首を振られた。ここにお前の味方はいないのだと言われた気がした。
「御堂筋くん!」
 頭に血が上り、目の前の細長い腕を掴んで走り出す。突然の事に動けなかった子供を振り切り、呆気にとられた三人の脇を抜け、長い廊下を進む。背後から小野田を呼ぶ声と、宥める巻島の声がした。あの場で小野田の意思を理解し尊重してくれたのは唯一巻島だけだった。


 どういうことなのだと問うてくる御堂筋に言葉足らずに説明するが、あまりに現実離れした話に信用は得られなかった。もどかしさに歯噛みしながらも強くなる雨から逃れるために傘も差さずに歩みを進めた。
 濡れることに文句を言っていた御堂筋も必死な形相の小野田に言葉を無くし、進むままについてくる。話が見えん、と呟くが続いたアクシデントを思い出して不可思議な強制力に怯むのが解った。
 まだ陽も落ちきっていないと言うのに辺りは暗く、アスファルトで舗装された道を歩いていたはずが気付けば街燈のない獣道に出ていた。
「戻ったほうがええんちゃう」
「戻ったら、戻れなくなる」
「戻れんくなるって、」
「消えるんだって聞いた。山にとられて、全部なかったことになるって」
 掴んだ腕が強張るのが解った。深くなる草に脚をとられて転びかけるがなんとか立て直して先を急ぐ。山を下りれば、箱根から離れれば御堂筋を逃がせる。その一心で葉で擦り切れた肌も土に汚れる靴も意識から追い出してただ進んだ。
「ボクは御堂筋くんが消えるなんていやだ。」
 東堂尽八が消えてしまうことも良しとしたわけではない。けれどそれは彼が決めた事で、小野田が口出しする問題ではなかった。選ばれたという理由だけで消されてしまうには、御堂筋翔は小野田にとって重すぎる存在だった。
「もう自転車に乗れなくなるんだよ」
 声が震える。何を言えば信じてもらえるのか解らなかった。
「…それは困るナァ」
 ぽつりと、背後から聞こえた声に涙がこぼれた。自転車に乗れなくなるのは困る。それだけの為に御堂筋は小野田に引かれた手を握り返して足を速めた。
 それだけの為に生きる御堂筋だから、東堂は選んだのだろうかと骨ばった手を握って思った。

 逃げ出した小野田と御堂筋を呆然と見送った東堂は、すぐに火がついたように泣き出した。子供同然の我儘だったが、窓を叩き付ける雨と風が異常さを物語っていた。
「あれがいい、あれじゃないとだめだ、あれがほしい」
 泣きじゃくる声を宥めようと福富が伸ばした手を、巻島が叩き落した。
「どうするつもりだ。まさか御堂筋をこれに引き渡すつもりじゃないだろうな」
 子供を泣き止ませる手段とは違う。一人の人間を犠牲にするかどうかを決める権利などないのだと巻島は何も言わない三人を睨みつけた。後輩の意思を尊重したい気持ちもあったが、それ以上に腹が立っていた。
 東堂が消えることは巻島もつらく、出来ることなら最後の瞬間まで東堂らしくあってほしい。何も持たず、記憶すら失って消えていく親友、彼らにとっては三年間共に過ごした仲間が望むただひとつを与えてやりたいのは十分に理解できた。
「お前らのそれは東堂の為じゃないッショ」
 許せないのは、東堂を裏切った自分たちへの罪悪感が原動力になっていることだ。
「わかっている」
 叩き落された手を握り、両の手を拳にした福富が強く目を閉じた。子供の泣き声が響く中で、重たい懺悔の声が吐き出された。
「許されたいから、望むものを与えようとしてるだけだ」
 




「う、わっ!」
 急な斜面に、二人そろって転げ落ちた。衝撃に目をつぶり、目を開いてから大した怪我がないことと届く範囲にメガネがある事に安堵する。視界を確保し周囲を見回すと先程まで走っていた獣道ではなく舗装された道路の真ん中に居た。車通りはなかったが慌てて隅に這って立ち上がる。
「み、どうすじくん…?」
 見通しの良い道路のどこにも、先程まで手を繋いでいた相手は見当たらなかった。


 転び、眼を閉じて衝撃に耐えた御堂筋が目を開いた時には小野田は消えていた。走ってきた獣道を振り返っても小柄な彼の姿は見えずどこかに転がっているのだろうかと周囲を探しても気配すらなかった。
「…サカミチ?」
 小野田の言葉を、御堂筋はまだ全て信じていなかった。ただ自身に起こっていた不可思議な不運の連続だけが信憑性を持っていて、不安に彼の手を振り払わなかっただけだ。
 深い山道に、戻れなくなると言う小野田の言葉が蘇る。ともかく山を下らなければと足場の悪い道を進みかけた背後から、舌足らずな声がした。
「みどうすじ」
 ついさっきまで一緒にいた子供と同じ声だと言うのに、背中を這う嫌な寒気に振り返る事が出来ない。
「みどうすじ」
 嬉しそうな声だった。東堂は一度も、御堂筋を前にしてその名をそんな声で呼んだことはない。背後にいる子供は本当に東堂尽八なのだろうか。
「…子供はおうちに帰り。暗なるで」
 既に真っ暗で、数歩先も見えない闇だったが御堂筋はそう告げるのが精いっぱいだった。
「子供じゃない」
 子供の声が、僅かに近づいた。逃げなければと頭の中で警報が鳴るがぬかるんだ土が足を捉えて離さない。
「子供やろ。どう見ても」
 足音が迫り、すぐ背後に居るのが解るが振り向く事も逃げることもできなかった。金縛りのようだ、とどこか他人事のように感じていた。

「御堂筋」
 嬉しそうな声は、もう子供のそれではなかった。


 もつれそうになる足で走り、東堂庵に着くころには雨は止んでいた。止んだ雨に、もしかするとここに戻ってきたのではないかという淡い期待を抱いていたが玄関口に立つ四人の姿に期待は打ち砕かれた。
「東堂、さんは」
「御堂筋はどうした」
 巻島の問いと、小野田の声が重なり場の空気が重くなった。小野田と御堂筋が逃げたあと、しばらく泣き叫んでいた東堂が突然ぴたりと泣き止んで消えたのだと巻島が言った。
 本当に煙のように、今までそこに何も居なかったかのように消えたのだと焦った声で言う巻島に小野田も嫌な汗が背を伝うのを感じた。
 福富たちも口をつぐみ、誰が言うでもなく周囲を散策しようと各々歩き出そうとした。
「…東堂」
 巻島の声に、別々の方向を見ていた全員が振り返る。東堂庵の先、道路を挟んで向かいにある山へと続く林に東堂が立っていた。子供ではなく、十八歳の東堂尽八が。綺麗な顔で微笑むその隣に、ちいさな少年が手を引かれて立って居た。探していた長身とは違う、東堂よりもずっとちいさな、細い子供だ。
「みどう、すじ、くん…?」
 小野田の声に丸く大きな瞳がくるりと動く。真っ黒な目は間違いなく手を放してしまった彼と同じ色だった。
「東堂!」
 巻島の声に、小野田も我に返って走り出した。次いで荒北が走りだし、福富と新開も続いた。走る事を得意としない小野田と巻島をあっという間に荒北が抜き、二人の目の前まで着いた時には遅かった。伸ばした手は空を切り、荒北がたどり着く前に子供を抱き上げた東堂は美しい笑みのままかき消えた。

 御堂筋翔という人間のどこに、東堂尽八が惹かれたのか残された人間には推測しかできない。
 小野田坂道は御堂筋翔が世間に言われるような醜い人間ではないと信じていた。御堂筋翔は自転車が好きで、自分と同じようにそれを生きがいとする健康な選手だと。見初められた理由を上げるならば自転車に真摯に向き合う姿勢だろうかと小野田は思う。
 巻島裕介は東堂尽八の気持ちを深く理解できなかった。他人とうまく付き合うことができる彼は自分とは逆だったからだ。しかし箱根で過ごす間、彼の大部分が演じていた仮の姿だと知って、選んだ相手に妙に納得した。自分を偽らずに東堂がその顔を見せられる相手は、恐らく勝利に執着し全てを捨てる彼しかいなかったのだとそう思えた。
 荒北靖友は東堂尽八が苦手だった。やかましく、うざったく、そのくせ目ざとくなにかと気を使える最も苦手な人間だった。うざがられながらも誰からも本気で嫌われない彼は、自分から本気で何かを欲しがったことはないように思えた。嘘くさい無欲さは東堂尽八が本当に欲した相手を見てさっぱりと消えた。香りで本性を暴ける荒北にとって御堂筋翔は卑怯な選手ではなく努力を重ねた純粋な勝利の探求者だったからだ。東堂がそれを見極めていたのは意外ではあったが、あとになって考えればほしいと騒ぎ立てたのはかなり神に近付いてからだった。そこまでいかなければ見えなかったものを先に見えていたことに、僅かで無意味な優越感を覚えた。
 新開隼人は御堂筋翔を欲していた。というより左側を抜くことができるようにしてくれた、けれど勝利を奪われた相手の形にぽっかりと空いた穴に彼を納めることを夢見ていた。愚かな願いは、仲間の願望で永遠に消えた。新開が御堂筋を欲するのとは違う方向で、東堂もまた御堂筋の形に開いた穴があったのだろう。御堂筋翔は鋭い刃物だと新開は思う。鋭く薄い、力の加え方を間違えれば簡単に折れてしまう刃物。細く鋭い切っ先は誰彼かまわず傷をつけ、胸に風穴を開けて通り過ぎていく。東堂には捕まえる力があった。それだけなのだと新開は思った。
 福富寿一は御堂時翔が恐ろしかった。選手としての実力がではない。勝利に対する純粋な狂気が恐ろしかった。期待され、仲間と協力をしながらも最後には誰にも頼らず走っていると信じていた自身が薄っぺらい偽物に感じる程に御堂筋翔は純粋に狂っていた。何もかもを捨てて削るなど口にするのは容易でも実現する人間などいないと心のどこかで信じていた。最後のインターハイ、二日目のゴール前で金城真護と競り合い清算した気になっていた過去は、負けた筈の御堂筋翔の走りに引きずり出されて腹の奥で渦を巻いた。自分にはもう二度と、彼のような純粋な走りはできないと突き付けられた気がした。東堂が消えることを知った時よりも、御堂筋が選ばれたと解った瞬間僅かでも喜びを感じた自分に愕然とした。




 その場にいる誰もが、何故ここにいるのか解らなかった。
「ヒルクライムのレースに出て、その帰りで…」
 何故ここに居るのか荒北に問われた小野田の答えが不自然に止まる。
「え、なんで泣いてんの」
 ぼろぼろと涙が頬を伝いどれだけ拭っても溢れてくる。
「なんで、でしょう。わからないけど」
 泣き続ける小野田に、何故と聞いたのは荒北の一言だけだった。泣いていることが自然だと、ここにいる理由もわからず皆が思っていた。
 滲む視界で見上げた空は雲一つなく、春の美しい紫の夕焼けだった。


[*前へ][次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!