[携帯モード] [URL送信]

pdr
言の葉(兄安)


 寒咲通司の恋人は仕事の愚痴を言わない。言ってほしいわけではないが、好きで今の仕事を選んだ寒咲でさえ愚痴を言うのに対し、家庭の事情でやむなく高校卒業後すぐ就職した彼は仕事を悪く言ったことがない。業務内容を聞いたこともある。接客とまではいかずとも取引先に腹の立つ言葉を投げられたりもするのは容易に想像できた。にも関わらず安という男は仕事の愚痴はこれっぽっちも言わないのだ。
 一度、彼の後輩と話す機会があったのでそれとなく尋ねてみたがどうやら後輩にも仕事の愚痴は言っていないようだった。
 愚痴を聞いて楽しい人間は居ない。恋人が愚痴を言わない人種ならばそれでいい筈なのに、寒咲は妙に納得のいかない気持ちになっていた。もっと言えば腹が立っていた。

「お前さぁ、仕事の愚痴とかねぇの?」
 月に二回、週末に訪れる恋人の部屋にソファを持ち込んだのは先月だ。転がって尋ねる寒咲に、睫毛の長い恋人はぱちりとまばたきしてから返事をした。
「愚痴…て言われても」
 その土地のイントネーションで紡がれる声は耳に心地いい。戸惑っている声音に苦笑して起き上がり座り直す。
「全然言わねぇじゃん」
「愚痴ってほしいんですか」
 突拍子もない寒咲の言葉に慣れたのか洗い物を終えた安は手を拭ってからソファに座った。
「別に。でも弱味を見せるみたいでいいじゃん」
 恋人なんだから、と付け足すと今度は安が苦笑いをする。
「寒咲さん時々子供みたいなこと言いはりますね」
 困ったような笑みに、寒咲もつられる。後輩の前での笑みとは違う寒咲の前でだけ見れる顔だ。
「そういうとこ好きですよ」
 付き合い始めて2年になるが、並んでソファに座る時の微妙な距離は変わらない。相手の事をよく考え、望む言葉をくれる恋人は決して自分にとって不満になることは口にしないのだと確認しなくとも寒咲は知っていた。
 安が愚痴を漏らさない人間であるから交際を始めたのだと、今になって気が付いた。

「せや、先日大阪であったヒルクライムの大会でノブが上位に入ったんですよ」
 突然思いついたように言う安に、寒咲の笑みが消えた。自分でも見るからに不機嫌な顔をしていると自覚できる程表情の筋肉が強張るが上機嫌に話す安は気付いていない。
「明久もかなりいいとこまでいったんですけどね。受験で練習量減ったせいやろか。途中で遅れて」
「あのさ」
 テーブルに置かれたコップを掴み、ビールを煽る。半分以上残っていた液体を一気に流し込む姿に安が目を見開いた。わざと音を立ててコップを置き、きょとんとした安に向き直る。言葉を失った顔に指を突き付け、先程より幾分低くなった声で言った。
「オレ、お前のそういうとこ嫌いだわ」
 呆気にとられる安を尻目に、立ち上がって冷蔵庫から新しいビールを取り出す。ちょっと何なんですかと怒ったような声が聞こえたが振り返らずに開いた缶に直接口をつけてビールを流し込んだ。
 まだ仕事の愚痴を言われた方がいいと思ってしまった。毎週毎週、可愛い後輩の話をしているときが一番穏やかに笑う。その事実に気付いてしまえば愚痴を言わない彼の何に腹を立てていたのか解り、同時にちっぽけな自分にも腹が立つ。

 三本目のビールを取り出して飲む前に、何なんですかと繰り返す声が怒りではなく焦りと涙で震えている事に気付いて寒咲はようやく振り返った。

[*前へ][次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!