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黄色い恐怖(新御)
「ただいま」
帰宅の挨拶を告げる新開に返事はない。部屋の奥で自転車を整備する音だけが聞こえ、いつもと何も変わらないと安堵した。
玄関を入り、黄色いテープでラインを作った廊下を進み、突き当りの居間ではなく手前の一室を覗けば薄い背中が見える。薄いけれど、広い、歪な身体。御堂筋がそこにいると実感する瞬間で、新開はなにより帰宅して彼の背中を見ることが幸せだった。
「ただいま。御堂筋くん」
返事はない。時計を見ればそろそろ整備の終わる時間だったので上着も脱がずに隣にしゃがみ込んだ。御堂筋は整備のために自転車に触れる時には普段と違う手袋をつける。手袋だけではなく、その時にしか見れない御堂筋の顔を見ることもできる。勝利に執着する熱のこもった目ではないが、周囲の音が聞こえなくなるほど集中している顔だ。
「終わったね。オレこれから風呂だけど一緒に入る?」
手袋をとってタオルを持ち上げた手に触れるとようやく新開の存在に気付いた目が自転車を見つめていた時の光を無くした。今まで自分がしていた行為がいかに無意味であるかを思知らされたのだと解る。昨日よりも絶望の色が濃い顔に、新開は困った顔で笑った。
「怖いことなんか何もないって言ってるだろ。何でそんな顔するの」
綺麗な歯が並んだ口は一度僅かに開いただけですぐに閉じられた。ここ何日も彼の声を聴いていないと思い立って、そろそろ聞かせてほしいなと内心で呟く。
力なくうなだれる体を支えて立ち上がらせた。出かける前にタイマーで入れたので丁度風呂が沸いている。寒空の下を歩いてきた新開よりも御堂筋の身体はずっと冷えていた。暖房つければいいのにと耳元で言うが相槌さえなかった。
風呂から上がり、はりのない髪を丁寧に拭ってやる。暖房で温まった部屋のソファに座る御堂筋の可動範囲は少ない。ソファの、一人分のスペースだけだ。トイレに立つことも極稀だ。膝を抱えて座るのでそれほど広くない居間でも彼は小さく見えた。
「夕飯、昨日の残りでいいかな。」
冷蔵庫から昨晩作ったシチューを取り出してレンジに入れる。炊飯器に朝炊いた米が残っているので温め直してから御堂筋の好きなふりかけを入れて混ぜた。
出された食事を無言で見つめている御堂筋に視線を向ける。目が合うと御堂筋は素直にスプーンを掴んだ。シチューを掬う手が不自然に跳ねて机を汚すが新開はただ微笑んで愛しい食事姿に見入る。米やシチューが机に落ちるたび、怯えた瞳が新開を窺う。大丈夫だよ、と言ってやればほっとした顔でまた食事を続けた。
ふたりで食事を終え、ソファに並んで映画を見る。何度目になるか解らないヒッチコックの映画だ。新開はこの映画が好きだった。古く、撮影手法も今に比べれば拙いが補って余りある程の構成と脚本が素晴らしい。恐怖を煽る演出は何度見ても飽きない。
隅に座っている御堂筋に寄り添い、薄い肩に頭を乗せる。
映画のクライマックスで、御堂筋が怯えたように爪を噛んだ。何度目になるか解らないそれを優しく制して食事の時と同じように「大丈夫だよ」と言った。
なにもこわいことはないよ。オレが守るから。
優しく微笑んで覗き込んだが、近距離で目を合わせたからか爪を噛んだ事を叱られると思ったらしい御堂筋が肩を竦め身を強張らせる。
「怒ってないよ。だって御堂筋くんは何も悪い事してないだろ」
必死に頷く御堂筋の髪を撫でて新開もゆっくり頷いた。悪い事、たとえば廊下に貼ってある黄色いテープのラインを越えること。
安っぽいビニールテープで作られたラインを越えさえしなければ新開は御堂筋の嫌がる事は何もしない。かつて何度も貼り直されたテープが今ではすっかり色あせて風化し剥がれかかっている。貼り直さなくてよくなったのは御堂筋が越えることを諦めたからだ。
何度も撫でているうちに強張った身体が徐々に弛緩する。風呂で温まった身体に触れた部分が心地いい。髪から肩に手を回し、抱き寄せると再び体が強張った。
「久しぶりに聞きたいなぁ。御堂筋くんの、声」
うっとりと囁くと、強張った身体が震えだす。必死に何か喋ろうとする唇からはガチガチという歯の音だけが漏れた。
エンドロールが流れる中、ソファから逃げ出した御堂筋のあとを新開は焦ることなく追いかける。玄関に向かうもつれそうな足は風化したテープの前で止まる。そこを越えれば何があるのか確り覚えているからだ。
居間を出て、廊下に蹲る背中を見つける。逃げようとした御堂筋はしかし、黄色いテープの前で自身の身体を抱えるようにして動けなくなっている。いい子だねと動転している耳にも聞こえるようにゆっくり噛みしめるように言った。ただいまの挨拶と同じ声で。
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