[携帯モード] [URL送信]
8



結局のところ前島さんからの電話は流れを断ち切るどころか理仁さんにとっての追い風となってしまった。

でもそれは理仁さんにとって、だけではない。
新たな仕事を得たことに対する喜びを抜きに考えても、理仁さんと恋人の設定で共演出来ることは俺にとってもプラスの面はある。

だってそうしたら、演技の練習と言う名目でグレーなことをされるかも知れなかった状況を回避出来ることになるだろう。

言い訳とか名目とか、そんなことを一々気にする必要がなくなるんだよ。
俺達は本当に”そう言う演技”をしなければいけないんだから。

なんて、それこそ言い訳になってしまうんだろうか。

でもまだ俺達は”キスをする”と言うことくらいしか知らないから、その撮影でどこまでの演技が必要になってくるのかも分からない。
とりあえず今は、よく知らない俳優さんと恋人役を演じるよりは断然理仁さんが相手で良かったなと思っておこう。

いや、撮影に関してはそんな呑気に構えている場合ではないか。
受けるからには必死に頑張らないと、俺自身はまだしも理仁さんのキャリアに泥を塗る訳にはいかない。


「理仁さんの足を引っ張らないように、一生懸命頑張ります…!」


ぐっと拳を握りながら意気込むと、ふっと表情を和らげた理仁さんの手が俺の頭に乗せられた。
「そんなの気にしなくていいんだよ」と言って優しく頭を撫でられ、固く結んだ気持ちが解かれてしまう。


「葉太くんは葉太くんの演技をすればいいだけなんだから」

「…でも、俺はまだ…」

「大丈夫。自信は俺が出させてあげる」

「っ……理仁さんが…?」

「うん。お互いに納得がいく演技が出来るまで、一緒に練習しよう?」


一緒に練習…

それは俺がさっき言っていた内容も含まれているんだろうか…と訊けずにいる俺に、理仁さんが「変なことは考えてないよ?」と言って悪戯っぽい表情を見せる。


「”恋人”って言う設定の演技をするのは事実でしょ?その練習をするんだから、変なことではないよね?」

「ッ、そうですけどっ…でもまだ、どんな内容か…」

「まあそうだね。二人の間のすれ違いがどんな理由かにもよるけど、キスで仲直りするって言ってたからね。なかなか燃える内容だよね」

「えっ…」

「あれ、燃えない?」

「えっ…と…」


そんな、まるで燃えるのが当然みたいな顔をされても…

とか思ってしまったんだけど、どうやらそこに関しては恋愛経験の少ない俺が分かっていない感情だっただけのようだ。


「そっか。その感情が分からないなら、やっぱりちゃんとした練習が必要になるだろうね」


その台詞と共に指先で俺の顎を掬い上げた理仁さんが、薄らと笑みを浮かべた顔をゆっくりと近付けてくる。
またキスをされてしまうと思って焦った声で呼び掛けながら抵抗すると、もう少しで触れてしまいそうな距離で止まった彼の唇が「しないよ」と言葉を紡ぎ、それから目の前にある表情がふわりと綻ぶ。


「撮影本番まで実際にはしないから安心して」

「っ……練習は、フリってことですか…?」

「そう。その方が気持ちが高まりそうだから」

「……気持ちが…高まる……」

「今は分からなくても本番になれば分かるよ。なんて、俺も自信はそこまでないけど。でも、それまでの期間で葉太くんの気持ちを高められるように頑張るからね」

「……」


正直に言うと、この時の俺は理仁さんが言っていることをちゃんと理解し切れてはいなかった。
とりあえず「はい…」と返事はしたけど、俺が話を理解出来ていないことは理仁さんも分かっているだろう。
それでも彼は笑顔を見せるだけでそれ以上のことを説明しようとはしなかった。

俺も俺で、今はまだ仕事を受ける返事をしたばかりだし…とかまだそんな呑気なことを考えていたから、理仁さんに何か思惑があったとしてもあまり気にしなくても良いだろうと思っていたんだ。


そうは言ってもこの時の俺は八割くらいが仕事モードになっていたから、この話が進められていっていざ情報が解禁される…って時になるまで、俺の恋人達が一体どんな反応をするかとかも全然考えられていなかった。

勿論それは理仁さんの思惑に関しても同じだ。
そっちは実際に撮影間近になるまで理解出来ないままだった。

理仁さんが何を考えていて、そして彼の思惑に嵌まった俺がどうなってしまうのか。

それはまた後日改めて、語るべき時が来たらにさせて貰いたい。


「今日はそろそろ帰ろっか。家まで送って行ってあげたいんだけど、それって逆に迷惑だったりする?」

「え…?何でですか?逆なら分かりますけど…」

「そんな形で住所を知られるのは嫌かなーと思って」

「っ…あー、いや…それは別に…」


知られて困るようなことではない、と思う。
そんなことは全く考えていなかったんだけど、わざわざそんなことまで確認を取ってくれている辺り、理仁さんが俺相手に相当気を遣ってくれているんだと言うことは分かった。

苦笑を浮かべながら「理仁さん、優し過ぎですよ」と言うと、当の本人は僅かに首を傾けながら「どこが…?」と俺の発言に対して疑問を抱いているようだ。


「何て言うんですかね。送っていただくのは申し訳ないので、それは遠慮させて貰うにしても、」

「え。いや、」

「そんな風に言って貰って、それを迷惑に思う人なんていませんよ」


だからその発言は優し過ぎるって言うか、気を遣い過ぎだとやんわり伝えた俺に、今度は理仁さんの方が苦笑を浮かべながら「葉太くん、純粋過ぎるよ」と同じような台詞を返してきた。


「送り狼って言葉は知らない?」

「え?…知って、ます…」

「意味は分かってる?」

「え……はい」

「そっか。俺のことを信用してくれてるのは嬉しいし、俺だって送るだけで何もするつもりはないんだけどね?でも、俺以外にも同じように言われて、その時も有難く送られるんだと思ったら流石に心配だよ」


送り狼なんてそこら中にいると言うことと、送られる側にはそうやって住所を知られることに対して迷惑だと思う人も沢山いるんだと教えられ、色んな意味で衝撃を受けた俺はそのまま何も言えなくなってしまった。

単純に「そうなのか…」と思って少しショックを受けてしまったのもある。
あとは、俺は男だから、と油断していたことに再度気付かされて自分の不甲斐なさを痛感したのも。

でも一つだけ言えるのは、理仁さんと他の人達が俺にとって同じではないと言うことだ。


「他の人…って言っても思い付きませんけど、その場合はちゃんと断ると思います。と言うかそもそも今も送って貰うつもりでいませんから。一人で帰りますよ」

「うん、そう言う問題……にしとこうか。でもその代わり、本当にちゃんと断ってね?優しくされたからって簡単に付いて行ったら駄目だよ?」


理仁さんがとにかく心配してくれているんだと言うことはその表情と態度からしっかりと伝わってきた。
だからその後に「今のは俺が一番言っちゃいけない台詞だね」と言って眉を垂らした彼に「理仁さんのことは信用してますから」と伝えさせて貰った。

それも理仁さんにとっては複雑な言葉になってしまったようだけど、告白をされた上にキスまでも許してしまった相手に信用していると言ってる訳だから。
今の俺にとっての理仁さんがどう言う存在なのかは、少し考えて貰えば分かるんじゃないかなと思う。

説明はしないけどね。


その後は結局タクシーで家まで送って貰った。
飲食代も含めて全代金を理仁さんに支払って貰ったから非常に申し訳ない気持ちになっていたんだけど、そのお礼は良い演技で返して欲しいと言われてしまい、改めて理仁さんに対して尊敬の念を抱くことになった。

それと同時に、やっぱり俺にとって理仁さんは尊敬する先輩だと言う気持ちが強いなと実感したんだけど、今後その気持ちがどうやって変化していくのかは俺自身にもまだよく分からない。

とりあえずでも今日のことは恋人達には黙っておこう…と考えている俺は、いつの日か武内さんに言われた通り狡猾な男なのかも知れないと思って、一人ベッドの上でそっと溜息を吐いた。



[*前へ]

8/8ページ

[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!