8 決して存在を忘れていた訳ではない。 二人の世界に入ろうとしていたつもりもないけど、今は病人である葵くんを最優先すべき時だったと本人から気付かされてしまって自責の念に駆られた。 「俺がやるので、葵くんの側にいてあげてください…っ」 慌てて先生の身体を押し返して、そのままリビングの方へ背中を押していく。 先生も何か言いたそうにしていたけど、葵くんが「別にいちゃいちゃしてもらってていいけど」とか言うから逆に大人しくリビングにとどまってくれたようだった。 先生がその言葉に甘えて「じゃあ…」とか言い出すような人じゃなくて良かったと思う。 「体調はもう良くなったのか?なんて、真っ先に訊くべきことだったのに、悪かったな」 「ううん。薬飲んで寝てからはマシになったよ。ちょっと前に葉太さんと一緒にプリンも食べた」 「そうか。食欲もちゃんとあるんだな」 「うん。本当はね、葉太さんが俺の為におかゆとか買ってきてくれてるんだけど、俺が葉太さんの作ったご飯が食べたいって我がまま言ったんだ。あ、でも買ってもらった分はちゃんと俺が食べるから」 「…そうだな。まあ、今日は良いんじゃないか。好きに甘えさせて貰えば」 「葉太さんもそう言ってくれた。葉太さんずっと俺の為に頑張ってくれてて、葉太さんがいてくれて本当によかったって、俺も本気で思ってる」 手を動かしながら親子の会話に耳を傾けていたら、葵くんのその発言を機に少しの間沈黙が続いた。 どうしたのかなと思って視線を向けたら、表情はよく見えないけど先生が重たい口調で「こう言う時に何も出来ない父親で、申し訳ない」と恐らく彼の本心を吐露したから、途端に胸が苦しくなる。 「あ、ごめん、そう言いたかったわけじゃなくて…」 「良いんだ。今回のことで、葵の父親としてもっとしっかりしなければいけないと気付くことが出来た」 「…でも、仕事だったんだし……うちは仕方ないことじゃ――」 「もしも葵の身に何かあったら、それでも”仕方ない”なんて言葉で済ませられると思うか?そんな訳がないんだよ」 その声に鋭さはなかったけど、強い意思は含まれているように感じた。 そして今の言葉は多分、葵くんに向けたものと言うよりは先生が自分自身に言い聞かせたものなんだと思う。 「この先、また何かの形で助けが必要になった時に、毎回葉太くんに頼る訳にもいかないことは父さんもよく分かっているんだ」 「…うん」 「分かってはいるけれど…」 そこで言葉を切った先生がキッチンにいる俺を呼んだ。 直ぐにお湯を沸かす為に着けていた火を消して、バタバタと二人の元へ駆け寄る。 葵くんがすっかり困惑した顔をしていたから俺も複雑な気持ちになってしまったけど、この後の先生の言葉を聞いて俺と葵くんは揃って目を瞠ることになる。 「無理も承知な上で頼みたい。これから先、可能な限りで構わない。仕事や私生活よりも優先しろだなんて図々しいことを言うつもりはない。責任なんてものも感じて貰わなくて良いから、…」 それでも君に頼りたいと言う私の気持ちを、受け入れて貰えないだろうか。 俺の目を見て真っ直ぐ真剣に伝えられた彼の気持ちが、俺の感情を酷く昂らせた。 「…勿論、です」 微笑みながら答えると、先生の表情に安堵が浮かぶ。 幾ら先生がしっかりしていたとしても、病院を経営しながらの生活で一人で葵くんの面倒を見切ると言うのは難しいことだと思う。 不可能ではないから今までもやってこれていたんだろうけど、また今回みたいなことが起きた時に頼れる相手がいると先生の負担はかなり軽減されるだろう。 きっと先生は、葵くんの為にそんな風に頼れる相手を俺以外にも作っておくべきだと考えたんだろうけど。 その方が良いと分かっていても、先生はその相手は俺が良いと言ってくれた。 俺を頼りたいんだと、言ってくれた。 先生のその気持ちに応えたいと思った俺は、自分のその気持ちに対してはきちんと責任を持つべきだと思う。 これは中途半端な意識と覚悟で引き受けて良い話ではない。 葵くんと言う、まだ中学生の小さな命に関わる話でもあるから。 「俺も仕事でどうしても無理な時とかはちゃんと無理だって言わせて貰うので、基本的にはどんなことでも一度俺に相談してみて欲しいです。葵くんを優先することは俺にとっては何の負担でもありませんから」 「…ありがとう。ああ、どうしても月並みの表現しか出来ない。本当に、心の底から感謝しているんだが…」 その感謝の気持ちを表現することが出来ないから、そんなにも困った顔をしていると言うのか。この人は。 それはもう、十分伝わっているのに。 「伝わってますから大丈夫です。そんなに感謝されたら俺も調子に乗っちゃいますよ」 「それで構わない」 「…ふふ。じゃあ、今日泊まらせて貰っても良いですか?」 それが俺に対するお礼と言うことにして欲しいとお願いすると、遠慮がちに「それだと私達が喜ぶだけなんだが…」と言われてしまったので「俺も喜びますよ?」と笑顔で答える。 そしたら何故か先生は項垂れてしまい、葵くんは「毎日泊まっていってよ!」と言ってその表情を輝かせていた。 「…それだと一緒に住むのと同じになるじゃないか」 「うん、だからそうしよって話。父さんももっと言ったらいいじゃん。葉太さんと一緒に住みたいと思ってるんじゃないの?」 「…思うのと実際の問題はまた別だろう」 「でも思ってることは言わないと伝わらないじゃん。父さんはもっと葉太さんに思ってることを伝えた方がいいよ」 「「………」」 い、今のは先生も応えたんじゃないだろうか… 正論と言えば正論かも知れないけども。 それを中学生の息子に言われたとなると響き方がまた違うと言うか。 言いたくても言えないことがある、と言うのは葵くんもその年齢にしては理解している方だと思うけど、恋愛におけるそれはまた別の話なのかも知れない。 「えっと、葵くん。お父さんだって、大切な時にはちゃんと言葉にしてくれる人だよ?」 苦笑しながらフォローを入れると、先生に力ない声で「…君のそれはフォローになっていない」と言われてしまった。 「う…。でも、俺までもっと言葉にして欲しい、とか言っちゃったら…先生困るんじゃ…」 「…君がそう思っているなら、私の方がそれに応えるべきなんだろう…とは思う」 「えっ」 まさかの肯定的な反応を受けて目を丸くさせたら、先生が「…その話は後にしよう」と言って立ち上がった。 そのまま「君は葵の相手をしていてくれ」と言ってキッチンに行こうとするから、慌てて呼び止めて俺が先にキッチンに戻る。 「駄目です。葵くんのリクエストなんですから、今日は俺が作るんです。とか言って茹でるだけですけど」 「それでもいいじゃん。それでも俺は葉太さんが作ったうどんが食べたい。だから父さんはじっとしてて」 「………」 二人から止められて先生はまた何か言いたそうな顔をしていたけど、そのまま「分かった」と言って放置していた自分の荷物を片付け始めた。 でもやっぱり言いたくなったらしい。 鞄を自室に運ぶ為にリビングから出ようとした彼がドアのところで振り返って「兄弟みたいだな」と漏らし、そのまま部屋を出て行ってしまう。 兄弟ってことは、俺も先生の息子ってことになるじゃないか。 それはどうなんだ、と少し不満に思ってしまったから、それはしっかり後で伝えさせて貰うことにする。 [*前へ][次へ#] [戻る] |