3 保健室内に戻り、ベッドサイドにある椅子に座って上條さんを待っていたら彼が戻ってきたタイミングで今度は島先生が用事で席を外すことになった。 「タクシーを呼びたいんですけど、電話って外でした方が良いですよね?」 「…基本的にはそうですが、貴方の場合はやむを得ないかと。こちらでしていただいて構いませんよ」 「っ…すみません。ありがとうございます」 今のは、もし誰かに見られて俺の存在に気付かれるようなことがあったら良くないから、と言う彼の配慮だと受け取った。 少し嬉しくなって微笑みながらお礼を言うと、カーテンが閉まっているベッドの方を一瞥した上條さんがすっと身を寄せてくる。 「今直ぐ僕にトイレの場所を訊いて」 「っ――」 耳元で囁かれた言葉にえっと出掛かった驚きの声は彼の掌に閉じ込められてしまった。 もう一度小声で「早く」と催促され、頭を働かせる余裕もなく言われた通りを口にすると、今度は普通の声量で「お電話なさった後に僕がご案内いたしますよ」と返される。 そこで彼の思惑を悟った俺は、ちらっとベッドの方へ視線を投げてから上條さんに困惑の眼差しを向けた。 次に「どうぞ」と促されたのは電話のことで。 今俺達の間で良からぬやり取りがあったことを葵くんに悟られないようにと平常心を保ちながら、タクシー会社へ電話をし学校までの迎車を依頼した。 通話を終えるとすかさず「では」と言われたから、葵くんに対して罪悪感を抱きながら「ごめん、タクシー来る前にトイレに行ってくるね」と声を掛けてから保健室を出る。 そこからトイレまでは直ぐだったけど、そこでの滞在時間も長くは出来ないことは分かり切っている。 「どう言うおつもりですか」 俺と共にトイレの中へと歩みを進めた上條さんに単刀直入に訊ねると、振り返った彼が強い力で俺の身体を抱き締めてきた。 突然のことにはっと息を呑んだ後。 今の状況を考えて「ちょっと…!」と焦った声を上げた俺に彼が「少しだけ充電させて」と甘えるような声で囁く。 「っ……」 「ごめん。頭では分かってる。今回は仕方ないってずっと自分に言い聞かせてるけど、でも、どうしても、笹野さんが羨ましいと思ってしまう」 「ッ……上條さん…」 気持ちはとても複雑だった。 でも、そんなことを聞かされて、それでも駄目だと言える程俺は出来た人間でもなければ、上條さんに対して薄情な人間でもない。 それはただの都合の良い言い訳にしか、ならないかも知れないけれど。 彼の背中にそっと腕を回すともう一度「教師失格でごめん」と謝られた。 その謝罪は俺に向けられてもどうしようもないものだと思う。 「上條さんは、俺にとっては先生ではないですから…」 「…ごめん。ありがとう」 「…どっちかにしてください」 「ごめん」 「…やっぱり、ありがとうの方が良いです」 「………」 それに対する返答はなかった。 代わりにぎゅうっと痛いくらいに抱き締められ、口からふっと息が漏れる。 「あの…夜、家に帰ったら…上條さんの部屋に行きましょうか…?」 「そんな器用なことが出来る子じゃないって知ってる」 「う……そう、ですけど…」 「いいよ。今日は我慢するから」 ありがとう、とここではお礼を言われたから、今度は俺が返事の代わりにそっと身体を離して彼の唇にキスをした。 驚きで目を瞠った彼に「もう戻りますよ」と笑い掛けると、彼もそっと息を吐き出してから「そうだね」と答えて優しい笑顔を見せる。 それが今日彼の口から聞いた最後の砕けた言葉だった。 「起きれる?ごめんね、しんどいのに。少しだけ頑張ってね」 「ううん、これくらい…」 「無理しちゃ駄目だよ。校門まではおんぶして連れて行ってあげるから」 「え…」 「おんぶ…」と呟いて表情を強張らせた葵くんに「抱っこがいい?」と訊ねると力なく首を振って断られた。 恥ずかしがる気持ちは分かるけど、身体に上手く力が入っていないことは分かっているから俺もこの子を自力で歩かせたくない。 「ごめんね。嫌かも知れないけど少しだけ我慢――」 「嫌とかじゃ、……ないよ…」 そう言う訳じゃないと懸命に否定する姿にまた愛おしさを感じた。 熱がなかったら遠慮なく抱き締めてたところだったなあ…と思いながらそっと微笑み掛ける。 「じゃあちょっと急ごう。授業が終わったら他の子達が出てきちゃう」 「…うん。そうだね」 やっぱり葵くんも他の子達には見られたくないみたいだ。 ベッド脇にしゃがむと高い体温が肩と背中にそっと触れて、それから控え目に預けられた体重を受け取りながらゆっくりと立ち上がる。 「校門までお送りします」 「え、いや、いいですよ。上條さんもお仕事中じゃないんですか?」 「これも職務の内です。今日はもう授業はありませんから」 「…そうですか」 葵くんが心配なだけ…ではなさそうだな。 まあ、葵くんの前で下手な発言さえしなければこっちは問題ないけれど。 結局、荷物を上條さんに持って貰い、俺は葵くんを背負った状態で三人で校門まで向かうことになった。 丁度校門に着いたところで校舎の方から授業の終了を告げるチャイムが聞こえ、タクシーが到着したのもその1分後くらいだったと思う。 「お気を付けて」 「ありがとうございます。お世話になりました」 「葵くんも、お大事に」 「…はい…ありがとうございます」 荷物を受け取り、先に葵くんをタクシーに乗せてから上條さんに表情だけで気持ちを伝えた。 こんな形だったけど顔を見ることが出来て嬉しかったこと。 途中でちょっとあったけど、それでも俺の前で教師としての顔を保っていてくれたことに対する感謝と尊敬。 それから、また時間がある時にゆっくり会いたいと言う気持ち。 それが全て正しく伝わったとは当然思わない。 でも、別れ際に上條さんが見せてくれた表情は間違いなく”教師の顔”ではなかった。 だから、それで良かったんだと思う。 「××駅の近くのささのクリニックまでお願いします」 「ささのクリニックは皮膚科でしたかね?」 「あ、そうです」 「かしこまりした」 タクシーが発車してから直ぐに「寝てていいよ」と声を掛けて、俺の肩に凭れ掛かるように葵くんの身体を抱き寄せた。 そうやって、笹野家に着くまでの間は葵くんも何も言わずに大人しくしてくれていたんだけど、自宅に着くと気が抜けたようだ。 玄関で崩れ落ちるように座り込んでしまった葵くんに「大丈夫っ!?」と飛び付くと、赤い顔をした彼が「葉太さん…ベッドまで、いい…?」と確認を取ってきた。 学校では頑張って気丈に振舞っていただけで本当はかなりしんどかったんだと思う。 今のでそれが十分に伝わってきて、俺が今ここにいられることに自分でも感謝をしながら目の前の身体をしっかりと抱き上げる。 一先ず二階にある葵くんの部屋のベッドに彼を運んで寝かせてから、薬のある場所を訊いて一階へと戻る。 そのついでにキッチンに入らせて貰い、何か簡単に食べられそうな物がないか探してみたら冷蔵庫の中にゼリーがあったから今はとりあえずそれを食べて貰うことにした。 スプーンとゼリーと、薬とお水と。 両手に持った物を落とさないように慎重に移動し、直ぐに葵くんの元へと戻る。 「葵くん。お薬飲む前に何か食べた方が良いから、これ、ゼリーがあったんだけど食べられるかな?」 「…うん…少しなら…」 その返事を聞いて安心した。 食欲がないのは分かるけど、それも要らないと言われたらどうしようかと思った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |