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胸ポケットに刺してあるボールペンを取って「はい」と差し出してきた彼に「どうも」と言ってから署名欄に”柳沢”と記入する。
手が震えて字がよれよれになってしまったのは今日のところは是非とも見逃していただきたい。
ぺらっと剥がした紙の裏面を上にして差し出すと「剥がすのは俺の仕事ね」と言いながら受け取った紙の表面を確認した彼が、ふっと笑ってから俺の目の前にしゃがむ。
あ、これはいつもの森野さんだなと思いながらその表情に浮かぶ笑みに見惚れていたら、彼の掌がぽふんと俺の頭の上に乗せられた。
「詩音くん。二十歳のお誕生日おめでとう」
まるで何事もなかったかのように吐かれた台詞の意味を理解するのに二、三秒かかってしまった。
そう言えばそうだったと心の中で呟いた言葉は一回目のそれとは少しニュアンスが違っている。
「ありがとう、ございます。柳沢詩音、漸く二十歳を迎えることが出来ました」
「ふふ。うん。待ってたよ。ずっと」
「……お待たせしました?」
そう答えると彼の目が一瞬大きくなった。
それから何故か嬉しそうなオーラを放ちながら破顔した彼が、わしゃわしゃっと頭をかき混ぜてから慣れたように唇にちゅっとキスをしてくる。
ご機嫌な彼とは対照的に少し凹んだ声で「サードキスまで奪われてしまった…」と呟くと彼の笑顔が固まった。
少し遅れて「…え?」と驚いた反応をとられ、今度は俺の方が溜息を吐く。
「森野さんからの誕生日プレゼントはキスだと思っとけば良いですか?だとしたらあんまりですね。俺の純情を立て続けに三回も奪うなんて」
とんだ誕生日ですよ、と嫌味を吐いたら、またあの怖い顔をした森野さんに四回目まで強奪されてしまった。
いや、正確に言うともう何回目とかカウント出来ないレベルで唇を何度も押し当てられている。
なんなら吸われちゃったりもしているし、俺が呆然としている隙に口の中に舌を捩じ込まれちゃったりもして。
「ちょっ…ふぁっ」
まさかディープキスまでされるとは思わなかった。
流石にこれには身体が拒絶反応を起こしたようだ。
咄嗟に彼の身体を突っぱねようとして両手を肩に押し当てたら、あっさりと捕まってそのまま床に押し倒されてしまった。
いやいや、なんで俺実家の玄関で男に押し倒されてんのよ。
おまけに上半身裸だからこんな所誰かに見られたらマジで捕まると思うんだけど。
俺じゃなくて、森野さんが。
「森野さん犯罪。流石にこれは犯罪」
「そうならない為に今日まで我慢してたんだよ」
「えっ?今日って犯罪OKな日っ?」
「今日って言うか、今日”から”ね」
何それ誰が決めたのそんなルール。
この人警察官でもなければ政治家でもないよね?
いつもお世話になりまくってるただの宅配業者さんだよね?
「マジで暑さで頭ヤられちゃったんですか」
「そうかもって言ったよね」
「それは、確かに。あの、冷たいお茶とか出しますけど」
「この状況でそんなにも冷静でいられるのは詩音くんが馬鹿だからなの?」
「いや、全然冷静じゃないですこれでも。めちゃくちゃ心臓バクバクしてますこれでも」
「…どうして?」
どうしてって、それはアンタが一番分かってることじゃないのか。
「童貞にこの状況は流石に無理があると思いませんか」
「…詩音くん童貞?」
「はい」
「…そっか。良かった」
「あー。そう言う感じですか。いやいや、全然全然。喧嘩売られてると思ってないんで安心して貰って大丈夫です」
「うん。喧嘩なんて売ってないからね。嬉しいよ。二十歳まで純情を守っててくれてありがとう」
いや、別に森野さんの為に守っていた訳ではない。
そう否定したかったけど、彼があまりにも嬉しそうな表情で微笑んでいるから言えなかった。
俺が童貞で何がそんなに嬉しいんだろう。
非童貞が童貞にマウント取ってるだけなのかな。
ああ大丈夫。俺は別にムカついてなんかいないから。
童貞で何が悪いの?って常日頃から思ってるから大丈夫です。
「何でも良いんですけど、」
「何でも良いの?」
「…とりあえず俺の上から退いてくれません?誰か来たら通報されますよ」
「それに関してはドア開けなきゃ問題ないと思うよ」
「俺が叫ぶかも知れないじゃないですか。ちょっと今襲われているので助けてくれませんかーって」
「襲われてるって自覚はあったんだね」
いや、もう、何言ってんのこの人。
会話が成り立たないんだけど。
半分くらい俺のせいかも知れないけど、この人もまともに会話する気ないよね。
って言っても、頭がまともじゃなくなってるんだから仕方ないか。
デフォルトでまともじゃない俺が相手なんだからそりゃあ成り立たないわな。
「実家暮らし童貞大学生なんて襲って何の意味があるんですか」
そろそろ核心を突いてやりたくなってストレートに質問してみたら「詩音くんがそんな格好で出てくるのが悪いんだよ」と返ってきた。
どうやら事の発端は俺だったようだ。
「百歩譲って俺のこの格好が悪かったとします。だからって襲って良い理由にはならないですよね」
「急にまともな返ししないでよ。詩音くんが全然嫌がらないから俺も調子に乗っちゃったんでしょ」
「五十歩譲って俺が嫌がらなかったのが悪かったとします。だからって――」
「同じこと言わなくて良いから。分かってるって。俺が悪い。どう考えても俺が悪いんだよ」
分かってるけど…と言ったまま黙ってしまった森野さんを、どうしたものかと思いながら見上げる。
俺には今直ぐこの人を殴っても良い権利があると思う。
俺の許可なくファーストキスを奪った罪は相当重いし、キスだけじゃなくて乳首まで弄られた挙句に押し倒されているんだから。
純情どころか男としてのプライドまでズタボロにされて、逆にこれで森野さんの方が許されると思っていたら殴るだけでは済ませられないかも知れない。
でも何故か、俺にはそれが、出来そうにない。
重たい溜息を吐くと森野さんの表情がきゅっと強張った。
それがまるで殴られる態勢を整えたみたいに見えたからつい笑ってしまう。
「まあ今日は俺の誕生日と言うこともありますし、森野さんのイケメンフェイスに免じて今日のところはお咎めなしにしておいてあげましょう」
もしその顔を殴って切れたり腫れたりなんかした日には、それこそ近所のおばちゃん達からタコ殴りにされると思うからね。俺が。
「でも次はないですよ?」と釘を刺すと、漸く彼も俺の上から退く気になったようだった。
すっと立ち上がって額に手を当てた彼が「情けな…」と漏らして息を吐き出す。
「詩音くん」
「なんでしょう」
「配達担当代えて欲しい?」
「え?」
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