8 滅多に聞かない弱った声は、俺の庇護欲を十分に刺激した。 俺に母性と言うものがあるのならばこんなにも擽られることはないだろう、そんな馬鹿なことを思うくらいに。 「他の人達も和也さんのこと、働き過ぎだって心配してました」 「心配するより替わって欲しいよ。あいつらだって忙しいのは同じだけど、紘夢くんに会えてるんだろ」 「まあ。だから、って言うか。ちょっとくらい和也さんのこと特別扱いしても良いんじゃないかなって思ってるんですけど」 胸板に預けていた顔を上げ、下からそっと彼の表情を伺う。 同じく俺を見下ろした彼の瞳に僅かばかりの期待が映った。 「特別扱いって?」 「例えば、帰るまでの間はずっと甘えさせて貰う、とか」 「どのくらい?」 どのくらい、と言われると……どのくらいいけるだろう。 俺が和也さんに対して勝手に作っていた遠慮と見栄の壁は今はもう取っ払ってしまっている。 だから俺のリミッターは外れてしまっているので、あとは彼次第だ。 「流石に引かれるのは嫌だな、と思うくらいには」 「俺が引くことがあると思う?」 「……じゃあ特別扱いって言い方は止めます。ただ、俺のこと死ぬほど甘やかしてください」 俺もあなたのことを甘やかしますから、と続く筈だった言葉は降ってきた口付けに吸い込まれていった。 それが黙れと言う意味ではないことは分かる。 ただ、衝動を抑えられなかっただけなんだと。 「ん……ん……」 離れてもまた吸い寄せられるように幾度となく唇が重なり合う。 まるで会えなかった時間を埋めるように、とはまさにこのことだと思った。 気持ちは募っていくばかりで身体が一向に離れようとしないのだ。 離れる必要も、ないんだけれど。 「和也さん、俺今日、ずっと離れなくていいですか」 キスの合間に問いかけた俺に返される、優しい口付けと甘ったるい視線。 「明日も、離れなくていいよ」 「ん、帰れなく、なりそう」 「帰すつもりないから」 それが言葉の綾だったとしても、今だけは本気だと受け取りたい。 そう思い込んで過ごしたい。 いつの間にか押し倒されていたベッドの上で、飽きることなく何度も何度も口付けを交わす。 彼が働いた後であることに一切の気を遣えない程、食欲も我も何もかもを忘れて、ただ只管にお互いを求め合った。 眠気がこないようにと飲んだコーヒーが、ここまで俺の脳を覚醒させることになるとは思いもしなかった。 *** 翌朝、和也さんより先に目が覚めた俺は久々に彼の寝顔を堪能していた。 怖ろしい程に整ったその彫刻のような寝顔は何度見ても圧倒されてしまう。 触れてはいけないものに触れるみたいにそっと伸ばした手で髪をひと撫でして直ぐに引っ込める。 人の気配には敏感な方だと言っていた彼だが、こうして少し触るくらいでは目を覚まさないところを見ると相当疲労が蓄積されているんだろう。 折角の休みだからこのまま時を忘れて眠り続けて貰いたい。 疲労回復は勿論、ストレス軽減に睡眠は欠かせないし、俺はこうして彼の回復を見守っているだけでも十分満足できる。 そう思えるくらい、昨夜の情事は色濃く俺の身体を満たし続けていた。 そりゃあ、まだまだ話したいことは山のようにあるし、もっとくっついていたいけどさ。 なんて欲をかいてしまったせいなんだろう。 この安らぎの空間を切り裂くかのように、聞き慣れない電子音が部屋に鳴り響いた。 吃驚した後にその音源であろう和也さんのスマホを探してみたけれど見当たらない。 その間も音が鳴り止まないので着信かそれともアラームか、わたわたしている内に彼が目を覚ましてしまった。 「ん……ごめん、鞄の中から…取って貰える…?」 未だ夢と現実の間にいるかのようなとろんとした口調で出された指示を俺はすかさず遂行する。 彼が出るまで意地でも切らないつもりか、とその無情さを疑いたくなるくらいに途絶えない着信音を不服に思いながら取り出したそれを差し出すと、寝転んだままの彼が俺の横で通話を開始させた。 「はい………ああ、悪い、寝てた…」 声は既に覚醒しているように聞こえるが彼の目は閉じられたままだ。 知り合いのような感じなのでこのまま聞いていて良いのかも分からず、とりあえず彼に背を向けてベッドから降りようとすると後ろで僅かにスプリングが軋む音がした。 振り返る間もなく、背後から伸びてきた腕と直ぐ側に感じた体温。 ぎょっとして声が出そうになったところ、それすら予期していたかのようにすぐ様口元を掌で覆われた。 お腹に回された腕と、口を覆う手。 つまりはハンズフリーの状態じゃないか、と頭が理解するよりも先に俺の耳に届いた機械越しの声。 その聞き慣れた声に俺は耳と現状を疑った。 『…じゃなかったっけ?』 「あれはC2の奥の長机の所に置いた、筈」 『C2?あー、そっちね。…おーい、C2の奥ん所だって!……ごめん和さん、今佑規に確認して貰ってるからもうちょい待って』 「ん」 『てか折角お休みのとこ叩き起こしちゃってすんません。切ったら即行二度寝して。二度寝でも三度寝でも四度寝でも』 「もう眠気は飛んだ」 『ええ、マジ?てかなんか声遠くないっすか?』 いつも鈍感な癖にこう言う時ばかり冴えているんだからふざけないで欲しい、と内心毒づきながらもしっかりと冷や汗はかいている俺。 そんな俺の口元を覆っていた手がそこで離れたかと思ったら、スっと俺達の真横にスマホが置き直された。 「お前の声は普通に聞こえるけど。そっちの電波が悪いんじゃないか?」 こっちはこっちでいつも冴え過ぎてて怖ろしいから。 どうやったらそんな真っ当な嘘を瞬時に思い付くことが出来るんだ。天才か。 『あー、じゃあ俺だわ』と納得してしまう方もやっぱり大概だけどな。 『そう言えば和さんさ、紘夢からなんか連絡あった?』 そこまでのやり取りは息を押し殺して静聴していたけれど流石に自分の名前が出てきたことには反応せざるを得なかった。 ビクッと肩を揺らした俺の耳元で、後ろの彼が静かに笑う。 「何かって何だよ」 『それはわかんないけど、和さんのこと心配してたから何かアクションがあったかなと思って』 「あったとしても一々言う訳ないだろ」 『えー、それってどっちよ。言っとくけど俺らも結構和さんの味方してあげたんだよー?』 「別に頼んでない。けど、一つ言わせて貰うなら、お陰で働く気が失せた」 『…え。えー、絶対いいことあったじゃんそれー。えー。いいなー。紘夢が何してくれたんすかぁ』 味方をしていたとは言えその辺は正直ならしい。 その後も聞こえていた文句だったけど、直ぐに電話の向こうで動きがあったらしく話題が引き戻されていた。 『ごめん、和さんが言ってた所にあったって』 「なら良かった」 『それ聞く為だけに睡眠時間奪っちゃってマジですいませんでした。この埋め合わせは今度なんかの形で!』 「別に良いよ。今から紘夢くんに埋めて貰う」 『…はあ!?』 その声と俺の心の声が重なったのは言うまでもない。 『えっ?それって、えっ?』と動揺しながらも着実に答えに辿り着いていそうな雰囲気を察して居ても立っても居られなくなる。 「じゃあ、仕事サボんなよ。あともう二度と掛けてくんな。掛けてきても出ないから用事があるならメッセージにしろよ」 『えっ!?ちょっと和さん待っ──』 途端に聞こえなくなってしまった声。 しん、と静かになった部屋でうるさ過ぎる程聞こえてくる俺の心臓が脈打つ音。 色々と混乱してしまって振り返ることも出来なければ声を出すことも出来ない。 そのまま硬直する俺を再度後ろから抱き込んだ彼が、まるで何事もなかったかのように「おはよう」ととびきり甘い声で朝の挨拶を交わしてきた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |