4 「この前痴漢された時、先生が助けてくれたじゃないですか」 抱き締められたままぽつりと話し始めると、彼が短く「ああ」と相槌を打つ。 「今日、痴漢されて直ぐにそれを思い出して。それで俺、勇気が出たって言うか。自分で痴漢の手を払って、隣の車両に逃げることが出来ました」 先生のお陰だと伝えようとしたら、その前に彼が「いや、」と否定の言葉を口にした。 それは逃げたんじゃなくて逃してやったんだと思った方が良いと言われ、その意味が正しく理解出来なくて返答に困る。 「君が逃げなければいけない理由なんてないだろう。君はただ電車に乗っていただけで、悪事を働いたのは相手の方だ」 「ッ……」 それは、そうだけど… 俺にはそうは思えなくても、先生が俺の代わりに怒ってくれているんだと思ったらその気持ちは嬉しかった。 実際に俺は痴漢に対して怒りの感情はあまり抱いていない。 腹が立つと言うより、早く記憶から消えて欲しいと思っている。 「前は、怖くて…動けなかったけど…」 「あまり思い出さない方が良いんじゃないか。自分から訊いておいて言うことじゃないかも知れないが、もうそれ以上は話さなくて良いよ」 そう言って優しく背中を撫でてくれた彼に、忘れていた感情を呼び起こされてしまった。 前回俺の中を占めていたのは殆どが怖いと言う感情だったけど、今回はそうじゃなかったと言うことを。 怖かったのではなく、ただただ嫌だったんだと。 「っ…気持ち、悪かった……知らない人に、触られるのが…凄く、嫌で…」 「もう良いと言っているだろう。それ以上は私が聞きたくない」 「ッ…でもっ、忘れたくても、まだ消えてくれなくて…ッ」 そこまで言うと勢い良く身体を離され険しい表情を向けられた。 それでも俺が怯まなかったのは、例え彼に非難されたとしても、俺が縋れる相手は彼しかいないからだ。 「俺が痴漢されたことは、先生しか知りません。誰かに話すつもりもないです。先生なら、…先生が、助けてくれるって、思ってるから」 「っ……今回は…助けられなかったじゃないか…」 「そんなことないです…!先生のお陰で勇気が出たんだって言ったじゃないですか」 「…そうは言っても、」 「多分俺、あの後先生と会う予定がなかったとしても、先生のこと頼っちゃってたと思います。先生に、先生に忘れさせて貰いたいって――」 「それ以上はもう、止めてくれないか」 俺の言葉を遮ったその声は感情を押し殺したように震えていて、はっと息を呑む。 そのまま俺を黙らせるかのように近付いてきた唇が、そっと俺の口を塞いだ。 「ッ…!」 突然の口付けに驚く俺に、僅かに顔を離した彼が静かな声で囁く。 「君にそこまで言われて、私が平常心を保てると思うのか」 「ッ………」 「君を前にしたら、私の理性なんて脆いものだよ。その話を聞かなくても、君がうちに来ると考えただけで落ち着かなかったくらいなのに」 それを聞いて思わず「うそ…」と漏らしてしまった。 その呟きに対しても彼は真面目な表情で「本当だよ」と返す。 そんな風には全然見えなかった。 それじゃあ、さっきまで俺が先生に対して感じていた距離は俺の思い違いだったってこと? 態度がよそよそしく思えたのは、先生が俺に触らないようにって、我慢をしていたからってことなの? もし、もしそうだったんだとしたら。 俺が言われた台詞をそのまま彼に返したい。 俺だって、そんなことを言われて平常心を保てる訳がないんだから。 ただでさえ貧弱な俺の理性が、彼の発言を受けて音を立てて崩壊していった。 「先生…っ」と呼んでその腕に縋り付くと、冷静な声で「まだ他に話があったんだろう」と言われた。 それは良いのか、と問われて心に迷いが生じる。 良くはない。良くはないけど、今この状態でゆっくり話が出来るとも思えない。 どうしよう、と困惑する俺に彼が確信を持った声で「葵のことじゃないのか」と訊いてきた。 驚いた俺を見てやっぱりな、と言う反応をした彼がそっと俺の頬に手を添えてくる。 「君が私との関係で迷う理由は葵のことだけなのか?」 「え、……いや…それは……亡くなった…奥さんも…」 「その二人に後ろめたい気持ちを抱くのは私だろう。二人は私の家族であって、君の家族じゃないんだから」 「ッ……でも……その二人を無視するなんて…俺には出来ません…」 「君が彼女の存在を無視したとして、それに対して何かを思うのは葵だけだろう。彼女自身には確認の取りようがない」 「そ…んな…こと…」 「彼女のことを考える必要があるのは、君じゃない。それは私と葵が考えることだ」 「っ………」 それはまるで、俺は彼ら家族には関係ないと言われているみたいで。 それは確かに事実だけど、それでも胸が苦しくなってしまって。 胸に抱いた痛みで表情を歪ませると、彼が包み込むような優しい表情を向けてきた。 「葵とはもう話はしてある」 「…え……」 「母親のことも含めて、葵が君のことをどう思うか、あの子の気持ちはもう確認済みだ」 「ッ……葵、くんは……何て……」 「応援すると言ってくれたよ」 「…えっ?」 「相手が男で良かった、とも言っていた」 「!?」 予想外の言葉を聞かされて衝撃で絶句してしまった。 お、応援って…何で… 男で良かったって、どう言う意味だ… 愕然とする俺を彼は少し緩んだ瞳で見つめながら、指の腹でゆっくりと俺の頬を撫でた。 「私が君と付き合えたら嬉しいようだよ」 「ッ!」 「あの子も君のことをえらく気に入っているらしい」 「っ、…なんで……」 「さあ、な。ただ、印象が良かったのは間違いない。本人がそう言っていたんだから」 印象って言っても…まともに会話をした記憶もないけど… 何を見てそう判断して貰えたのかは分からないけれど、でも、そんな風に言われて嬉しくない訳がない。 葵くんが俺のことを受け入れてくれているのも、本当は凄く嬉しい。 「でも葵くんは…先生以外のことは…」 「それも話した」 さらっと返された言葉を聞いて今度こそ言葉を失った。 気の抜けた声で「え…」とだけ漏らして呆気にとられる俺に、彼がまた全てを包み込んでくれるかのような表情で微笑み掛けてくる。 「そう言う状況なら尚更応援すると言って貰えたよ。つまり葵は、私達の関係を全面的に認めてくれていると言うことだ」 「…………」 「これで君は葵のことを考える必要はなくなった。それは当然、あの子の母親である彼女のことも考える必要がないと言うことでもある」 どうしてそうなるのかはついさっき説明した通りだと言われて、俺はそこで初めて彼の発言の意図を理解することが出来た。 葵くんが出した答えはお母さんのことも考えた上でのもので、葵くんが許すなら間接的に彼のお母さんも許してくれたことになる。 先生はそう言いたいんだと思う。 さっきの彼の発言は、部外者の俺が口を出すなと言っていた訳ではなかった。 俺が勝手に彼ら家族の気持ちを考えて悩んでも答えなんて出なくて、俺が向き合うべきなのは彼らが見つめ合って出した答えに対してなのだと、そう言いたかったんだろう。 出されたその答えは、確かに俺の悩みを解消してくれた。 でもそれは、全部じゃない。 「先生の恋人になれても…先生だけの恋人じゃなかったら…葵くんは応援出来ないですよね…?」 そう訊ねた後、笹野先生はゆっくりと瞬きを繰り返しながらその質問の意味を考えているようだった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |