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前回彼が同じ状況になった俺を助けてくれた時のことを思い出して胸が激しく騒いだ。

勇気を出して振り返ると、知らないおじさんと目が合った。
僅かに歪んだ口元を見て余計に吐き気が込み上げてきたけど、きっと睨んでその手をはたき落とす。
そのまま逃げるように隣の車両へ移動して、運良く空いている座席を見つけたからそこに座らせて貰った。

痴漢が堂々と追ってくるような真似はしないだろうと思ったからそのまま目的の駅まではそこを動かなかった。
その間ずっと、もう大丈夫だ、と自分に言い聞かせていたけれど、握った腕は動揺を隠し切れずに震えてしまっていた。

一刻も早く、笹野先生に会いたくて仕方がなかった。

本当は今直ぐこの場に来て欲しい。
またあの時のように彼の優しい手で背中を撫でて貰いたい。
そうすればこの気持ちも、あの時のように落ち着いてくれるだろう。

そんな風に考えて、早く着いてくれとただ只管に願いながら身体を縮めた状態で時が流れるのを待った。

漸く目的の駅に着いてからは人目も気にせずに可能な限り走って彼の自宅へと向かった。
昼間と言うこともあり外気温はかなり高くなっていたけれど、汗を掻くことすら気に留めることが出来ないくらいこの時の俺は必死になっていたようだ。
彼の自宅に着いた時はシャツの背中が汗ですっかり貼り付いてしまっていた。

乱れた呼吸を整えながら、震える指で自宅玄関のインターホンを鳴らす。
直ぐに中から出迎えてくれた彼の顔を見た途端、緊張や不安や焦燥、あらゆる感情が一気に弛緩してその場に崩れ落ちてしまった。


「ッ!?大丈夫かっ?」


直ぐさま俺の目の前に屈んだ彼が、驚きと心配を織り交ぜたような表情で俺の肩を掴んで顔を覗き込んでくる。
突然倒れるようにしゃがみ込んだ上に、全身汗だくの状態だから尚更心配させてしまったかも知れない。
とりあえず玄関の中へと誘導してくれた彼が直ぐに飲み物を持ってこようとしてくれたところを、その手を掴んで引き止めた。


「行かないで…ください…っ」


漸く喋った俺の口から出た言葉を聞いて先生は心底驚いているようだった。
大きく見開かれていた目が段々と険しさを宿していって、俺の手を握り返しながら「何かあったのか」と訊いてきた彼の声は怒りのような感情で少し震えていた。


「…背中……」

「背中?」

「…撫でて…貰っても……良いですか…」


そう訊ねると彼の眉がぴくりと動いた。
険しさの残る表情のまま、繋いでいない方の手で俺の背中に触れた彼がそっと優しい手付きで撫でてくれる。
待ち望んでいた感覚に胸を震わせたと同時に、自分がかなり汗を掻いていたことを思い出して彼の表情を伺った。


「俺…汗が…」

「ああ。外はそんなに暑かったのか」


そう訊ねてきた彼の表情は特に不快感を抱いているようには見えない。
走って来たんだと伝えたら背中の手が止まった。
怪訝な表情を見せる彼に「早く、会いたかったから…」と正直な理由を話して繋いだ手を握る。

少し困惑してしまった彼を見て、何故だかほっと安堵の息が漏れた。


「先生の手、魔法みたいですね」

「……落ち着いたのか?」


そんな発言をしても状況から判断したのか冷静な言葉を返せる彼に感心してしまう。
はい、と答えると背中に貼り付いてしまった服をパタパタと乾かすように空気を送り込まれた。
少し冷たい風が肌に当たる感覚を心地良いと感じた後に、今更ながら汗に対する不快感を抱く。


「すいません…もし良かったら、タオルとかお借りしても…」

「拭くだけだと不快だろう。このままシャワーを浴びてきたら良い」

「えっ?あ、…」


シャワーと聞いて少し驚いてしまった。
その後直ぐに今のはどう考えても変な意味じゃないと気付いたけれど、先生も俺の反応を見て悟ったようで「勘違いしないでくれ」と言われて恥ずかしくなった。

足元に視線を落として「シャワー、お借りします…」とだけ返す。
それに対して先生も「ああ」と短く相槌を打っただけで、それ以上その会話が広がることはなかった。


初めて入った浴室で、シャンプーなどの製品が二人分並んでいる光景を見て俺は真っ先に頭を抱えたくなった。
今になって葵くんの存在を思い出し、あの子がいない間に自宅にお邪魔してシャワーまで借りてしまっている状況に罪悪感を抱いてしまう。

笹野先生は葵くんも俺達の関係を認めてくれているだとかそんな感じのことをちらっと言っていたけど。
まさかセフレだなんて説明はしてないだろうし、それがもっと複雑な関係になるかも知れないのにどう説明するつもりなのか。

…どう考えても説明なんて出来ないよな。

葵くんのことを考えると笹野先生の気持ちに向き合うことは他の人とは違う難しさがあった。
と言うか、向き合ってしまって良いのだろうか…なんて、今更そんなことを考えてしまう。

複雑な気持ちを抱いたまま浴室を出ると、丁度そのタイミングで脱衣所のドアを開けた笹野先生と対面してしまった。


「ッ…!」

「っ…すまない。着替えをどうするか訊きそびれていたから、それを訊くつもりで来たんだが…」


そう言って俺に背を向けた彼に、俺も変に動揺してしまって咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
先に用意して貰っていたタオルで身体を隠しながら、上手く働かない頭で着替えのことを考える。


「えっ…と……俺が着てた服は…」

「…汗で汚れているだろう。それだとシャワーを浴びた意味がないと思って別の物を用意しようとしたんだが、私の物だと君にはサイズが…」

「あ、…そう、ですよね…」


確かに、俺が笹野先生の服を借りると裾が余ってしまうだろう。
かと言って葵くんの物は逆にサイズが小さくて入らないだろうしあの子の服を借りるなんて色んな意味で出来ない。

でもそうなると…


「このまま、でも…良いですけど…」


それ以外に方法がなさそうだし、俺は別に下半身が隠れていれば特に問題はない。
そう思って提案すると、こちらを振り返った彼に唖然とした表情を向けられた。


「良い訳が、ないだろう」

「えっ。でも、それしかないのかなって…」

「それならまだ私の服を着て貰った方がマシだ。直ぐに持ってくるから身体を拭いて待っていなさい」

「あっ…」


はい、と返事をする前に先生は脱衣所を出て行ってしまった。
言われた通り、濡れたままだった身体を拭きながら直前のやり取りを思い返す。

少し冷静になってみると確かに俺の発言は間違っていたかも知れないと気付いて恥ずかしくなった。
それこそ”変な意味”なんてなかったけれど、裸のままで良いなんて言われたら彼も困るに決まっている。
勿論、上半身だけの話なんだけど。

先程の彼の反応を思い返し、引かれてしまったかな…と考えていたところへ服を手にした彼が戻って来た。
洗濯をしただけで一度も着ていない服があったからと前置きをされて渡されたのは長袖の黒いシャツだった。

そんな気まで遣って貰わなくても良かったのになと思いつつ、有難く受け取った服に袖を通す。
結果的にそれは、彼が戻ってくるまでに既に履いておいた下着が隠れるくらいの丈で、サイズが大き過ぎて困るって程ではない。
ただ俺には黒いシャツと言うシックで大人な雰囲気の服は似合わないなと思ったから、苦笑しながら「俺に黒って似合わないですね」と率直な感想を言ったら静かに溜息を吐かれた。


「…気にするところはそこじゃないだろう」

「え?」

「目のやり場に困るからさっさとボタンを留めてくれないか」

「……、はい」


今の発言だけで彼の言いたいことを理解してしまったせいで急に恥ずかしくなった。
無言でボタンを留めている間、相変わらず先生は俺から視線を逸らしたままだった。




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