1 約束の火曜日。時刻は午後5時半。 その日の仕事を終わらせ、とあるカフェで時間を潰していた俺の元へ約束の人物から連絡が届く。 今いるカフェの前に着いたとの文を見て直ぐに席を立った俺は、逸る気持ちを抑えながら会計を済ませ、飛び出すように店の外へ出た。 直ぐ目の前に停車されていた車の運転席に座る人物と目が合うと、後部座席の窓が降りてそこから顔を覗かせた彼が「葉太さん」と俺の名を呼んだ。 ぺこっと頭を下げた俺を見て笑った彼が「乗ってください」と言って中からドアを開ける。 一応周囲の目を気にしながら指示通りそそくさと車に乗り込むと、俺がシートベルトを着用した後直ぐに車が発進した。 「誠くんのマンションに直行で良いの?」 走り出して直ぐ、運転席に座る男性から掛けられた質問に、俺の隣に座る彼――誠くんが「はい、それで」と答えた。 多分運転している男性は誠くんのマネージャーさんだと思う。 前回の電話で誠くんと俺のある程度の関係は知られているとの情報を得ているお陰で変な緊張はせずに済んでいるけど、先ずはちゃんとした挨拶をした方が良いだろう。 若干身を乗り出して「あの、」と声を掛けるとルームミラー越しに彼と目が合った。 首を傾けながらにこりと微笑んだ彼の対応に少し驚いて言葉を見失っている隙に、隣からもう一度名前が呼ばれる。 横を向くと、少し拗ねたような顔をした誠くんがすっと伸ばしてきた手で俺の手をそっと握った。 「俺より先にマネージャーに挨拶ですか?」 「ッ……ごめん……した方が良いと、思って…」 「はい、それは分かりました。そうじゃなくて、俺には?」 それはつまり先ず最初に誠くんに対して挨拶をしろ、と言うことなんだろうけど。 こんなタイミングになってしまって何と言えば良いものか。 今更「こんばんは」も可笑しいだろうし、「今日はありがとう」だと畏まり過ぎている気もする。 何が適当な挨拶かを考えている内に誠くんが痺れを切らしてしまいそうだったから、とりあえず率直に思ったことを伝えることにした。 「やっと会えたね」 少しハニカミながらそう伝えると誠くんの目が大きく見開かれた。 直ぐに握られた手に力が込められ、それから彼が静かに溜息を吐く。 「…やっぱり今のは挨拶じゃなかった?」 「…そうじゃないです。思ってたのと違い過ぎただけです」 「何て言うと思ってたの?」 「いや、…まあ、お疲れ様とか…その程度だと」 「あ、そっか。お仕事お疲れ様…!」 「………ハァ」 もう一度溜息を吐いた彼に首を傾げる。 そんな言葉すら出てこなかったのか、と呆れられてしまったのかなと思いながら彼を見つめていたら、前の席からクスクスと静かな笑い声が聞こえてきた。 視線の先を移動させたら再びミラー越しにマネージャーさんと目が合う。 「彼の挨拶が済んだようなので、次は私がご挨拶してもよろしいですか?」 「えっ?」 「栗原誠のマネージャーをしております、関と申します」 「あっ。えっと、河原葉太ですっ。誠くんにはいつも…いつも?ではないかも知れませんけど、お世話になってます…っ」 結局テンパってしまって変な挨拶になった。 そんなに長い付き合いじゃないから”いつも”の部分を訂正してしまったんだけど、それを聞いたマネージャーの関さんは堪え切れない様子で吹き出していた。 くつくつと声を押し殺したように笑う彼の背中に誠くんの尖った声が投げられる。 「何笑ってるんですか。勝手に話に入ってこないでください」 「挨拶くらいさせて貰わないと、河原さんに失礼でしょ」 「その反応が十分失礼だと思いますけど」 「ああ、申し訳ありません河原さん。魅力的な方だなと思っただけで、貴方を侮辱するつもりはありませんのでお気を悪くされないでください」 「えっ!」 侮辱だなんて全くそんな風には受け取っていなかった、と言おうとしたらその前に握られていた手をぐいっと引っ張られた。 慌てて視線を戻した先の誠くんが相変わらず不機嫌な表情のまま「あの人はもう無視してください」とぼやく。 「無視っ?そんなこと出来る訳…」 「やっと会えたって言ってくれたじゃないですか。俺よりあの人と話してたいんですか?」 「そっ…そう言うことじゃ…」 ないけど。マネージャーさんに対してまでそんな風にヤキモチ焼かなくても。 てか、幾ら多少の関係はバレているからって彼の目の前で堂々とそれっぽい発言をするのはどうなんだろう。 何か都合の悪いことを突っ込まれたりしたら困ると思うんだけど。 このままじゃ誠くんが暴走しかねないのでやむを得ず彼の要求を呑むことにした。 流石に無視は出来ないけれど会話の相手は誠くんに集中させることにする。 とは言え、今この場では当たり障りのないやり取りしかしたくないので、俺も彼の手を握り返してその手をちょっと引っ張る。 念の為小声で「そう言うのは二人の時にしてって言ったよね…?」と囁くと、もう片方の手が伸びて来て俺の肩を掴んだ。 「今死ぬ程我慢してるんで、それ以上可愛いこと言わないでください」 「ッ!」 「でも多分、葉太さんは何を言っても可愛いから、俺の家に着くまで黙っといて貰えますか?」 じゃないとこのまま抱き締めます、と言ってのけた彼に俺は唖然としてしまった。 今俺が何の為に小声で伝えたと思っているのか。 関さんの前だと言うこともそうだけど、そんなことばかり言われたら俺だって平常心を保てなくなる。 それが分かっていないのか、分かっててやってるんだとしたら意地悪が過ぎる。 「…分かった……黙っとくよ…」 少し呆れながらそう答えると肩を掴んでいた誠くんの手が名残惜しげに離れていった。 そんな態度を見せるなら初めから言わなきゃ良いのに。 後で覚えてろよ、と思いながらせめてもの仕返しに繋いだ手をぎゅっと握ってやった。 直ぐに握り返された手に少しにやけてしまったけどそれはしょうがない。 それから10分くらい走ったところで誠くんからもうすぐ家に着くと教えられた。 今の間にマネージャーさんにお礼を言っておこうと思ってずっと閉じていた口を開く。 「あの…、関さん」 「はい」 「今日は送っていただいてありがとうございました。俺まで乗せて貰って、すみません」 「お気になさらないでください。貴方には一度ご挨拶をさせていただきたいと思っていたので丁度良い機会でした」 「えっ…」 何で彼が俺に挨拶を…?と疑問を抱いている内に車が停車した。 こちらを振り返った彼がにこりと微笑みながら「うちの誠の大切な方ですからね」と言って、それから視線を隣の誠くんに向ける。 「あまり羽目を外し過ぎないようにするんだよ」 「言われなくても分かってます」 すかさずそう答えた誠くんに関さんが苦笑を浮かべながら「信用ならないなぁ…」と呟く。 そのやり取りが何を指しているのか、何となく察してしまったから恥ずかしくなって視線を彷徨わせてしまう。 そんな俺の反応を見た誠くんがふっと笑った後、シートベルトを外して直ぐにドアを開けた。 彼に倣ってシートベルトを外すとそれを確認した誠くんが車から降りたので俺もその後に続く。 「じゃあ関さん、お気を付けて」 「ありがとう。僕は良いから早く行って」 人目を気遣ってそう言ってくれた関さんに二人揃って会釈をし、それから俺達は微妙な距離を保ちながら誠くんの住んでいるらしいマンションのエントランスへと向かった。 [次へ#] [戻る] |