10 俺は諒太さんの匂いが落ち着くと感じたけれど、彼にとってはその反対なんだよな。 興奮する匂いってどんな匂いなんだろう…と抱き合ったまま考えていたら、不意に玄関の方から”ガチャリ”と言うする筈のない音が聞こえた。 ビクッと身体を強張らせたのは俺だけじゃない。 咄嗟に離れた俺達は驚きと動揺を浮かべた顔を向け合い、それから揃って玄関へ繋がるドアへと目を向けた。 どっ、どう言うこと…!?まさか…泥棒…!? と、動揺する俺の横でこの時、諒太さんは全く別の理由で動揺していたようだ。 「すみません、失念していました…」と聞こえた声に「えっ?」と反応したと同時、苦い表情をする諒太さんの視線の先にあるドアが開けられた。 「「…え……」」 重なった驚きの声に諒太さんの声は含まれていない。 その直後、ビニール袋に入った物が床にぶつかる鈍い音が部屋に響いた。 ドアの向こうから現れた人物と見つめ合ったまま、叫びそうになった声を咄嗟に掌で抑え込む。 その反応から少し遅れて、俺に対して「え…なんで…」と向けられた声に、俺は口元を覆ったまま何も返すことが出来なかった。 「あー、えーっと……ごめん理仁、一回向こうに…」 「ええッ!?」 衝撃的過ぎる発言に思わず口から手を外して叫んでしまった。 多分、いやきっと、何故俺がそんな反応をするのか諒太さんはきっと正確に理解出来ていない。 単純に、有名人が突然この場に現れたことに対して驚いていると思っているんだと思う。 困った様子で「あー、実は…」と説明をし始めた諒太さんを遮って掛けられた言葉に、今度は諒太さん一人分の驚きの声が上がった。 「どうして葉太くんが、諒太の部屋にいるの…?」 「ッ……」 顔が似ているだけの別人だったら良かったのに…と、この時は本気でそんなことを考えていた。 諒太さんが口にした名前と、視線の先にいる彼が俺に対して向けた言葉から、そんな都合の良いことがある訳がないと言うことを悟る。 「どう言うことですか?」と隣から投げ掛けられた言葉に、またしても俺は何も返すことが出来なかった。 「それは俺が訊きたい。驚き過ぎて酔いが覚めちゃった」 「…だから連絡もなしに」 「それもあるね。けど、ちょっとだけショックなことがあったから、諒太に付き合って貰おうと思って。明日の朝食と一緒にお酒買ってきたんだけど、ごめん、パン潰れたと思う」 「それは別に…」 目の前で交わされるやり取りを聞いて二人が親しい仲だと言うことは理解した。 けど、そんなことよりも今彼が言った”ショックなこと”と言うワードが頭から離れなくてそれ以外が耳に入ってこない。 諒太さんと話している時も俺に視線を向けたままだった彼が、依然として何も喋ろうとしない俺に対して「それで?」と真剣な表情で投げ掛けてきた。 「葉太くんが言ってた怪我をした友人って、諒太のことだったんだね?」 「っ……」 その発言を聞いて諒太さんが横で「え…?」と訝しむような声を出した。 少し間を置いて「…そう…ですね…」と答えた俺に諒太さんがはっとした表情を向けてくる。 「まさか先輩って…理仁のことだったんですか…?」 「っ……そう…ですね…」 全く同じ返しになったけど返事をしただけマシだと思って欲しい。 多分今の俺は、二人が見えている姿以上に動揺してしまっているから。 再び訪れた沈黙の中で、俺の心臓の音だけがやけにうるさく耳に届く。 その沈黙を破ったのは理仁さんで、その言葉は俺ではなく諒太さんに向けられたものだった。 「諒太はさ、電話で葉太くんに何て言ったの?」 「え…?」 「葉太くんの様子を見た限りだと、怪我のことは初めて知ったって感じだったけど。もう数日もすれば治るのに、何でこんなタイミングで話したの?」 「…それは…事情があって…」 「どんな事情?いや、その前に、まず最初の質問に答えてよ」 「っ……」 まるで尋問のような訊ね方に諒太さんも困惑してしまっていた。 事情を説明することなら出来るけど、俺は別に諒太さんから電話で何かを言われたから理仁さんとの食事の席を抜け出した訳じゃない。 だから、それを諒太さんの口から言わせるのは違う。 「理仁さん、それは俺に説明させてくれませんか…?」 「…それは無理かな。葉太くんの口から説明されると余計に傷口が抉られちゃうと思ったから、諒太に訊いてるんだよね」 「ッ……でも…諒太さんは別に…」 「俺がわざと心配を煽るような発言をして無理矢理彼に食事の場を抜け出させた、と思ってる?」 俺の言葉を遮って投げ掛けた諒太さんに、理仁さんがゆっくりと頷いて見せる。 ピリついた空気を肌で感じて、このままじゃ駄目だと思った。 俺のせいで二人の関係が壊れてしまうなんて、そんなことあって良い筈がない。 「理仁さん、諒太さんは本当に何も悪くないんです。無理矢理来ようとしたのは俺の方で、」 「残念だけどそれは逆効果だよ、葉太くん」 「っ…え…」 「俺だって諒太がそんなことをしたなんて本気で思ってない。俺の方が付き合い長いから、諒太の性格はよく分かってる」 「っ……」 それを聞いてぐっと言葉を呑み込んだ。 二人がどのくらい長い付き合いのなのかは分からないけど、彼が俺以上に諒太さんのことを知っているんだと言うのは疑いようのない事実だと思った。 お互いに名前で呼び合っていることもそうだし、諒太さんが理仁さんに対して敬語を使っていないことも。 それから恐らく、この家の合鍵を渡していることからも、二人の仲が親しいことは十分に伝わってくる。 「だったら、その質問には何の意味があったのかを教えて欲しい」 「それは俺と葉太くんの問題で、諒太には関係ないことだよ」 「…他人には訊いておきながら自分の時は隠すのはどうかと思うけど」 「そんなこと言って、諒太だって薄々勘付いてる癖に」 「……それは、俺の勘違いだと思いたい」 「どうだろう」 「…そうじゃないとしても、この場で明言するのは避けて貰わないと困る」 「この場では言わないよ。それは後日改めて二人きりの状態で言わせて貰うことになってるから」 ね?と話を振られ、それにも応えることなんて出来なかったけれど、それ以上に諒太さんの顔を見ることが出来なかった。 今の理仁さんの言い方だと、俺自身が理仁さんの気持ちを知っていると言うことが諒太さんにも伝わってしまったと思う。 それが駄目なことかどうかは分からないけど、でも多分、気分は良くない筈。 とんでもないことになってしまった… この状況における解決策なんて全く思いつかず。 それでもただ二人の関係が壊れてしまうことだけを怖れて必死に頭を働かせていたら、不意に諒太さんが「訂正する」と言って俺の手を握ってきた。 「ッ!?諒太さ――」 「そう言うことならこの場でハッキリさせて欲しい」 その発言に対してと言うより、諒太さんの行動を見て眉を寄せた理仁さんが「どう言うつもり?」と訊き返す。 「二人きりの状況なんて作らせる訳にはいかないから」 「理由は」 「先にそれを訊いたら多分理仁は何も言えなくなると思う」 「っ、りょ、諒太さん…っ」 「大丈夫です。俺も、理仁の性格はよく知っているので」 卑怯なことをする奴じゃない、と言った諒太さんに、それまで険しい表情を向けていた理仁さんがふっと笑みを零した。 [*前へ][次へ#] [戻る] |