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香水全般が苦手な筈なのに、それが何かまで嗅ぎ分けられるってことは身の回りにそんな香りが溢れていたと言うことなんだろうか。
ただでさえそのことで生き辛い思いをしているのに、そこに更に手の不自由まで加わったんだと思ったら彼の心情をどう汲み取ってあげたら良いか分からなくなる。
さっきからずっと、諒太さんが負傷した右手を俺の視界に入れないようにしていることには気付いていた。
その気遣いも、遠慮も、俺相手にはしなくて良いのに。
誘導されたソファに腰を下ろして直ぐに怪我の具合を伺うと、彼の表情に苦笑が浮かんだ。
「大袈裟に見えるだけで、実際は大したことはないんですよ」
「嘘吐かないでください。仕事でも私生活でも困ってるって、長谷川さんが言ってました」
「っ……」
そう答えると、諒太さんが静かに「あの人は…勝手に…」と漏らし、それから溜息を吐く。
諒太さんからしたらそう思うかも知れないけど、俺は長谷川さんに感謝しかしていない。
彼が教えてくれなければ俺はきっとこの事実を知ることはなかった。
恐らく諒太さんは完治するまで怪我のことを俺に隠し通すつもりだったんだろうから。
「いつ治るんですか?」
「予定では、来週の水曜にはテーピングも外せることになっています」
じゃあ最低でもあと三日はこのままと言うことか。
思ったよりは早く治るみたいで安心はしたけど、今の言い方だと来週の水曜日に病院に行って診て貰うってことだよな。
「そのまま何週間も、連絡をくれないつもりだったんですか…?」
そう訊ねると諒太さんは困ったように俺から視線を逸らし、自分の手元を見つめた。
次の水曜日を逃したらその先の水曜日まで彼とゆっくり会える時間が取れないと言うことだ。
それは皆で集まったあの日から数えると三週間以上もの日数が経過していることになる。
「どうして教えてくれなかったんですか?俺が心配すると思ったから?」
「……そうですね。二週間程度で治ると言われたので、そのくらいなら治ってからの方が色々と都合が良いかと…」
確かに、利き手が不自由な状態で俺と会っても彼なら気疲れしてしまっていたかも知れない。
俺に対して迷惑を掛けるだろうとか、心配を掛けたくないとか、そう思ってしまう気持ちも分かるけど。
「二週間以上会えないことは、諒太さんにとっては平気なことなんですか…?」
揺れる声で訊ねると、諒太さんは弾かれたように顔を上げて困惑の表情を向けてきた。
俺が彼を責めるような言い方をするのは間違っている。
でも、俺まで彼に遠慮をしていたら俺達の気持ちはいつまで経っても通じ合えないような気がした。
「連絡がこないのは仕事が忙しいからだと思ってました。実際にそれもあったとは思いますけど、俺の方こそ遠慮せずに自分から連絡をしておけば良かったって、後悔してます」
「そんなこと、……どうして河原さんが、後悔なんて…」
その理由が分からないと言う顔をする彼を見て、この二週間彼と会えなかった期間にあった出来事を説明するよりも先に、俺の気持ちを真っ先に伝えるべきだと思った。
「今日俺は、事務所の先輩に誘われて、お互いのマネージャーを含めた四人で食事をしていました」
「っ……それなら、やっぱり…」
俺がその場を抜け出したことに対する責任を感じているんだと言うことは直ぐに分かった。
こんな説明をしたら彼がそう思うだろうことは俺も分かっていたけど、今はそれを話すことに意味がある。
「トイレで偶然長谷川さんに会って、直ぐに諒太さんのことが頭に浮かびました」
「っ……」
「長谷川さんには俺から訊ねたんです。自然な訊き方が他に思いつかなくて、三森さんはお元気ですかって訊きました。そしたら彼に、諒太さんが怪我をしたことを聞いて…」
「…そうだったんですね。二人の間でどうしてそんな話になったのかまでは彼も説明してくれなかったので、今漸く理解が出来ました」
そう言って彼が少し表情を和らげる。
でも、俺が彼に理解して欲しいのはその先だ。
「長谷川さんからはいつ怪我をしたのかと怪我の状態を教えて貰ったくらいで、詳しいことは殆ど聞いてません。でも俺、諒太さんが怪我をしたって聞いた時からずっと不安で、心配で…」
「……河原さん…」
「直ぐに会って状態を確かめたいって思ったけど、時間的にも迷惑かも知れないしって悩んでたら、長谷川さんが後押ししてくれたんです」
「え…?」
「良かったら都合が良い時にお見舞いに行ってやってくれないかって」
「ッ、何でそんなこと…」
「長谷川さんも心配していたんだと思います。でも多分それよりも、俺が諒太さんのことが心配で仕方がないって態度に出しちゃってたから、それを悟ってくれたんだと…」
長谷川さんには俺達がただの知り合い程度の関係じゃないことは伝わってしまっていると思う。
彼が最後にしていた発言を思い返すと、それ以上のことまで悟られてしまっている可能性もある。
「何も訊かずに、ただ背中を押してくれたって感じでした。それで俺、迷いが消えて、諒太さんに会いに行こうって思ったんです」
諒太さんは俺の説明を聞いて漸く事情が把握出来てきたようだった。
彼自身、長谷川さんからは俺に怪我のことを話したことと、多分今から俺が家に来るだろうと言うことしか聞かされていなかったらしい。
それを聞いてやっぱり彼は俺達二人のことを気遣ってくれたんだと言うことが分かった。
怪我のことを話してしまったと言うことを先に伝えてくれたのは俺の為だろう。
俺が行こうとしていることだけを伝えてくれたのも、それ以降のことは当人同士で話して決めろと言うことだったんだと思う。
「先輩に対しては、ある程度正直に事情を話させて貰いました。嘘を吐くのは苦手だし、何も良い考えが思い浮かばなかったので、友人が怪我をして心配だって正直に言って…」
「それで貴方が責められるようなことはありませんでしたか?」
「はい。それなら早く行ってあげてって言って貰えました」
「……そうですか…それならまだ…」
「仮に駄目だって言われてたとしても、俺はあの場を抜け出していたと思います」
そう言って彼の左手をそっと握ると、その手がびくっと強張った。
驚いた表情を向けてくる彼に「どうしても諒太さんに会いたかったんです」と伝えて、握った手に力を込める。
「怪我が心配なことも、そのことを教えて貰えなくて寂しかったことも、俺に遠慮して欲しくないことも、俺を頼って欲しいことも、全部直接伝えたいと思ったから…」
言い方は悪いけど、先輩よりも諒太さんを選んだんだと伝えると、彼の目が大きく見開かれた。
それからまた困ったように眉を寄せて「…そんなこと言われたら…俺はまた、勘違いを…」と言った彼に「勘違いじゃないです」と答える。
「それは全然、勘違いなんかじゃないです」
「っ……でも…」
「後悔したって言ったのは、もっと早く俺の気持ちを伝えていたら頼って貰えていたのかも知れないと思ったからです。俺が貴方の恋人だったら、流石に少しくらいは頼ってくれてましたよね?」
そう投げ掛けると、諒太さんは驚いた表情のまま完全にフリーズしてしまった。
暫くしてから「どう言うことですか…?」と訊ねられたので、ありのままを伝える。
「諒太さんが俺の気持ちを受け入れてくれるなら、俺は貴方の恋人になりたいと思っている…ってことです」
「っ、え?恋人…?…すみません、あの方達のことは…」
「一応、全員から了承のようなものは貰えてます。全員が同じ考えって訳ではないようですけど、でも、それぞれを恋人と呼んで良いって許可は…一応」
それを伝えた直後に諒太さんの表情がきゅっと引き締まり、それから眉が少しだけ垂らされた。
沈んだような声で「俺が…最後ですか…?」と訊かれた言葉を聞いて、胸に込み上げた複数の思いをどうすることも出来ず。
「すいません…」と謝罪を口にしながら、彼の胸にこつんと額を預けて身を寄せた。
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