3 反射的に振り返ると向こうの人も中に人がいると思っていなかったらしく、驚いた反応を見せてから「すみません」と謝罪を口にして扉を閉めた。 俺はトイレにちゃんとした用がある訳じゃないから謝って貰う必要なんてない。 彼にこの場を譲るべく、直ぐに扉を開けて外を確認するとその人は恐らく自分のいた個室に戻ろうとしていた。 慌てて呼び止めて「中、どうぞ」と声を掛けた後、振り返った彼の顔を見て「あっ…」と声が出る。 相手も俺の顔を正面から見て気付いたらしい。 「河原さん?」と訊かれた声に頷きを返しながら「長谷川さん、ですよね?」とこちらも確認と取ると、薄らと微笑んだ彼が「ご無沙汰しております」と言って丁寧にお辞儀をしてくれた。 俺も同じ言葉を返しながらぺこっと頭を下げ、扉の前を陣取っている身体を退かして再び「すいません、どうぞ」と声を掛ける。 「急がせたようでしたら申し訳ありません」 「ああ、いえ。もう出ようとしていたところだったので…」 「そうですか。暫くお会いしておりませんでしたが、その後何か生活でお困りのことはないですか?」 「あー、はい。特に問題なく過ごせてます」 「それは良かった。何かお困りのことがあればいつでもご相談くださいね」 そう言って微笑む彼を見て「相変わらず怖ろしいくらいに美形だなぁ…」と率直な感想を抱いた後に、頭の中にチラついて仕方がない彼の名前を口にするかどうかで迷う。 俺の目の前にいる男性は長谷川さんと言って、俺が今のマンションに引っ越す時に物件探しを担当してくれた不動産屋の人だ。 それはつまり彼が諒太さんの同僚と言うことであり、彼の顔を確認したと同時に俺の頭の中には既に諒太さんの顔が浮かんでしまっていた。 俺が突然諒太さんの名前を出したら変に思われるかな…と心配しつつ、それでも知りたい気持ちが勝って、結局彼に訊ねてしまう。 「あの、三森さんは…お元気ですか…?」 自然な話題の上らせ方がそれしか思い浮かばなかった。 元気かどうかは直接訊く手段を持っているけど…と思いながら反応を伺うと、彼が少し驚いたような表情で「三森、…三森諒太のことですか?」と訊き返してくる。 「あ、そうです。実はちょっと、知り合いって言うか…」 「そうだったんですか」 「はい。それでまあ、ちょっと気になって…」 「と言うことは、彼が片手を負傷していることはご存じない…みたいですね」 「…えっ?」 ”負傷”と聞いて俺が思い当たる節は何もなかった。 負傷?え?諒太さんが?どう言うこと? 動揺し始めた俺を見て彼も直ぐに説明をしてくれようとしたけど、立ち話をするような場所でもないとのことでやむを得ず二人揃ってトイレの中に入って話をすることになった。 「すみません、こんな場所で」 「いや、それは全然…」 「見られるとご都合が悪いでしょうから手短に話します」 それは俺が俳優だと言うことを知っている彼の気遣いだと分かり、感謝と申し訳なさを同時に抱く。 「お気遣いありがとうございます」と伝えると、一瞬だけ微笑んだ彼が直ぐに表情を引き締めて諒太さんの怪我について説明し始めた。 「先週の水曜日のことです。本来ならその日は定休日でしたが、三森は事情あって出勤しておりました」 それを聞いただけで色んな事情を瞬時に把握した。 諒太さんの休みは水曜だと聞いていたのに、二週連続で彼からは何の連絡もなかった。 誘い以外の連絡も殆ど届いていなかったから単純に忙しいのかなと思っていたけど、それが怪我によるものだったと理解して激しく胸が騒ぐ。 「詳しい事情は私の口からはお話し出来ませんが、勤務中に起きた事故とだけお伝えしておきます」 「じ、事故…」 「はい。幸い手首の捻挫だけで済んだようですが、利き手の負傷と言うこともあり公私共に支障をきたしているのが現状です」 「っ…そんな…」 捻挫がどの程度のものかは分からないけど、利き手が使えない状態での生活がどんなに困難かは想像が出来る。 仕事もままならない状態なのかと思うと、怪我の具合は勿論、彼自身がそのことに対して負い目を感じているんじゃないかと心配になってしまう。 「差し出がましいようですが、とてもご心配なさっている様子ですので、河原さんのご都合が宜しい時に一度お見舞いにでも行ってやっていただけないでしょか?」 「っ、も、勿論です!何なら今からでもっ……あっ、いや、」 それは流石に迷惑ですよね、と言って慌てて苦笑を浮かべると、長谷川さんは俺の心情を悟ってくれたような表情で微笑んで「三森ですから、大丈夫ですよ」と言ってくれた。 その言葉から二人の関係性が伺えて、じんわりと胸に温かい感覚が拡がる。 時間を確認しようと思ったらスマホを個室に置いたままだと言うことに気付いた。 俺の動きだけで理解してくれた彼が「まだ8時過ぎです」と教えてくれて、その言葉が後押しとなる。 「すみません色々と。諒太さんのことも、教えてくださってありがとうございました」 「いえ。三森の自宅はご存じなんですね?」 「あ、はい。一度お邪魔しているので、それは」 「…そうですか。では、彼のことを宜しくお願いします」 今後とも、と最後に添えられた言葉を聞いて大きく目を見開く。 それに対して長谷川さんは微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。 もしかしたら何か勘付かれてしまったのかも知れないと思いつつも今はそれをどうこう考えている場合じゃなかったから、彼に対して会釈をしてからそのままトイレを後にした。 今は長谷川さんのことよりも個室で待っている三人の方をどうにかしなければいけない。 お陰で理仁さんからの告白もどきに対する動揺は治まったけれど、今からどうやってあの場を抜け出せば良いか。 折角彼のような先輩が誘ってくれた食事の席だから、本来なら途中で退出するなんてあり得ない。 でも今はとにかく諒太さんのことが心配で仕方がなかった。 そのままの理由を伝える訳にもいかないだろうし、何か上手く抜け出す為の口実がないものか。 結局、良い案なんて何一つ浮かんでいない状態で三人の元に戻ることになり。 扉からそっと顔を覗かせると中にいた三人がこちらを向き、その表情に揃って苦笑を浮かべた。 「遅かったな。腹壊したのか?」 「うわ、前島さんデリカシーなさ過ぎ。葉太くんのこともっと大切にしてあげてくださいよ」 「してるしてる。めちゃくちゃ大切にしてるって」 なあ?と振られて咄嗟に「どうでしょう…」と苦笑混じりに答えてしまった。 それを聞いた前島さんが文句を言い始めたところで、理仁さんが思い出したように座席に置いたままだった俺のスマホを指差す。 「ついさっき鳴ってたよ。電話みたいだったけど」 「え?あ、すいません。ありがとうございます」 俺が席を外している間に席順は戻されていた。 前島さんの横に腰を下ろしながらスマホを手に取ってちらっと相手を確認すると着信はまさかの諒太さんからで、思わず「えっ…」と声を漏らしてしまう。 その反応を見て気を利かせてくれた理仁さんが「重要そうなら掛け直してきても良いよ?」と言ってくれたので、その厚意に甘えて俺は直ぐにまた個室の外へ出ることになった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |