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先生ごめんなさい。
葵くんのお母さんもごめんなさい。
それから、何かもう、色んな人にごめんなさい。

心の中で只管謝罪を繰り返しながら、ほんの一瞬、軽く触れるだけのキスを頬にしてあげると葵くんが嬉しそうに表情を緩ませた。

何の意図があってそんなことを言い出したのかは分からないけど訊くのが怖いからあえて訊かないことにする。
親しくなった記念の儀式だとでも思っておこう。
葵くんはまだ中学生だからそれで許されると思う。

先生には何があっても言わないけど。


「葵くん、今のはお父さんには内緒ね…?」

「わかってるよ。言ったら俺が怒られるもん」

「いや、今のは俺が悪いから。怒られるのは俺だから」

「じゃあいっしょに怒られる?」

「いや、ごめん。ごめん。お父さんに嫌われたくない」


怒られるのは不可避だろうけど、それ以上に色んな意味で呆れられて愛想を尽かされる可能性もある。

それは困る。
困ると言うか、いや、うん、困る。


「そんなことで嫌うような感じじゃなくない?葉太さんのことめちゃくちゃ好きじゃん、父さん」

「えっ…」


見てたらわかるよ、と言う発言は葵くんの口から出たものだから信憑性の塊みたいなもので。
何と返しても俺の知らない事実を武器に対抗されそうだったから、その場は笑って受け流すことしか出来なかった。


先生はその30分後くらいに帰ってきた。

俺の姿を見るなり「本当に帰ってなかったんだな…」と驚き半分、喜び半分みたいな顔で呟くから、口では「そりゃあいますよ」と返しつつ内心むず痒い気持ちになった。

だって、ただ帰宅を待っていただけじゃなくて夕飯まで作っていた訳だから。
しかも葵くんと仲良く二人で。

本当の家族になったみたいだ…なんて、少しくらい思ってしまっても仕方がないと思う。


「これも本当に君が作ったのか…?」

「いや、俺は殆ど葵くんの補助をしていただけみたいなもので…」

「そんなことないじゃん。葉太さんずっと、父さんの為に頑張ってたよ」


夕飯が並ぶ食卓を見た先生がそんな風に驚いた反応をするから恥ずかしくなって事実を伝えるとすかさず葵くんに否定された。
これまた恥ずかしい事実付きで。


「いやっ、まあ、そうなんですけどっ、そんな大したことは出来てませんし…っ」


と言う風に照れてすっかり動揺してしまっていたら、不意に先生が俺の腕を掴んだ。
そのままぐいっと抱き寄せられ、俺と葵くんの驚きの声が重なる。


「先生、」

「ありがとう」

「っ……い、いや…」

「夕飯だけじゃない。葵の面倒を見てくれていたことも、昨日からずっと、君が葵のことを思ってくれているのは痛いくらい伝わっていた」


その全てに対してだよ、と言われ、きつく抱き締められる。
それだけで先生のその気持ちも痛いくらいに伝わってきた。
葵くんの前で俺も抱き締め返して良いのか迷っていたら、横から葵くんが「俺からも、ありがとう」と言って抱き着いてきた。


「今まで色んな人に同情されてきたけど、葉太さんは一回も俺に”かわいそう”とか”辛かったね”って言わなかった。俺はそれが、嬉しかった」

「ッ……」

「葉太さんの優しさは全部素直に嬉しいって思える。誰かに甘えるのも苦手だったけど、葉太さんにはいっぱい甘えたいと思っちゃう。だから、…」


その後、縋るような切ない響きと共に伝えられた葵くんの言葉に対して、俺は迷いながらも「うん」と答えた。
その答えを聞いた先生が目を瞠り、それから瞳を揺らす。

俺の気持ちが正確に伝わっているかどうかは分からない。
俺の言葉は葵くんの為でもあるけど、それだけじゃない。
葵くんが言ったことを先生も望んでくれるのなら、それが先生の為にもなるのであれば。


「これからもずっと、父さんの恋人でいて欲しい」


うんと答えた俺に、葵くんは「さっきのが最後に出来なかった…ごめん」と言って小さく謝ってきた。
それが何を指しているのか理解したら少しドキッとしてしまったけど、先生はそれどころじゃなかったみたいで。
放心しているような状態の彼にふっと微笑み掛けると、先生は切ない表情を見せながら、そっと静かに息を吐き出した。


「…また葵に先を越されてしまった」

「え…?」

「葵に言わせるなんて卑怯だろう。その言葉は本来、私が言うべきことなんだから」


えっ…と動揺した俺に先生が、もう一度確認を取るように同じ言葉を口にする。


「これから先も、私の側にいて欲しい」

「ッ!」


今度は迷ったんじゃなくて感動してしまって直ぐに返事をすることが出来なかった。

ちゃんと先生からの言葉として言い直してくれたことが嬉しくて。
葵くんの前でも躊躇わずにそんな台詞を口にしてくれたことが嬉しくて。

込み上げる想いをぐっと堪えながら「はい」と答えると、先生は気が抜けたような表情で「良かった」と言って笑っていた。

難しいことを考えるのはきっと大人だけで、子どもはもっと自分の気持ちに正直に生きている。
本当は俺の方が二人の厚意に甘えているんだと気付いていたけれど、ちくりと感じた胸の痛みには気付かないフリをした。

それが出来てしまう俺は大人でもあり、正直な気持ちを我慢することが出来ない子どもでもある。


***


「駄目だ。頼むから送らせてくれ」

「いやだから、大丈夫ですって」

「大丈夫なんかじゃない」

「っ……じゃ、じゃあ、マネージャーを呼びますから。それなら良いですよね?」

「……そう言うことなら」


渋々了承してくれたのを確認して安堵の息を吐くと、先生がまた不満そうに眉を顰めた。

昨日の電車での件があったから俺を一人で帰すことが不安だったらしい。
先生が心配してくれる気持ちも分かるし凄く有難いんだけど、そんなことを言っていたら電車に乗られなくなってしまう。
そうなると生活が出来なくなるから困る。


「流石にここに呼ぶ訳にはいかないんで、別の場所で待ちますね」

「こんな時間でもどこへでも迎えに来てくれるものなのか?そのマネージャーとやらは」

「っ、ま、まあ…一応、送迎もあの人達の仕事ではありますから…」


と言うのは納得して貰う為に吐いた嘘で、本当にマネージャーを呼ぶつもりはない。
複数人を担当している俺のマネージャーをこんな時間に呼び出そうと思ったらそれ相応の理由がなければ難しい。

まあ、痴漢の被害に遭うのが怖いと言うのは真っ当な理由になるだろうけど。


「またすぐ遊びに来てね?俺、夏休みで暇だから」

「うん、分かった。またお父さんとお話して決めるね」

「絶対だよ?待ってるから」


少し寂しそうな表情で手を握ってくる葵くんの頭を撫でて「またね」と笑い掛ける。
それから先生に対してもお礼や挨拶をして玄関を出ようとすると、その前に伸びてきた先生の手が頭に乗せられた。


「気を付けて帰るんだよ」

「っ…はい。ありがとうございます」


ゆっくりと頭を撫でられる感覚を記憶に焼き付けながら「おやすみなさい」と言って微笑むと、漸く先生も表情を和らげてくれた。
穏やかな表情で「おやすみ」と返された後、葵くんも「おやすみなさい」と言って手を振ってくれる。
俺も笑顔で手を振り返しながら、最後に先生に対して「また」と会釈をしてから笹野家を後にした。

帰りの電車は座席に座ることが出来たから無事に痴漢の被害に遭うことなく帰宅することが出来た。
数日振りの自宅にまたもや懐かしさを抱きつつ、お風呂を済ませてから溜まっていたメッセージの返信をしていたらいつの間にか寝てしまっていたようだ。

翌朝目が覚めた時に溜まっている通知の数が増えていることに対してあたふたしながら急いで返信をする俺は、間違いなく幸せ者だろう。
マネージャーにはまた『既読無視するな』と怒られてしまったから平謝りしておいた。




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