きらきら眩しく光る海、穏やかな町の港。
潮の香る微風に髪を弄ばれながら、じっと前を見据えるひとがいた。
「Mi scusi.
すみません」
女性の後ろ姿に、最近覚えたばかりのイタリア語で声を掛ける。思わず抱き付いてしまいそうになる懐かしさを胸の奥に仕舞い込みながら。
「Si?
はい?」
俺の声に女性は海を見るのを止めて振り向いた。
さらさらの長い金色の髪と、太陽の光を受けてつるんと輝くオリーブグリーンの瞳。
どくんと心臓が跳ねる。
そして、「もしかして」は「やっぱり」になった。彼女の後ろ姿には、根拠もないのに自信満々な見覚えがあったのだ。
「Dove siamo?
ここはどこですか?」
この女性があのひとであることは間違いない。あとは彼女が俺を思い出してくれるかどうかだけだ。
とりあえず気を引くためにさりげなく道を訊くように声を掛けてみたが、久しぶりで少し照れくさかったし、どんなことを言えばいいか考えられなかったから、普段通りに歯を見せて笑ってみた。
「Eh?
えっ?」
海に埋められた白い足にぶつかり、波がわずかな水音を立てる。彼女の透き通る濃い黄緑に、自分の笑った顔が映る。
「―――Forse cercavi.
もしかして」
「Mi sai?
俺のこと知ってる?」
「…武なの?」
「Questo è giusto.
ああ、そうだぜ」
沈着な彼女にしては上出来な反応に、俺は自然とまた笑みをこぼした。過去の俺はこの人のこんな顔をみたことはなかったし、多分彼女の周りにいる人たちだってそうそう見ることはないだろう。
「久し振りだな、ひたき!」
「驚いた…本当に武?イタリア語巧いね」
「そうか?大分苦労したからな」
頭の悪い俺の口からイタリア語を聞く日が来るとは思い難かったらしい。俺がイタリア語を口にするたびに間が少し空くが、ひたきは嬉しそうに返してくれた。
「ひたき、どこか悪いのか?」
「ううん元気だけど。どうして?」
「…何でだろうな?俺もわかんねえ!」
再会には喜んでいるようだったがどこか悲しげだった。
理由は何も分からなかったが、俺の身に付きつつある外国語としてのイタリア語と、彼女の母国語としてのそれが交わされるなかで、何となくそう感じさせられた。
ミッドナイトブルーのハイヒールが、二人の間に座っている。
白皙の脚が海をかき混ぜる音に耳をさらしながら、何も考えずただひたすらシアンとブルーの境目を眺めていた。
「すっかり男前になっちゃって。見違えたよ」
「はは、惚れちまうだろ?」
「たしかに。
…もうすこし私が幼かったらね。」
それからときどき言葉を交わし、綺麗に澄んだ海の水面に向かって笑い合った。初めは昔と比べて違和感があったが、話している内に彼女が変わっていないことが分かってほっとする。
背中に吹き付ける風が太陽の前に雲を運んで辺りが陰ると、湿ったコンクリートの地面がわずかに冷たくなった。
「ちぇ、連れねえのな」
「何せ"連れない女"で通る今日この頃ですから」
「っはは、そうなのか?」
瞳を伏せ、やわらかく息を吐きながらひたきは笑う。整った微笑をする人だから他の奴ならそこに目がいくだろうが、俺は別の部分に釘付けだった。
彼女がときどき風で乱れた金の髪を掻き上げるとき、ある一本の指が輝くのだ。
「と、言う割には…」
俺はいたずらっ子のようにニヤリと笑いながら、片目を閉じ左の薬指を立てて示して見せる。
返事はなかった。
突如ひたきは何も言わずに立ち上がった。左手にハイヒール、右手には濡れたベビーブルーの雨傘を携えて。
「ちょうど昨日の晩 良いシャンパーニュを買ったのよ。」
舌の運びも滑らかにひたきはわざとらしく話を逸らした。
「私のだって睨みを効かせておいたから無事なはず。飲みにおいでよ。」
「そりゃありがてえけどいいのか?」
「ウチはアポなしでも構わないよ、武ならね。」
現時点での追求の限界を知った俺は、そのまま彼女の思うとおりに流されてやることにした。
「心配そうな顔しない!
あの人も快く迎えてくれるはずだわ。」
促され、太陽を押し上げるように立ち上がり ネクタイを緩める。
キャバッローネの屋敷にあがらせてもらうのは実に数年ぶりだ。(そうか、)ここはあの人らの町だったのかとようやっと思い出した。
「ディーノさんやロマーリオのおっさんは元気か?」
「うん、皆元気そのものよ」
彼女は一瞬はっとしたような顔を見せた。そして何も無かったかのようにウチは相変わらずむさ苦しいんだ、と笑った。
小さい車は俺と彼女を乗せて走る。屋敷に向かう途中の、車窓に流れる町並みが懐かしい。
ドアの内側にぶつかってゴトゴトと音を立てる刀を握りながら、数年前の曖昧な断片を引き出そうとしばらく頑張ってみた。
「ねえ武、海の方を見て。」
「ん?」
「――…綺麗な色をするでしょう、」
彼女の言った通り、どこまでも澄んだ青は目にも心地よかった。
今日のように彼女は 通り雨の後には必ずあの港へ通うらしい。そして、見えない果てを見つめるように ひたすら海を見ているのだ。
「私ね、この町の雨上がりが大好きなの。」
そういって彼女は、また笑んだ。そして、柔和な微笑みの横顔が機嫌の良い鼻歌を奏で出す。
もう一度 左の薬指の指輪について尋ねたあとだった。
雨上がりのうたを覚えてる
(ふふふふふんふん、ふーん ふん♪)
(山本 鼻歌。)
(あ、またやっちまってたか)
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