もうすぐ演奏会があるからと、私たちは二人で会うよりも練習に打ち込むことにした。
ふと思えば、もうしばらく私はローデリヒさんの声を聞いていないと気付く。
そろそろあの頭の上で揺れるマリアツェルや、彼の焼くトルテが恋しい。
ちょうどおやつの時間だからか、私の集中も切れやすい。
ローデリヒさんを思い出した途端無心の状態は崩れて、音にも散漫さが現れだした。
それに重なって、片手に電話の受話器を持って出ろと呼ぶ仲間の声。
「あなたの好きなトルテを焼きましたから、食べに来ませんか」
(タイミングが良すぎる!)
嬉しくなった私は、回りのによによした目にも気付かず顔を緩めた。
そして答えはもちろん「ja」――はい、だ。
ローデリヒさんに会える、彼お手製のこだわりトルテが食べられる、と気分はもう彼の家にいるよう。
そわそわしながら後ろを振り向けば、問う前に行ってきなさいと声がかかる。
音楽に真剣でもあり、理解もある仲間に恵まれて幸せだと思うのはいつもこういう瞬間だ。
「あなたに会うのは久しぶりですね」
「ええ、演奏会も近いですから仕方ないですね」
今のトルテもいろいろとこだわっているようで、しばらく待った後の一口目まで説明は続いた。
口の中に広がる甘味に、つい一瞬頭からヴァイオリンの音が消える。
「いつ食べてもおいしいです、ローデリヒさんのトルテは」
「当たり前です、この御馬鹿さんが」
「ふふ、その答えもすごく愛おしかったんですよ」
(本当は練習なんてほっぽりだして、毎日あなたに会いに来たかった。)
そう伝えるとローデリヒさんは紅茶を飲んでいて噎せたようで、失礼、とハンカチで口を拭った。
「どうしてあなたは私が言いづらいことをさらりと口にできるのか…」
本当に不可解ですよ、未だに。
そう言って襟を正すローデリヒさんの顔は、ほんのり赤く染まり始めている。
「私も…その、会いたかったですよ」
彼も確か私より演奏会が近かったはずだ。練習も大詰めの頃だろう。
そんな時に私のために時間をかけてトルテを焼き招いてくれたのは、つまりそういうことらしい。
始めから会いたいと言えば早いのに、そうできない彼が私は大好きなのだ。
「ローデリヒさん、今度の演奏会にはぜひ足を運ばせてもらいますね」
「おや、珍しい。」
「それでは当日はハンナ、あなたのためにピアノを弾きましょう」
偶然にも今回彼が演奏するのは、私の好きな音楽家の曲ばかり。
それでいて且つ私を思って弾いてくれるともあれば、これは行くしかないだろう。
普段はあまり他の人の演奏は聴かないのだが、そうも言っていられない。
「演奏会が終わったら、今度は私の家へいらしてください」
フランスさんから影響を受けて、今までと少し味付けを変えた料理を作ったんです。
そう説明すると、ほう、と興味深そうにローデリヒさんは頷いた。
「しかし、その頃にはあなたも忙しいでしょう」
「料理くらいなんでもありませんよ」
「この御馬鹿さんが。」
へらりと笑った瞬間、マリアツェルが揺れて叱責があり驚いた。
どうやら私はこれから小言を貰うらしい。いいですか、とそれは始まる。
「いつもあなたは大詰めになると無理をし出すのですから、私への施しよりも休むべきです」
今の段階でさえ既に隈ができているじゃないですか、と私の頬に彼の手が添えられる。
温かい手のひらが嬉しくて、注意されているのに笑ってしまった。
「…これからは一日に一度、あなたが無理をしていないか検査しますから」
電話のベルにはよく耳を澄ませて待っていなさい
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