(兄上、今日は何の日かご存知ですか?)
(ふふ……分かるよ、お前が着ているその着物でね)
(ねえ、兄上)
遠くから、私を呼ぶ声がする。
菊、菊、どこにいるんだい、と。
私はその言葉の半分を、繰り返すようにそっと口にした。
可愛い私の半身よ、お前は今どこにいるのだ。
生きているのか。
お前の顔が見たい。
「オー、菊!君こんなところにいたのかい!」
「……ジョーンズさん」
「家中探し回ったんだぞ。まったく、聞こえていたなら返事くらいしてくれよ」
「すみません。ぼうっとしておりましたもので、気が付きませんでした」
甘い香がほんのりかおる部屋。
窓際の机には、読みかけの本が一冊。
オランダさんから頂いたというハンケチーフも、飾るようにして置いてある。
あの年の誕生日から、この部屋は変わっていない。
「ここ……初めて入ったよ。何をするところなんだい?」
「いえ、特別な部屋ではありません。ここは、私の妹の部屋です」
「妹? 君妹なんていたのかい、知らなかったぞ」
「そうでしょうね。私の妹は―――……ハンナはある年の今日、忽然と姿を消しました」
ジョーンズさんははっとして、口を噤んだ。
何も言えないとは彼らしくもない。
しかし、彼が黙るとこの部屋は不気味に静かだ。
ああ、ここは私が彼を庇ってあの緊張した顔を解してやらなければ。
そう思い口を開いたときだった。
「なあ、菊!これから俺んちで君のバースデーパーティーしようじゃないか!」
「ばぁすで……?」
「君が楽しく騒げば、君の妹もきっとひょっこり出てくるぞ!」
私が何も言わない内からジョーンズさんはノリノリだ。
勝手に言い出して、一人で先に部屋を出て行ってしまった。
ため息を吐く。
妹が出てくる?適当なことを言う。
しかし、彼は私を元気づけようとしてくれている。
まったく空気を読まない彼が、私の気持ちを感じ取って。
彼らしくない。
嬉しくて、自然と口の弧が緩む。
「おーい菊?聞いてるかい?」
「え、ええ。これからあなたの家にお伺いするという話でしたよね」
「……君、今日は何だかぼーっとしすぎだぞ?」
「そうですね。一体何故なのでしょう」
何故かは分かりきっていた。
今日は私の大切な人が姿を消した日。
お気に入りの着物を着て、私の微笑に眩しいくらいの笑顔で応える―――
こうしてこの部屋に居て、目を閉じれば、彼女の姿は今でも鮮明に思い出せた。
私はもう一度妹に会いたいと念じる。
すると何かが通り過ぎたような風が起こった。
髪がふわっと膨らむ。
瞼の裏側の世界で微かに聞こえる、軽やかに走り去っていく蹄の音。
「―――あ。菊、」
「なんですか?」
「何かある。ほら、君の手元だよ」
「おや。これは………」
目を開けると、机の上に見知らぬ紙が一枚はらりとのっていた。
透けて見える文字。
不思議と高鳴る胸を抑えつつ目を通すと、紙には綺麗な字が並んでいた。
間違いない。ハンナの字だ。
震えてしまい、ほんの数行が読み切らないのがもどかしい。
「なあ、その紙には何て書いてあるんだい?」
「ハンナが英国に………」
「イギリス?」
「それから」
ハンナ、私の可愛い半身よ。
「誕生日おめでとう。と」
今日のよき日をお前と共に過ごせないのは残念だ。
こんな紙一枚で済ませたこと、今年一度だけは許そうか。
次はないぞ。
来年こそはきちんと私の胸に帰ってお出で、ハンナ。
誕生日おめでとう。
お前はちゃんと、幸せそうに笑っているのだろうか。
やはり私は、お前の顔が見たい。
うみのそとより
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