ああ、退屈だ。テキストを見ても勉強ができるようになるわけでなし。だんだんと眠気は募っていく。伸びで上半身をほぐし、次に腰を捻った。ついでに、最後列の窓際の席を確認してみた。
(……空っぽだ。)その席は、マフィアばかりの我が校内で最も危険とされる人物の片割れ、俺とは最近何かと関わりのあるあの子の指定席だった。
Unknown feeling
未知なる感情
ドアを開けると、どおっと風が吹き付けた。爽やかな風を顔に浴びれば、一気に開放感が体中を駆け巡る。
トイレに行くと言って教室を出て、屋上へ来た。誰もいない、まるで深い海の底のように静かな屋上。ほんのり鳥肌の立つような、不気味な感覚さえした。
違和感を胸に巣くわせながらも中央に向かって進むと、いきなり誰が駆け寄ってきて俺の体を押した。
ぐわんと視界が大きく揺らぎ、力に逆らえない俺は、そのまま後ろに倒れ込んでしまう。
「つぅ……一体誰だ、」
「よ」 胸部や腹部に感じる重み――俺の上に乗っている誰かを視認したのと、銃弾がすぐそこに飛んできたのはほぼ同時だった。
俺は思わず、悲鳴のようにも聞こえる大きな声を上げ、ちょっとしたパニック状態に陥る。
「………大丈夫、大人しくしてれば死なないから」
慌ててじたばたする俺を窘める女の子の声。俺とは真逆の、とても落ち着いたそれは、上から聞こえてきた。
「………!」
教室にいないと思ったら、最後列の窓際のあの子だった。
「あ、あなたは」
「あれがオラツィオとジョズエ。ふうん……片方なかなか良い腕してる」
彼女は男の名前を呟きながら、学校から近い建物の方を見据えていた。それから少しして、俺の上から降り、立ち上がって手を差し伸べたのだった。
「いきなりで驚いたでしょ、ごめん」
「いやいいよ。助けてくれたんだろ?俺のこと」
彼女がいなければ、俺は今頃向こうの建物から撃たれていたんだろう。彼女の手を取り立ち上がると、無言で頷いた彼女に「ありがとう」を言った。
「なあ、一つだけ訊いてもいいか?」
そして、今なら訊けると思い、屋上を去ろうとする彼女を引き留めた。
「――簡潔にね」
「え、と」
俺は口をまごつかせた。てっきり無視されるかと思っていたから、すっかり不意打ちを喰らってしまったのだ。
それから、噂を完全に信じているわけではないが、質問が彼女の気に障らないよう、少ないボキャブラリーの棚を必死に引っ掻き回していた。
「仕事だから。ただ、それだけ」
Qのまだ出ない内に、適切なA。あまりの堂々さに呆気にとられ、また、心が読めるのかとドキリとさせられた。
そして、それと同時にイラつきを感じた。俺はマフィアというものが嫌いなのだ(自分が跡継ぎなんて嘘だと思いたい)。奴らは仕事なんて虫のいい言葉で軽々しく人の大切なものを奪うから。
「仕事なら何でも許されるって言うのか。人の命を何だと思ってるんだ、あなたは」
彼女はあからさまに憤って見せる俺を冷静に見つめ、いなすように「知らない」と言った。淡々と言葉を紡ぐ彼女が悲しい。
「あなたを攫うのが仕事のあいつらを消して、あなたを守る。それが私が仕事。仕方がないの」
「"仕方がない"…………?」
彼女はこくりと頷いた。
「私が嫌だと言ったとして、依頼主は許さない。私に標的を殺せと言う。あなたに叱られても、私にはどうにもできないこと。」
仕事だからと尤もそうな理由を掲げて、堂々と人を殺している。しかし彼女はそれを喜んでいるのではないらしい。
「私はコマの一つにしか過ぎないの」
ひとたび指令を受ければ、余計な感情は捨て、持たず、ひたすら忠実に任務を遂行する。きっと、ずっとそうしてきたんだろう。
本当は、仕事だと自らに暗示をかけて心に蓋をしている。蓋の下で絶叫する心を必死に無視して、引き金に指を、命に手をかけているのではないか―――
「辛いんだな」
はっとして彼女を見る。思っていたことがすべて口から出ていたことに、気が付いた。
彼女は何とも言えない表情をしていた。
大人びた彼女の眼差しが、途端に年相応の幼さになっている。目とはこんなに大きく開くものかと思うほど見開かれた彼女瞳に日が差し込む。綺麗な緑色だと思った。
「すごい想像力―――」
確かに根も葉もない噂ばかりが蔓延しているせいで、誰もが彼女を恐れている。
けど噂する奴らと違って俺は何度も本人と向き合い、本人から話を聞いた。ろくに彼女と接したことのない奴らと俺が同じ印象を抱くわけがない。違っていて、当たり前なのだ。
「……そういう風に言われたの、初めて」
「そっか」
「やっぱり変わってる」そう言って、彼女は頬を薔薇色に染めてはにかんでみせた。それはこれまでに見てきた微笑や笑顔とはまた違うあどけないもので、思わず俺の胸はとくんと跳ねた。
「へへ。それ、いい意味でだよな?」
「そうかもね」
俺って単純だろうか。少し前までは友人から聞いた彼女の噂を信じて恐れてばかりいたのに、今ではそんなことけろりと忘れてしまっている。
彼女は物静かで大人びていて、仕事となると冷酷だけど、本当はそうでもないんじゃないかと思うようになった。
「仕事は辛くないよ」
「あ……」
一瞬何のことかと問いそうになって堪える。彼女が唐突に言い始めたのは、さっきの俺の漏らした言葉への返答だった。
「難しければ難しいほど、仕事を成功させればボスが褒めてくれるから」
彼女はまるで独り言のように、自分の手を見詰めながらすらすらと素直な言葉を並べた。まだまだ付き合いの浅い俺が言うのもなんだが、彼女からこんなに話してくれるのは珍しいと思う。
少しは心を許してもらえたのかと嬉しく感じる反面、こんなに彼女の内面に踏み込んだことを聞いていいのかと戸惑っている俺もいた。
「人を殺すのは悪いことだってわかってる。どんな人も、殺せば誰かが悲しむ。それでも私は、ボスの役に立ちたいの」
鈴を転がしたような綺麗な声が、一時途切れる。
風にかき消されてしまうような小さな声で、「確かにそう」「でも、ちょっと違う」と呟いている。その目はまっすぐ前を向いていたが、不安そうでもあった。
「仕事ができなければ、私はあの人の側にいることもできない。それは私にとって、人を殺すことよりも怖いこと」
俺は黙って彼女の紡ぐ言葉を聞いていた。彼女が語る理由は飽くまで彼女の都合で、やはり人を殺すことや仕事が正義になるということはない。
しかし、俺の彼女に対する印象は確実に変わっていた。彼女は感情のない機械なんかじゃない。噂のように、簡単に人を殺すひとでもない。大切な人の心が離れることに怯えている、俺や噂を回し信じる奴らと変わらない人間だったのだ。
「…――変だな、どうしてディーノくんにこんなに話しちゃってるの……?」
ひとしきり語った後、彼女は自分でも自分が不思議なようだった。俺はかなり貴重な場面に立ち会ったのかもしれない。
いや、そんなことよりも。
「今俺の名前……」
「ディーノくん、でしょ?」
彼女は当然のごとく、平然と俺の名前を呼んだ。
「う、うん………」
冷静に考えてみれば俺を守るのが仕事だというから知っていて当たり前かもしれないが、今まで君とかあなたとかだったせいで、大分驚いた。
「今日はいい風が吹いてる」
「そうだなあ」
今の彼女からは、もう怖さが消えていた。
(銀の檻、錠を揺らす金の鍵。)
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