「丸井ブン太」
その名がエアの口から出たとき、俺は何故だか心がざわついた。
4月某日、俺は東京の氷帝学園中等部に入学した。
早速慣れない地ならではのミスをして遅刻をし、実は入学式にも出られなかったのだが……そこらへんの云々はさておき。
以前から入部を決めていたテニス部の見学と、ちょっとした試合も終わり、俺は学園内に設置されたベンチに腰掛けた。
家の事情で随分前から持たされ、使っている携帯を開く。
待ち受け画面に、着信があったことを知らせる文字が表示されていた。
クリックすると、いとこの「ケンヤ」からだとわかった。
ケンヤは地元大阪にある四天宝寺中に進学予定だ。あっちとは少し日程が違い、俺はケンヤより一足先に、中学生になった。
こっちの都合を考えた時間に掛けてくれたようだが、生憎、部活見学が長引き、電話に出ることはできなかった。
まずそれを詫びようか、などと考えながら、電話を掛ける。
ケンヤは今朝の話をすると素直に納得し、大爆笑した。あまりにもしつこく笑うので拗ねながら、こっちの様子を話してやる。
その途中、ふと「エア」は大丈夫やろか、とケンヤが呟いた。エアは、俺やケンヤと同い年であるもう一人のいとこだ。
エアは大阪から出て、神奈川の立海大附属中に入学した。俺が氷帝に入学した、今日この日に。
エアが立海に行くという話を聞いて、かなり驚いた覚えがある。
てっきりケンヤと一緒に、四天宝寺に行くと思っていた。
「そんなに心配することあらへんて、エアを信じてやろうや。あいつが辛くなったとき、俺らが励ましたったらええ」
「俺もそう思うねん。けど……やっぱ、不安でしゃあないやんか」
何故ケンヤがここまで心配しているのかは、分からなくもなかった。
エアは社交的とはかけ離れた性格をしている。
おまけに、俺とケンヤを入れても片手で数えられるくらいの友人しか持たない、大変心を開くのが苦手な女の子だった。
そんなエアが、俺やケンヤから離れ、故郷まで離れてやっていけるのだろうか?
一瞬にして小学校までの記憶を巡らせると、信じてやろうと言った俺まで、不安になってきた。
「…エアには俺が、こっちの報告がてら電話するわ。お前はすべらん自己紹介でも考えとき」
「すべらんわボケ!拍手喝采、感動の嵐の自己紹介でデビューしたるから見とけっちゅー話や」
「はいはい、結果楽しみにしとるで。ほなな」
一息ついて、エアの名前を探し、そっとケイタイを耳元へと運ぶ。
長い待ち時間。留守番サービスセンターに繋がるか繋がらないか、ギリギリまで粘った。
「もしもし、どうしたの侑ちゃん。」
ようやくエアが出た。簡単に要件を伝えてから、「今家か?」と尋ねる。
そして「ううん、学校。」と答えるエアに俺は、思い出したように侑ちゃん呼びは止めるように注意した。
エアは面白がることなく、ごめんとだけ言って直してくれた。
それからの会話はすらすらと続いた。俺の今朝の話(エアは笑わへんかった)、
エアが一人暮らしを始めた話、俺にハリネズミの名前を考えてほしいという話。
「せやエア、立海のテニス部はどうやった?おもろそうか?」
「ううん、あんまり。レギュラー全員とやらせてもらったけど、すぐ終わっちゃった。男子の方は、何だか面白そうだったなあ」
「……言ったやろ、どうせ大阪出るんやったらもっと強いとこにしい。って」
「でも考えたんだ。頑張って立海が上に行けば、強い学校とも戦える。先に面白いことが待ってる。――ね、わくわくしちゃうでしょ」
ふと感じた違和感。
「エア、お前……関西弁はどないした?」
「ああこの話し方ね。あのさ、大阪人って偏見持たれてるじゃない?みんなボケやツッコミをするとか、話が得意とか、明るくて社交的とか」
決してエアは大阪や関西弁を恥じているのではない。
ただ、それらが持っている偏見と付き合うのが面倒なのだという。
違う、から。
自然な標準語で話しそれなりに過ごしていれば、エアは紛れ込むことができる。
目立たなければ、いくらかエアが苦手な人付き合いは減るだろう。
「それでええんか?」とは、言えなかった。
エアが決めたこと。おそらく待ち受けている、孤独。エアの選んだそれは、間違っているのかもしれない。
でも、信じて、応援して、エアが手を伸ばしてきたら、取ってやる。
「もう、ずーっとそれなんか。話し方」
「しばらくはそうかも。慣れるために。その内染み着いてきたら、家とか侑んちとか大阪でだけ、戻そうと思うよ」
「そうか。……お前標準語やとえらい取っ付きにくくなんねんな。あったかみも笑顔も、消えてしもうたみたいや」
「これでいいんだ。いや、これがいい。もしいるとしたら、これだけ無愛想にしても寄ってきてくれるような人じゃないと、一緒にはいられないと思うから」
そう決めた。
「侑、私、友達できたよ。」
あれからしばらく経って、エアはそう言った。
もうすぐ夏が来ようという日だった。
「へえ……ブアイソにしててか」
「まったく、物好きだよね」
そいつはエアと同じ赤い髪を持っていて、人なつこくて、食いしん坊で、とにかく明るくて社交的なひとらしい。
「……違うな」特に後半、食いしん坊から。と呟くと、エアはクスッと笑った。
まあ、違うって言い方も少し違うのだが。
エアは心を許した相手の前なら、人なつこいというか甘えん坊で、明るくて、よく笑う。
「ちなみにその物好きの子は何ちゃん言うん?」
「え、やだなあ。女の子じゃなくて、男の子だよ。『丸井ブン太』って言うの。同じクラスで席も近くて……」
初夏の日差しが俺をじりじりと焼いていた。
「あっ丸井君だ。手、振ってる!」
何故だろう、エアの口から出る名前を平然と聞いていられない。理由もなく、心がざわつく。
いや、理由はあるにはある。
どうしようもなく湧き上がる、焦りや不安。それらだ。
「丸井君て、髪が赤くても気にしないんだよ。すっごく元気なの。私も見習いたいな、と思ってる」
「……さよか」
エアに友達が出来た。嬉しそうな声で話してくる。共に喜び、祝ってやるべきではないのか?
この、「とられる」って気持ちは、何故起こる?
「ああエア、悪いけど跡部――ウチの部長が呼びよるわ。そろそろ電話切るな」
「うん。それじゃ、今晩ね」
「ん。ほなな」
ユーシ、誰と電話してたんだよ?
……内緒や
もしかして彼女さんとかだったりして。やるねー忍足
おいおい、決めつけんなよ。…で、誰だったんだ?
宍戸も気にしてんじゃん…激ダサだC
うっせ
変化
「…大切なひと。そんだけや」
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