白夜の森の花(N)




眠らぬ太陽が時間を閉じ込めている。

ノルウェーは夏の夜を独り行く。形にならない鼻歌は、黙する薄明かりの森に吸い込まれて響かない。


「……ハンナ……?」


ノルウェーは確信をもって、しかし少しの躊躇を込めて名を呼んだ。

沈黙の森に埋もれるように女は座り込んでいた。振り向かず、口を閉ざしているその様子は、音を吸う木々との同化を思わせる。


「おめぇ、ハンナだべ」


なして返事しない。

しゃがみこんで目線を合わせると、ようやく問いに反応を示した。くすんだ色のガラス玉がノルウェーの顔を映し込む。


「ちがう………」

「違わねえ。俺はハンナを見間違えたりしねえ」

「ハンナは消えたよ、いないの……」


女は確かにハンナという名だった。大きな瑠璃の瞳も、声も髪も顔も体も、すべてノルウェーの瞼に焼き付いたままの彼女そのものだった。


「なら、おめぇは誰だ?」

「分かんない」


ハンナはそわそわと落ち着きが無く、頻りに辺りを見回した。ノルウェーと目があったのは、彼女が己の名を否定した一瞬だけ。ほとんどの視線はノルウェーを通り越した向こうへ飛んでいた。

心も目線も、そこにはない。安全を確かめようと遠くばかりを見る姿はまるで、何かに怯えて身を潜める疑心暗鬼の弱者のようだった。


「……ひとり?」


迷いなく無言で肯定すると、ハンナはノルウェーの手を取ってそれは本当かと訊ねた。微かな震えが伝わってくる。ノルウェーはもう片方の手を重ねてぎゅっと握った。


「ハンナ、何があった?」

「…………ク……」

「あ?」

「ううん。何も」


森の中はぞくりとするほど静かで、彼女との距離は少し手を伸ばせば触れられるほどだった。それでも、ハンナの口の中の小さな声は聞き取れない。

救難信号のはずだったその言葉は、「眠れなかったから散歩してて、今は休んでた」と再発信を拒まれてしまった。


「――ノルウェーの手は温かいね。この手に握られていたら、良く眠れそう」

「そか」


つうと流れた涙の意味は、何も知らないノルウェーには感ずることができない。巧い慰めの言葉をかけてやれないのがもどかしく、ノルウェーは繋いでいた手を解いてハンナを抱きしめていた。

強張るハンナの体。ノルウェーは耳元に唇を寄せ、「ちょっと待ってれ」と囁いた。


「ノルウェー?」

「すぐ戻る」


ハンナは抱えた膝に顔を伏せながら葉擦れの音を聴いていた。そしてこちらに向かってくる足音を聞きつけ、それが一人分だと分かると顔を上げた。

不安げな表情が、ノルウェーを迎える。ノルウェーは一瞬訳が分からずきょとんとしたが、先に出会ったときの問いを思い出した。自分一人だと教えてやると、ハンナはあからさまに安堵して見せた。


「何があったかは分かんねえけど――元気出せ。これやっから、な」

「あ、ありがとう……」


しばらくして戻ったノルウェーが握っていたのは、飾り気のない野の花の束だった。


「俺がこんなことすんの、おかしいか」

「おかしい?」

「顔、ちょっとにやけてっぞ」


ノルウェーはハンナの隣に座り、目を瞑った。ふふ、と吐息を漏らしたのはハンナの方で、ノルウェーは拗ねたようにハンナのいない方を向いた。

黙って森の奥を見つめていると突然何かが頭皮を掠め、じわじわと地味に違和感が広がった。


「ふふ、うん似合う!」

「は……?」

「嗚呼だめ、触らないで」

「俺の頭に何した?」


先程の拗ねを引き摺って、ノルウェーの表情は若干不機嫌に近かった。しかし全くハンナは気にしていない。寧ろ愛おしげに見つめていて、ますますノルウェーは訳がわからなかった。


「ノルウェーがお花をくれるなんて、正直びっくりした……でも、すごくすごく、嬉しかった!」


くすんでいた目は、いつの間にか光を取り戻していた。そして、この森で摘まれたの花に負けない笑顔が咲いた。

ノルウェーは今までのハンナとのわずかな時間を振り返りながら、つられて頬を緩めていた。


「うん、元気出た!」

「良かったな」


生まれてこの方、あまり二人は一緒にいたことがなかった。元々ハンナの国は閉鎖的であったのに加え、ノルウェーはデンマークの家に暮らし、ハンナはスウェーデンの家に暮らしていたのだ。

デンマークとスウェーデンはお世辞にも仲がよいとは言えず、自ずと交流は減った。こんなに長い間側にいて、しかも笑い合うなんて夢のようだった。


「―――さて、そろそろ帰った方がええな。スヴェーリエ心配すっど」

「うん、そうだね」

「送ってく」

「ありがとう」


ずっと、ノルウェーはハンナとこうして二人で話したり並んで歩いたりしたかった。自分に向けられる笑顔が欲しかった。触れてみたかった。訳もなく、憧れていた。


「それじゃあノルウェー、またね」

「ん。"また"、ない」


次に彼女と会えるのはいつだろう。ノルウェーは「またね」に期待を込めつつ、そっと手を振り返した。

しばらく歩いて振り返るとハンナはまだ玄関先で、ノルウェーが贈った花の花弁を優しく指の腹で撫でていた。そしてノルウェーに気付くと、また少し手を振って家の中へと入っていった。


「……俺も帰っかな」


ノルウェーは夏の夜を独り行く。

柔らかな金の髪に、ちょこんと大人しく、可愛い花の飾り。しばし胸の温かいときめきに浸る。








白夜の森の花
(救難信号は受け取れず終い)




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