清穆の芽(魔法律/五嶺)




堅固な木製の門に守られた邸宅―― そこに男は住んでいた。

邸宅の見守る先には 実に多彩な木や花を擁する広大な庭があった。寒木瓜、柊、十月桜… どこを見ても瑞々しく咲く花がある。


(フゥン、)

閉じた扇子を鎖骨にコツコツと当てながら、若は一本の木を見上げていた。

それは庭の中央でどの木よりも高く聳える立派な楓だった。あと少しの間待てば、さぞかし大層な紅葉狩りができることだろう。


「見事なものでしょう」


穏やかな微笑をたたえつつ、男が邸宅から歩み寄ってきた。男は軽く一礼すると、また楓の木を眺める。

「これは、我が家の宝とも言えるものでしてね。」
「ヘェ、そいつぁすごい」

男がその楓の木について語り出したとき既に若は別のものをご覧になっていた。
俺は若のお側に控えながら、若の視線の先を辿った。


――― 女だ。

薄っぺらい白のワンピース一枚を着た、白蓮のように無垢な女がいる。女は楓の木の上で、こちらをじいっと見張っているようだった。


若も俺も、誰も話を聞いてはいないのに、男は気付かずに喋り続けていた。



***



色素の抜けた、銀色の髭がわずかに光っている。男に仕える年老いた執事が、遠慮がちに茶を出した。

(このところずっと、どうにも落ち着かないのです。)

そう始める男の目の狼狽えようは最早病的だった。


コイツ、相当キテんな。心の中でそっと蔑むと、男がさすっていた 男自身の肩から、湧くように霊が現れた。
原因はこれかと決め付ける間もなく霊は溶けてなくなる。

男の体がまるで神仏のように光り輝いていた。頭の頂から足の先までのすべてが、だ。

「一日中、誰かに見られているような気がするんです。」
「ほう。それはヒトではない何か――に?」

若は 邸宅の大きな窓から、あの楓をご覧になりながらおっしゃった。

木の上には女が未だにいて、眉間の皺を伸ばしていた。きっと若がご覧になっていたのは、女の手に僅かに残った光の名残だ。

「ええ、私 ひとの気配には敏感なのですが、それが全くないので…」

光の残骸は、男がさっきまで帯びていたものと同じ色をしていた。男は若と俺の目の意味が分からず、首をかしげる。
なるほど。男は霊の見えない霊媒体質、というわけか。


「そうだねぃ。少し、様子を見るとするか」



***



数日後、もう一度 楓の邸宅を訪れた。
依頼主の男は 木製の門の前で若の到着を待ちわびていた。

「どうしたんだいおまぃさん、そんなに大きなクマを飼って。」

「はは… どうやら霊の怒りとやらを買ってしまったようでしてね、
このところ毎晩、よく眠られないでいるのですよ。」

男が戸を開くと、数日前と変わらない木と花が目前に広がった。しかし、どうにも以前に感じた賑やかさが感じられない。

庭の中心には、ぽっかりと大きな穴が穿たれた跡があった。


「ところで、あのご自慢の木はどうしたんだい?」

何事もなく我々を屋内へ迎えようとする男を引き留めると、あああれですか。と渇いた男の喉を空気が出入りする。

「あの日ふたりが帰られた後に、切ったんです。」
「…切った?」

五嶺さんもエビスさんも、あれを気になさっていたでしょう?ですから、あの木が災いの元なのかと思いまして。


力ない口調を裏付けるように、男の周りには無数の霊が行き交っている。

霊共が代わる代わる男に触れると その度に男の体は光りを放ったが、光はあからさまに淡く、溶けて消えるはずの霊も 負傷に留まっていた。



 
弱った男を捨て置き、五嶺さまは男の横を歩かれる。そして、曾ての面影のない切り株の前にしゃがまれた。


「あたしは五嶺陀羅尼丸ってんだ。」


切り株の上には、男と同じく 弱った女がいた。

「おまいさん、名は?」

かえでと名乗ったその女はまるで同じ服だったが、今の俺には、あの白いワンピースがどうしても、ベッドのシーツ――健康を否定するものにしか見えなかった。

「早速だがかえで、お前があの男を守っていたのかぃ?」


「………かえで?」

男が、はっとして声を出した。

「今、かえでとおっしゃいましたか?」
「ああ、言ったねぃ。それがこの娘の名だというんだから。」

少しの沈黙を置いて、男はバッと立ち上がる。

巫山戯るな、と一言吐き付けて。


「かえで――… 姉さんは、10年も前に死んでいるんだ!」

大量の霊共を引き連れて、男は邸宅の中へと走り去った。誰も男を追いかけようとはせず、ただただあの霊の付いた背を見守った。



***



男が去ってしばらく、予報になかった雨が降り出した。

(わたし、秋の雨って風情があって好きなんです)

そう言ってかえでは笑って見せた。汚れのない明るさだ。しかし笑顔の力強さとは裏腹に、その体は悪霊化の波に蝕まれていた。


「かえで、この世に長く留まることは 罪に値するんだ。」
(――存じ上げております)

なら、話は早いねぃ。若の目は鋭い。


「今からお前を裁くが…覚悟はいいね。」

五嶺さまの白い手が、温度のないかえでの頬を撫でられる。撫でた場所からは、透明な溶けた皮膚のようなものがにじみ出た。


「―――え、」

かえでが頷くより早く、ぼとりと何かが落ちる音がした。

男が、己の差す分と、我々二人の傘を小脇に抱えて戻ってきたのだ。そして男の足下では落としたばかりのもう一本が濡れ始めていた。


「姉さんを裁く?」

霊を見ることが出来なかったはずの男が、まっすぐにかえでを見据えていた。


かえでの存在を否定していたときが嘘のように一変していて、男の体の硬直は 死神に直面したかと思わせるものだった。


「そうさ。この娘は本当によくおまいさんを守っていたよ。」

恐がりの弟から、霊視の能力を奪ってやるまでするんだからねぃ。

五嶺さまはブワッと傘を、そして魔法律書を開かれた。男に姉との遅い再会を実感させてやる間もなく、書の中心が光り出す。

「姉は、死んでからもずっと……」
「おまぃさんがあの楓の木を切らなければ、ねぇ」

「じゃあ 今まで私を見つめていたのは――…」


囁きを合図に、地獄の使者が地よりその醜い姿を現した。

ようやく事の真相に気付いた男の前で、使者が駕籠にかえでを乗せる。そして、呆然とする男を置き去りに 使者は駕籠を担いで歩き出した。


「ま、新しい守り神でも雇うことだねい。」


男にとって無情に、若はお笑いになる。

「姉さ、ん!」
「無駄だ。かえでの地獄行きは止まらん。」

「それとも、執行妨害でおまぃさんも一緒に罰してやろうか?」


男は駕籠を捕まえていた手を放し、がっくりと項垂れた。使者が足を止めているその間、かえでが駕籠の小さな窓から男を見ていた。


 
かえでは駕籠の暖簾を腕押しして手を出そうとしたが、脱走しようとしていると見た使者の妨げによって叶わなかった。
しかしまだ諦めきれないかえでは、小さな窓から無理矢理手を通して男の頭を撫でた。
やはり、その手に温度は存在しなかった。





「あなたが病で死んだときも、こうだった。」


男はかえでの生前の最期と今とを重ねていた。

医者の言うことを聞かず死にかけの体で家を飛び出し、大好きなワンピースを着て、大好きな楓の下で大好きな雨に打たれ、短い生涯の中で最も愛した弟に看取られ亡くなったのだという。

ちょうど今のように、今にも尽きそうな命を燃やして笑い、死にゆく己よりも悲しそうになく男を励ましていた。


「幾ら悔やもうと、姉はお前とは生きられぬ身。」

「そう…ですね。
二度会えただけでも、有り難い」


男は袖で涙を拭いかえでの入った駕籠からゆっくりと離れた。五嶺さまの目配せがあり、使者は鈴を鳴らしながら 再び歩き出した。


(ああ、何て心地の良い鈴の音なの―――)









「五嶺さん。お久しぶりです!」

その後文を読んだ若が俺を連れて男を訪ねてみると、男は見違えるように健康的で、それに活き活きとしていた。


「元気そうだねぃ。別人のようじゃないか。」
「ええ、おかげさまで。」

「調子は―― 訊くまでも無さそうだねえ」


広い庭の中央に座る切り株には、白の傘が供えられていた。

文の語りによれば、かえでが逝ったあの日以来、霊は見るが すっかり取り憑かれることは無くなったのだという。


「残念だよ、」

「おまぃさんは払いが良いから気に入っていたというのに」
「気に入っていただなんてそんな心にもない冗談を。」

「いいや?冗談なんかじゃないさ。」

歳も近いせいか若と男はよく話の中で笑い合っていた。(莫大な報酬金に 少し上機嫌になっているのもまた事実だが、)


これは、かえでが願ってやまなかった光景だったに違いない。


「しかしまあ、本当に残念だねえ」


ひょいと傘を避け、若は会話の途中に俺を呼んだ。ずっと持っていた物を渡すと、若はそれを切り株の上に置いた。

切り株の上では、こぢんまりとした赤が燃えている。


「こんなにちっぽけな葉じゃあ、ちっとも愉しめやしない。」


切り株の上に新たに芽吹いた一本のそれは、今朝五嶺さまが手折った楓の枝の隣で つやつやと光る。

五嶺さまは、つんと上向きの新芽をつついて、にこりと笑われた。




清穆の芽

「お疲れさん、かえで。」




あきゅろす。
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